ソフトウェアエンジニアリングの世界において、長い歴史を経て時代に取り残された遺物はレガシーと形容される。
レガシーシステムやレガシーコードなど、基本的に良くないものとされている。
これらの質が悪いところは、「今現在において稼働している」という純然たる事実が存在することである。
自身の技術力を高めることを怠り、もはや今の技術についていけなくなった人材を、ここではレガシー人材と呼びたい。
レガシーシステムと同様、今現在稼働している組織の一員として、彼らレガシー人材は存在する。
それは現在動作しているシステムを作り上げた実績、また、これまでに培ってきた時間によるものである。
調整力やマネジメント力といった測りにくいものとして表現されることもある。
実態は、ただ長く生きただけの動物が神秘性を帯びて見えるのと同じレベルのものでしかない。
実際に調整力やマネジメント力に優れた人材がいることは否定しない。
むしろそれは尊敬に値する人物であるし、得てしてそのような人物は自身の能力を高めることを忘れたりはしない。
ただ技術力が低いだけのことが、周囲にどういった悪影響をもたらすというのだろうか。
大きく分けて2つの問題があると考えているが、どちらも組織の士気を下げるという点で共通している。
1つは単純に技術力不足による問題。彼らが作り出すプロダクトは、時代にそぐわないか、あるいは品質が悪い。
そしてもう1つは、技術力においてレガシー人材に勝る人物が、彼らよりも低い評価を受けることである。
組織に加わるメンバーは、程度の違いこそあれ技術力を重視し、組織も彼らに技術力を求める。
しかし実際に見るのは、自身よりも技術力が低いにも関わらず、高い評価を得るレガシー人材である。
彼らが作り出すプロダクトは品質が悪く、そのくせ何故か評価だけは高い。
苦労して改修したシステムがレガシー人材によって汚染され、その上でレガシー人材が高い評価を得ている状況は、簡単にエンジニアの精神を歪ませる。
仕事に対する熱意はなくなり、技術への執着も忘れてしまいかねない。
しかしながら、今現在稼働しているシステムであるところのレガシー人材を、簡単に排斥することはできない。
我々はレガシー人材と折り合いを付ける術を学ばなくてはならない。
そしてそれには「あらゆる場に同席すること」が良策であると考える。
余計な会議に参加したくない。集中を途切れさせたくない。
エンジニアとしてこれは当然の発想であるが、これでは状況は悪化するばかりである。
退屈に耐え、感情を押し殺し、静かに自身の発言力を高めていく。
今年はそういう年にしたい。