そんな気がした。
初めてデスソースを見たのは、よくイオンモールの中に入ってる青い看板のコーヒー屋。ずらりと並ぶ赤いソースに釘付けになった。
面白そうだし使ってみたいと思い、そこそこの金額を払ってしまった。衝動買いなんて滅多にしないことだったからわくわくしてた。
で、使った瞬間に後悔した。
買う前はこんなに辛いとは思わなかった。確かにラベルには「適量は料理にほんの一滴」って書いてあったよ。でもそれにしても辛すぎるでしょ。せっかくの野菜炒めがおじゃんになってるでしょ。
でも払った金額を考えると、その場で捨てるのがすごくもったいなく思えた。食べ物は無駄にしたくないとか、こんな時に思ってしまった。
ほんとにいかれてると思う。ネットを見るとデスソースてそこそこ人気なのね。ヤバイ!とか言いながら挑戦して辛かったねーとかほざいちゃってさ。
デスソースに手をつけないようになって数ヶ月経った(もちろん初めて使った時から数ヶ月だ)。デスソースは一向に腐る気配がない。いや、腐れよ。さっさと腐って捨てさせろよ。
更に半月経った。流石に使わないと減らないという現実に向き合い、いろいろな方法を試した。
ならば中辛カレーの中で目立たなくなれと思ったが、デスソースの圧倒的な存在感はカレーを凌いでいた。
特に炒め物のソースとして使った時はひどかった。デスソースを少し入れて炒め始めただけで咳が止まらない。玉ねぎの比じゃないくらいに目が痛い。結果できたのは蓼食う虫を殺せるほど真っ赤な炒め物だった。
でも全てが失敗に終わったわけじゃない。たまに辛いけども美味しい食べ方を見つけられた。それはもう限りなく低い確率でしか見つからなかったけども、一つ見つけただけで勝ち誇った気持ちになれた。
デスソースが憎たらしいことに変わりないけども、憎たらしさを通してデスソースをどう扱うべきかを知った。じゃがいもと一緒だと比較的美味しくなるとか、炒めてる時は呼吸したら死ぬとか、そんなものだ。
デスソースはまだ3分の1も残っている。でも一気に使うと腹痛を引き起こすから、少しづつしか使えない。
デスソースなんてものは、なくたって生きていける。世の中を生きる大抵の人はそうだ。デスソースなどという大台に乗るよりは、百均で売ってるラー油を選んでちょこちょこ使う方がよっぽど精神健康上すばらしい。デスソース購入とかいう損しかしない選択をしたことで、幸せになるために自分から動かなくてはいけなくなった。決して楽じゃなかったし、費やした時間はすごくもったいないと思ってる。
しかし残り3分の1になったデスソースを見て、これまでのことが頭をよぎる。喉を焼き尽くす辛さを初めて感じた時は、ひどかったけれどなんか笑けてくる。咳を繰り返したことも、今考えると激しい笑い話だ。
振り返らないと、幸せってわからないものだ。嫌な記憶は忘れられなくても、気がつくと風化されて、よくわかんないけどいい思い出だったんじゃない?ああそうだったわねと記憶を捻じ曲げてしまう。人間って幸せに対して異常にがめつくできてる。
あくせくソースの量を減らしていた時間は長かったし、先もまた長いだろう。
一つ気になることがある。
これから先、数ヶ月後。空っぽになったデスソースの瓶に向かい合う時、憎しみを感じていた自分は、何を思うのか。
お前なんか好きじゃない。青いコーヒー屋でまた見たとしても、もう二度と買わない。
でもお前がいなくなるまでは、ずっと大切にするからな。
そう言いたくなった。