増田を見ていると、ようはコミュ障で人付き合いが不足してるから悩んでるだけだな、って気づくことが多い。
たしかに瞑想と運動を推す声もわかるけど、そういう小手先の処世術よりも、
そもそも人付き合いが足りてないから、どうでもいいことに悩むんだよ、と声を大にして言いたい。
自分の意見が正しいかどうかなんて、結局は自分の周りが同意見かどうかで事足りる。
増田で悩みを吐露してる人って、自分の意見に同意してくれる人が少ないか、いないから悩むんだよね。
「なぜ生きるのか」みたいな哲学的疑問って、基本的に孤独だから立ち現われてくるもの。
なぜか知らないけど、人間関係で揉まれていると、そういう疑問すら浮かんでこないんだ。たぶん本能的にね。
そういう疑問には究極には答えがなくて、ただ「そうしたいから」としか言えないんだけど、
なぜ「そうしたいか」といえば、自分の周囲がそう思っているから、としか言いようがないこと。
なぜ葬式に黒い服を着るのか。周囲がそれを葬式衣装と思っているからでしょう。昔の日本では白い服を着ました。
どっかの哲学者が「人は他人の欲望を欲望する」って言ってたけど、本当に正しくて
ああしたい、こうしたい、こうはしたくない、ああはなりたくない、
ってのは芯の部分で他人の欲望を内面化していることにほかならないのよ。
逆にいえば、多くの人間関係の中で生きていると、何もない実は空っぽな自己と向き合う必要も余裕もなくなるから、
必然的に答えがないような問題に直面することがなくなる。どんなに掘っても自分の中には答えがないの。
DQNはDQNに囲まれて生きるからDQNであることは恥じないし、富裕層は富裕層に囲まれて生きるから自らを強欲だとは思わない。
ほとんどの人間が健全に生きられるのは、何が健全かを悩まないからで、何が健全かを悩まないためには
とにかく他者との関係性の中に埋没し切るしかない。内面に脳のリソースを使わない。これに限る。
よく言われる「現実を見ろ!」って叱咤の声は、ようするに「他人(=社会)の期待を生きろ」と言ってるに等しいの。
他者との関係性の中に埋没していれば、何が社会の期待なのか皮膚感覚で分かるし、
それが合理的か非合理的か、倫理的か背徳的かなんて考えなくとも、当然のようにそれを「欲望」できるんだもの。
なんか団塊世代っぽい論だな。 この話の背後には生い立ちによる人間嫌いや、孤独の愛好という良い意味でのゆとりが含まれていない。 孤独は豊かなことだと思えない人なんだろうか。...
わかってねえな 人間関係に揉まれている状態だと「一人になりたい」という低俗な悩みを抱くことになるんだよ 「なぜ生きる?」「なぜ結婚する?」「なぜ子育てする?」に悩める贅...
バカだな。特定個人の自然状態が社会の期待の状態と近いから人間関係を作ろうとするだけ。 乖離しているから孤独になる。 典型的な因果関係の取り間違え。
近代的自我が発生する前の時代の人はこうだったのかなという感じ 日本には近世が保存されているのかもしれない
前後関係が逆で、 コミュ賞で孤独だから人間関係にとけこめないのではなくて 人間関係にとけこめなかったからこみゅ賞で孤独になっているのだと思うのだけど、 それを甘んじて受け...