世の中には、「向上心」病の人たちがいる。
いわゆる成長欲求を持って、自分の人生の充実のために突き進んでいく人たちだ。
彼らは時に社会人として、時に独立して、時にフリーランスとして、「新しい生き方を提案」して生きていく。
彼らの多くは成功者であるし、時に結果を出して人生の「勝ち組」と呼ばれる部類に入る。そして後の世代に向けてメッセージを発信したりする。
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僕自身、その生き方を肯定も否定もするつもりはない。ただ、一つの生き方として尊重すべき生き方だと思う。
ただこの生き方に関係なく、生き方に優劣をつける思考だけは理解できない。どんな生き方も尊重されるべきだし、成功や失敗はその基準ではない。
僕が違和感を覚えるひとつの原因は、彼らの多くは「絶対こうしたほうがいいよ」と語ることだ。
どんな生き方にも悩みはあるし、人との対話を経て人は成長するものだとは思うが、彼らの多くは「君の人生のためにこうしたほうがいい」と自分のケースを教えてくれようとする。
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勿論、成果を出したり、自分自身が納得して生きている人の言葉は重みがあるだろう。ただし、同じ目的を持った人にとっては。
あらゆる人は社会的成功や地位や名声や人望や収入や承認欲求のために生きているのではない。
例えば、もっと根本的な「お腹いっぱい食べたい」を目標にしている人だっている。
むしろ、僕自身はそういう人の方が多いような気がする。人生を充実させるとか、誰よりも稼ぐとか、そんなことよりも、今目の前の人と楽しく話せたらいい、とか思ってる人の方が多いように思う。
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また、求めてもいないのに「正解」を答えるのも滑稽だ。
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「お前も武器持って戦えよ。
村人Aでおさまってるようなモンじゃねぇだろ。
と言ったとする。
きっと世の中のためにもなるんだろう。
でも、村人Aは村人Aでいいのかもしれない。
村人Aの人生で満足しているのかもしれないし、迷ってるのかもしれない。
愛すべき家族がいてただこの村に居れればいいのかもしれない。
いずれにせよ、
というのは圧倒的な決めつけだし、
ある意味では正しい、というのが乱暴だ。
それを民衆が見てる前で言ったとしたらどうなるだろう。
魔王を倒してほしい民衆も、村人Aに「そうだそうだ」と言うだろう。
村人Aがそれを望むか望まないか
村人Aの人生のためにそれでいいのか
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そういう意味ではないのだ。
もっと深く考えるべきなんだ。
向上心を持った人は、自らの振りかざす正しさの乱暴さを知らない。