子どもの頃、母はわたしが何をしても怒り狂い、問い詰め、暴力をふるう恐ろしい存在だった。
小学二年生の冬に校外学習があり、リュックサックを持って行く必要があった。その日は冷たい雨が降っていて、母は雨なら中止のはずだと言い張って、どうしてもリュックサックを持たせてくれなかった。学級担当はヒステリックな女性教諭で、忘れ物をすれば、みんなの前で泣くまでののしられるのが分かっていたので、どうしようもなく追い詰められたわたしは、お昼休みに空き教室に隠れることにした。もうこの世界から消えてしまいたかった。
しかし、そう簡単にことは済まず、生徒が一人行方不明になったということで、学校は大騒ぎになった。名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、いろいろなことが怖くて出ていくことができなかった。
わたしを見つけたのは初老の校務員だった。彼はわたしを叱らず、校務員室で温かいお茶を飲ませてくれた。ほっとしたあまり、わんわん泣いてしまった。数少ない、大人に優しく接してもらった思い出の一つだ。
今になって振り返れば、母もつらかったのだと思う。わたしを産んだ後、母は体調を崩したらしい。パニック障害を患っていたと後で聞いた。もともと友だちがほとんどおらず、同じマンションの主婦たちからも陰口を言われ、営業をしていた父は遅くまで飲み歩いてなかなか帰ってこない、祖母とも折り合いがよくない、その後に産んだ弟はアトピーとぜんそくで病気がち。その全てのストレスを、感情の赴くままに幼かったわたしにぶつけ、解消していたように思う。
そんな母もすっかり老いた。幼いわたしにしたことはすっかり忘れ、まるで最初から良い母であったかのような態度でいる。今は離れて暮らしていて、ほとんど会うこともないけれど、わたしの誕生日には必ず、「冷たくされてもいつもあなたを心配しています。返事がなくてさみしいです」などというメールを送ってくる。一応は読むけれど、返信はしない。いじめた側は簡単に忘れるけれど、いじめられたほうはいつまでも覚えている。まさにその構図だ。
大人になって、母がつらかった気持ちは理解できたけれど、抵抗できない子どもにストレスをぶつけ、暴力をふるっていた事実については、今後も赦すつもりはない。それは、子どもを身勝手な理由で虐待して殺した親のニュースを見たときに感じる嫌悪感と同質だ。
どんなにつらくても、してはいけないことがある。それをしてしまい、きちんと反省も謝罪もしないのなら、相手が自分のお腹を痛めて産んだ子どもであったとしても、赦してもらえないのは当然のことだと思う。