2014-10-30

増田夢十夜 第二夜

こんな夢を見た。

眼前には長い坂道が広がっている。ハンドルを握る手には振動と向かい風。私は坂道自転車で下っている。高校からの帰り道。坂道から見える街並みを覆うように水平線が広がっていて、今居る地点の海抜が高いことが分かる。

後ろの荷台には女が乗っていた。私の腰にしがみついて、走り出す時に力をさらに込めた。振り返るわけにもいかぬ。女の様子を教えるのは手から伝わる力と、女の声だった。

「こわくないよ」と震える声で言った。「ちゃんとハンドルを握れば平気」

横幅の広い坂道には、下りを妨げるものはないようだ。坂道の下に横たわる、坂道よりもさらに広い国道をめがけて、私たちは速度を緩めることなく二人乗りで下っていく。ハンドルを握る力はおそらく彼女に伝わる。安心させようと力を強くする。耳の側を流れる空気の音が次第に大きくなった。速度が増している。連れて緩やかに水平線が下っていく。その速度も増してゆく。やがて街で一番高い建物に水平線が差し掛かる。

女と私は同じ高校に通っていた。小学校中学校も同じ、住まいも近いので、子どもの頃からよく顔を合わせていた。中学校に上がったばかりのころは疎遠になったが、高校で同じ学級になったことで、再び話すようになった。

私の母は、幼なじみというものはそんなものだと笑った。意図せずに関わるだけの理由がある。お膳立てされた関係なのだから、そう簡単には離れない。それがお前たちなのだ、だからせいぜい仲良くしなさい。

年頃の私を揶揄っている。私は母の言葉を聞き流した。反面、そういうものか、と納得したりもした。

確かに、家が近いというだけで、私たちはよく顔を合わせ、一緒に帰宅していた。何度も連れ立って坂道を下った。それぞれ自分自転車に乗って下る、走り慣れた道だった。どこに危険があるか、どこで速度を増すか、どこでブレーキをかけるべきか。私たちはちゃんと知っていた。「こわくないよ」と、彼女はよく言っていた。ハンドルさえとられなければ。ブレーキが壊れさえしなければ。私も同じく怖さは感じていなかった。彼女と競って坂を下るのは、私にとってむしろ良き刺激であり、私たちの間に横たわる良き交歓であった。意識されない恐れと注意がその歓びを裏打ちしていた。

その日、私は放課後彼女から想いを告げられた。私たち付き合おう、と言われ、私は自然に頷いた。あなたも私のことが好きなのでしょう、と問われ、私は否定できずに再び頷いた。私からも何か言ったような気がするが、言葉は思い出せない。まるで霞に自分の声を当てるような心地であったことを覚えている。霞の正体は甘い気持ちだ。これまで交わした会話の集まりだ。幼い頃から感じていた予感だ。つまりつかみどころのない不確かさであった。

「こわくないよ」と彼女は言った。

校舎から帰ろうとした私たち担任教師が見つけ、声をかけてきた。いきなり「お前たち付き合ってるのか」と問われ、彼女は「そうですけど」と答えた。

交際もいいが勉強大事だ、受験に影響がないように。だがせっかく相愛なのだから、一緒に将来を考えていくのが良いだろう。そうした趣旨のことを私たちに告げたあと、彼女に向かって「内緒にしといたほうがいいか?」と小声で聞いた。私はそれを聞いて、言いふらすつもりなのか、と呆れた。

彼女は背筋を伸ばして「今日からは何も隠しません」と言った。教師は笑って去っていった。

「なんだか照れるね」と彼女は微笑む。自分の耳が赤くなっていくのが分かる。見ると、彼女の頰も赤くなっている。将来を考えよう、と言うと、彼女は私の腰を叩いて、急にどうしたの、と笑った。私の本心であった。

私たちは今はわずかに確かさを得た。意図して関わる理由ができた。だが、意図せず関わる理由が消えてしまったことを寂しがる気持ちも湧いた。確かさを求める心根の一方で、将来に飲み込まれていくはずの不確かさを私は愛でていたのだと気づいた。

今も背後の彼女の頰は赤いか。確かめようもない。私たちは坂を下ってゆく。ハンドルを握る力を加えて、それに応えるように、彼女は「そのまま。そのまま」とつぶやいた。「ブレーキなんかかけないで」

私たちは目に見えぬ霞の中をゆく。確かな背中の重みが増していくように感じる。今や水平線はかき消えて、街並みに隠れてしまっている。最も速度が出る地点だ。ハンドルを握る手には振動と向かい風。そう簡単には離れない、それがお前たちなのだ、と母は言った。こわくないよ、と彼女は言った。私は初めて、走り慣れた坂道を怖いと思った。

「このまま行こう」

彼女背中で声をかけた。

返す代わりに、私は確かにハンドルに力を込めた。

坂道が終わろうとしている。傾斜は緩やかに、国道へと伸びている。私たちの育った街へ向かっている。街は霞に覆われているように見える。街は私が愛でた不確かさに満ちていた。おそらくは彼女も愛でたであろう不確かさであった。その霞の中にあっては、確かなものなどほんの一握りに過ぎず、私たちは不確かさを密かに愛でることしかできないのだ。

「まっすぐ。まっすぐ」と彼女は声を上げる。恋人になったばかりの日、彼女は賭けの言葉を発した。

「このまま行けたら、私たちずっと幸せになれる!」

頰が赤くなる。風のせいか速さのせいか。あるいは恐れのせいか。私はもはや賭けから逃げることはできないようだ。私の身体はハンドルを握る以外の動きを許さなかった。

「こわくないよ」と彼女は告げた。

国道を横切ろうとする私たちをめがけて、当たり前のように車が走り込んできた。

見えぬはずの霞がいっそう濃くなった。

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