こんな夢を見た。
赤子の声が薄暗い部屋に響いている。
泣くような、誰かを呼ぶような様子の声が響いている。程なくして親が戻って来て、私の前に座った。すると赤子の声は収まった。私の前で赤子は鳴いていた。
「すまない。様子を見てもらって」
私の学生時代からの友人は赤子をひとつ撫でて、私に目を向ける。「何の話だったっけね?」
小さな街で私とその友人は待ち合わせ、小さな居酒屋に入ることにした。店の中はさらに小さな個室に分かれていて、私たちはそこに落ち着いた。赤子は机の上に据えられた寝台に寝かされている。どうやら店の計らいで、そのような寝台が設けられているようだ。藤の手提げ籠にしか見えないが、居心地は決して悪くはないようだった。
彼の子供に会うのも、子供をもうけてから彼に会うのも初めてだった。数年会っていないことを確かめて、私たちは自分たちの話や、かつての友人の現況などを語り合うことにした。
私に子はなく、伴侶もない。これまでは旧知の友人たちの結婚や出産の話を聞かされてばかりいた。祝いの席にも何度か出た。だが目の前の友人は、結婚式も祝いの席もなく、ただ結婚し、子をもうけたのだった。私は彼に祝いの言葉を伝える機会を逸したと思っている。申し訳なく思っている。改めて私が祝いの言葉を述べてから、彼は返す言葉でこう言った。
「ありがとう。でも誰にも知らせる気になれなくてね。式も電報もメールも、何だか煩わしくて」
その結果、私は今になってようやく赤子を覗きこんでいる。親しい友人の子の誕生を知らせてもらえなかったことを悔しく思ったが、口には出さなかった。
「でも意外だね。学生のころは、結婚もしないし、子供も作らないと言ってたじゃあないか」私は代わりにそう言った。
「そうだね。でも、あの時にそう思ってたのはほんとうだよ」彼はそう答えた。
かつてバンドを組んでいた彼は会社を立ち上げて成功を収めている。みんなから好かれていたあの娘は今度二人目の子供を産む。物静かで清廉だったあの娘は、昨年離婚して一人で子供を育てている。夜遊びが好きだった彼は放蕩を繰り返していたが、いつの間にか公務員になって、地元に戻って忙しくしている。芸術に打ち込んでいた彼は今度年収が一千万を超えるらしい。大きな家を建てて、子供も二人いる。習い事に精を出しているんだという。
そう続く話の間、私の耳には「子供なんていらない」と言っていた彼らの口ぶりが聴こえ、頭の中には「結婚なんて無意味だよ」と誇らしげに言っていた彼らの口の形が浮かんでいた。
「それで、きみはどうなんだい?」
彼に問われて、私はじっと赤子を見つめていたことに気づいた。赤子は籠から見える風景が楽しいのか、目玉をあちこちに動かしながらもおとなしくしている。鳴くかな、と思っても鳴かない。時折顔をしかめるほかは、表情が変わらない。
「それなりだよ。仕事も忙しくてね」と私は答える。再び赤子に目を戻す。「子供のいる君とは忙しさも違うだろうけれど。いつの間に親になんてなったんだい。まったく」
店の照明が少し暗くなった。どこかで燭台に火が灯された。バータイムに入ったのだろうか。気取った店だ、と彼は言い、籠に手を差し入れて、赤子の開いた手のひらに自分の指を握らせた。赤子は短く笑った。
「この子の名前はなんというんだ」私が言うと、彼は私をいきなり睨みつけた。
「君に教える義理があるのか?」そう言われて、なぜだが私は大変な非礼をした気がして、何も言えなくなった。どこかでろうそくの火が消えて、いっそう部屋は暗くなった。
「皆の言葉を信じてきた」と私は言った。皆が年をとってからも皆と同じに話せるように、皆に寄り添えるように、私は結婚もせず、子も成してこなかった。
だが、皆いつの間にか、伴侶を得て子を成している。うまい仕事に就いている。気づけば、この齢になっても一人なのは私だけになっている。
友人の誰も私を顧みなかったのだ。あの時の無責任で脳天気な発言を、まったくの本心だと思いこんで、その考えやら価値観を受け止めて、私は今こうしてそれらを実践しているのだ。君もあの無責任な友人たちの一人だった。私はただ君たちと同じでいたかったのだ。
一息に言うと、私は手元の酒を飲んで、喉を潤した。彼は横顔をこちらに向けて、つまらなそうにグラスを傾けている。
どこかで別の赤子が泣き始めた。それに釣られて彼の子供も泣くのかと思ったが、赤子は薄ら目で今にも眠りそうな表情を浮かべている。友人は飲み物を飲み干して、
「だから君には名を教えられないのだ」と言った。
やがて、他の客が、赤子を籠に入れて、私たちの前を横切っていった。一人、二人と店の奥に消えていく。次々と、十人ほどの親たちが籠を掲げて通り過ぎた。どの籠の赤子も鳴いていなかった。それほどに広い店だったか。そう思ってから、私たちは食事をしていないことに気がついた。
彼はいつの間にか席を立っていた。私の前には彼の赤子が残されていた。
再び彼は戻ってくるだろう。また赤子を見張っていなければならないようだ。
赤子の様子は見ていて飽きない。自分の子なら、いつまでだって見ていられるだろう。私はまだ見ぬ自らの子の姿を思い描いた。もしかしたら、先ほど通り過ぎた籠の中に、私の子供がいたのかもしれない。そうなのだとしたら、もう会うことはないのだろう。そう思った。
父親はまだ帰ってこない。手慰みに、赤子の開いた掌に指を乗せてみる。
赤子の手は、私の指を握らなかった。