2014-02-16

「どうせなら」という才能

「どうせなら」という考え方ができるかどうかが、あらゆる場面での成功の度合い、ひいては人生全体での幸福の度合いを大きく左右するように思う。

たとえば卑近な例を出すなら、合コン自分の好みの顔の女性がひとりも来なかったとき

早々に(つまんねー・・・やる気出ねー・・・)という雰囲気を周囲にぷんぷんに振りまいてしまうか。

それとも、(この顔ぶれじゃあ大して期待はできないけど、どうせなら楽しく飲んだ方が得だし、とりあえず相手の服とか小物とか褒めつつ、率先して冗談でも言っとけば盛り上がるかな)と思うかで、その後の人生の転がり方が大きく変わるのは想像できるだろう。

その場でほどほどに仲良くなった子の無二の親友が、もしかしたら自分にとってめちゃくちゃ好みのタイプかもしれない。

あるいは、自分の好みはいなかったとしても、隣に座っている男にとってはそうではなく、場が盛り上がって彼がうまくコトを運べたとしたら、後からずいぶんと感謝されるかもしれない。

そして、それらのひとつひとつが理由でどこかで何かが回り始めるかもしれない。

それが自分に有利に働くかもしれない。

チャンスはどこに転がっているかからない。

合コンだけじゃない。

もちろん会社の下らない飲み会だって同じだし、何なら学生時代から文化祭受験勉強ゼミサークルバイト卒論就活入社してから研修、配属、変わり映えしない日常の業務からサビ残電気の消えた暗い会社に一人でこもってるときまで、何だってそうだ。

「どうせなら」という考え方ができる奴が、いつだってうまくいく。

どうせならおもしろく片づけよう。どうせならココを工夫してみよう。

あらゆる場面での気の持ちようの違いが、目に見えない程度の小さな差を生みだす。

それらの差の積み重ねが、気付けば目に見える有意な差となって立ち現れる。

そして何より重要なのは、この「どうせなら」という考え方に、「ごく自然に」至れるかどうかという点だ。

もちろん、元々はそんな風に思えない人間意識改革をして、何事も前向きに、ポジティブに、自分にやれる限りを精一杯楽しんで、というポーズを取ることはできる。

そうしてしばらくの間は実際にうまくいくことも確かだろう。

しかし、そうして得た自分像はどこかで必ずガタがくる。

我慢をしているからだ。

無理をしているからだ。

思ってもいないことを口に出し、心を殺して笑顔を作ることを、自分に強いていることが自分自身でわかっているからだ。

自分をだまして取り繕って「どうせなら」を続けていることを、心身は確実に認識している。

それでもその代償として何らかのメリット享受できているうちはいいだろうが、あくまでもメリット享受できる「かもしれない」によって成り立っているこの考え方は、何のメリットも得られない頑張りが続くことで簡単に瓦解する。

「どうせなら」という考え方が自然にできている人は、最初からメリット目的にしているわけではないのだから当たり前だ。

あくまでも「どうせなら」楽しくやろうという考えの先に、結果としてメリットが転がっていることがあるだけなのだ

から自分はこれを、「どうせなら」という才能、だと思っている。

よく、「努力できる才能」「続けられる才能」といった言い方を耳にするが、こういった類の目に見えない才能は世の中に数多く存在しており、それらを所持しているか否かが、人生の豊かさを多分に決定づけているように思うのだ。

  • 「どうせなら」という考え方ができるかどうかが、幸福の度合いを大きく左右するように思う。 自分はこれを、「どうせなら」という才能、だと思っている。 http://anond.hatelabo.jp/20140216140...

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