子供が大学には行かないって言ったんなら「出来が悪いんだなぁ」とか「よっぽど勉強が嫌いなんだな」って思うし、
両親が大学には行かせないっていったんなら家庭環境が推し量れるってもんだもんね。
数十年前ならまだしもねぇ。
たとえば、はてなブックマークで定期的に出てくる自炊ね。「つかれてたら自炊なんて出来ない」とか「自炊しないやつは贅沢」とかいうんだけど、そもそも料理の才能は全員に存在すると考えすぎなんじゃないか。いや、そういうのでもいいよ。でもさ、それって料理の訓練をして、あるていど上手くなったか、それとも絶望的に料理が下手な人のことを考えていないわけ。だって、仕事に疲れ果てて、さらに自分が苦労して作ったメシで、しかもそれが不味いって、この世の絶望的な辛さだよ。なんで一日の終わりでクタクタなのに、そんな惨めな気持ちを味合わないといけないっていう話になる。
貧しいってのは惨めさであると同時に、選択肢を自分で収集しなくちゃいけないということなんだけれど、でもそういうのって自分に必要なモノがわかっているからこそ選べるわけじゃない。自分に足りないものとか。そういうのがわからないからこそ、貧しいわけだよ。ちょっと不正確だな。そりゃ、場合によっては、自分の欠落に対して目を背けたいという側面もあるけどね。
そもそも、選択肢を知っているという時点で、ちょっとだけ境遇に恵まれているわけだよ。あるいは、そういう選択を得ることが出来るような訓練を受けてきた、といったようなね。「ああ、こういう方法もあるんだね」というのを教えてもらえるか、それとも自分が自分の為に調べたかのどちらかなんだよ。でも、貧しさというのはそういうのではなくて、例えばテレビでちょっと紹介されていて「ああいうのを手に入れたら、私の生活も豊かになるんだろうなー」って思っちゃうわけ。だから、貧乏な学生はなぜかMacを欲しがったりするんだよ(お前のやりたいことはWindowsで十分だろ!)。
だからなんだっていっても、上手くは説明できないんだけど、そこに到達できていなかったり、そういう訓練をする余裕がそれほどなかった人ということを、あんまり叩いちゃいけないんだよなって思うんだよな。
http://anond.hatelabo.jp/20120520233243
前に2歳の子ども。背中に1歳の子ども。右手にはでかいバッグ。
始発駅から電車に乗った。しばらくすると、見かねられたのか「座りませんか?」と声を掛けられた。
実は前後に子どもという姿勢はとても安定していて、立っていたほうが楽だった。でも、きっと、子どもがいない人にはわからない。
「待てば座れるのに、譲っていただくのは、なんだか、とても甘えているような気がするので。ありがたいのですが、立って行きます」と断った。その人も困ったような顔はしていたけれど、しょうがない。
私のほうが先に降りたので、その前に、もう一度「ありがとうございました。これに懲りずに、ぜひ、お声かけくださいね」と添えた。
相手がどう思ったかわからないけれど、こういうことはお互いの都合のすり合わせをしようがない。
その場その時その人の様子で、どうするのが親切なのか見極めるしかないと思う。