このタイトルは、宋文洲さんのメルマガのタイトルから引用しました。
「車を確認してから渡りなさい」とハワイの街で子供に注意したら、「中国じゃないんだから大丈夫よ」と妻が言いました。その時の私はかなり説教したことを今も覚えています。妙な安心感こそが危険だからです。
他の国(タイ、インドネシア、台湾や香港など)もお世辞にもいいとは言えません。
少なくともアジアでは、日本ほど『他人の好意』に期待できる場所はないのかもしれません。
ただ、祇園の交通事の件を見ている限り、こういう『好意』に日本人はどっぷりハマり過ぎなんじゃないかと思うのです。
・ 私が道路を渡るとき、たとえ青信号でもよく見てから渡ります。なぜなら、止まってくれない可能性があるからです。
・ お店で修理などした時や買い物しておいてもらうとき、必ずおいてあることを証明する紙をもらいます。なぜなら、そのまま持ち去られる可能性があるからです。
・ 飲食店などでトイレや手を洗うとき、必ず手荷物は全部もっていきます。なぜなら、置き引きされる可能性があるからです。
・ 大家など比較的身近な人とやり取りしたとき、必ずその内容を本人からSMSで送ってもらいます。なぜなら、(可能性は低いけれど)約束を反故にする可能性があるからです。
人生は常にリスクと不確実性の連続です。だから、可能性を考えて行動しなければなりません。
この事故の報道をみると、歩道が近づいてもかなり速度が出ていて(つまり目視できるほどだった)、一部報道ではクラクションを鳴らしていたみたいです。
なんでちゃんとよく見て、しかもクラクションなっていたなら注意しなかったのだろう?と不思議で仕方がないです。
『ここは中国じゃないから、止まるのは当たり前だろ!』と言われそうですが、昔と違って社会の結びつきは薄れています。
また、多様化が叫ばれて、いろんな価値観の人がともに生活しています。
加えてグローバル化が進み、都心に住む人はますます多様化しています。
言い換えると、この手の『好意』や『常識』が成立する条件である画一性が失われるわけですから、ちゃんとリスク管理みたいなのが必要になっていくんじゃないでしょうか。
こういう奴って絶対でてくるよな。 脳内では自分は不足の事態に対応できるスーパーマンって設定なんだろうけど。
被害者の多くは、中年から高齢者だしな。 加齢と共に、咄嗟の反応などは思った以上に遅れるもんだと思う。 仮に60キロでも自分に向かってくる60キロって一瞬だぜ。 台風の日に屋根...