タイトルは結論です。
当方、修士学生で、2度ほど学会に論文を出すことを目標にしていました。
申し込みをしたあとにキャンセルをするという恥ずかしい終わり方です。
ついに昨日諦めました。
かつてなら、自己否定に陥り日常を破綻に導くような事件ですが、
今回はそんなことはないです。
メンタルが強くなったとかいう議論ではなくて認識を改めたという所感です。
問題ではないな、と。
今回の件を軽んじているわけではなく、先を見越した解釈をしているからです。
要は、仕事に活かそうということです。
今までは「どうすればいいのか」について頭を悩ませていたのですが、
なかなかうまくいったためしがありません。
そして気付くと、「どうしてはいけないのか」について長けていました。
同じ道を二度と歩かなければ同じ末路には至らないはずなのです。
どうにも失敗体験が足を引っ張り、次なる失敗体験を招きます。
私にとってその原因は、成功への羨望からコントラストが強まった失敗への恐怖。
失敗への恐怖というか、努力が無駄になることがひっじょうに嫌な訳です。
失敗するなら努力はしたくないし、失敗するならやらないということです。
このアイデアをもってしまうと動けなくなり、失敗の傾向が強くなります。
しかし、そもそも失敗は悪ではなく、学びの源泉だと気付きました。
どう頑張ってもダメだった場合、頑張ったこと自体に問題はなく、
その点を冷静に分析して、次の機会を狙う。
これしかないのです。
成功パターンを知るよりも失敗パターンを知るほうが学びが大きいのではないでしょうか。
成功したとして楽しめるのでしょうか。
人の失敗パターンをみてそれを避けながらふるまうほうがなんだか現実味があるような気がします。
成功が成功を呼ぶパターンでうまくいっている人は失敗の美味しさを知らないでしょうね。
学生時代に失敗ばかりしていたことを面白く誇らしく人に話せる大人になりたいです。
みんなさっさと失敗すればいいのに。
今年から新社会人として働きます。 学会にもまともに行けずに修論もマトモに書かずに、 なぜ修了できると勝手に思い込んでる? そりゃお前みたいな癌は居ないに越したことが無い...
成功パターンを知るよりも失敗パターンを知るほうが学びが大きいのではないでしょうか。 成功者の結果論をマネしたところで成功の保証もないし、 成功したとして楽しめるので...