2013-06-11

人間には産まれながらの能力差がある

かつては差別助長するなどの考えからタブー視されていたこの考え方も、ヒトゲノムの解読が進んだ今、もはや科学的に否定することは困難になりつつある。

プライバシー保護などの名目でかかっていたブレーキも今やほとんど役に立ってはいない。世界中研究者により、能力と遺伝情報との統計的紐付けは日々進んでいる。誰でも努力次第でどこまでも伸びるという幻想は、天動説と同じく葬り去られる運命なのだ

そもそも遺伝による能力差を悟ることは難しいことではない。むしろ誰もがそれに気付いていながら、差はないと教育され、能力差を肯定する考えは否定されることで、思想を修正されてきたものだと言える。

子に親の見た目が遺伝することは誰の目にも明らかだろう。身長体重、骨格もまた、明らかに遺伝している。そしてこれらは明らかに運動能力に影響を及ぼすものである

頭の中の能力差は、見た目に明らかな外見や運動能力ほど知覚しやすものではない。しかし、子を持つ親であれば、いかに子が親と似た性格を持つものか、嫌というほど思い知らされているはずだ。そもそも、これほどまでに見た目が遺伝する中、性格はみな平等に生まれてくると考えるのは無理がある。

産まれながらの知的能力差を示す誰にでも分かりやすい証拠の一つとして、知的障がいを持つ者の存在をあげることができる。これらは一種の病気として区別されてはいものの、病気と正常との境界あいまいであり、ある一定以下のもの知的障害としている側面が大きい。遺伝を原因とする知的障害や身体障害の存在は、直接的に産まれながらの能力差を肯定する証拠となる。

もちろんこれは能力に対する環境努力の影響を否定するものではない。産まれながらの能力は、産まれながらの適性にすぎず、後から環境努力により修正可能であることに疑いの余地はない。

しかしながら、産まれながらの適性があるものはより少ない環境努力の助けで成功できる可能性があるのに対し、適性のないもの人一倍努力を積んだ上でやっと同じ土俵に上がれるといったことが起きてくる。これがある以上、やはり産まれながらの能力差はあると言ってよいのである

誰でも努力次第で何でも出来る、この考え方は、自分の適性に自覚がないうちから努力に対するモチベーションを上げる効果があるため、特に幼年期についてはプラスに働くケースが多いと言える。

しかし、そんな理想論で騙し続けることができるのも、せいぜい中学生までである。頑張れば出来るはずなのに、勝てない、無理をする、無理を強いる、合わない仕事につく…やがて身を持って自分の適性の無さに気付く頃には、自分がこれまでに無駄にしてきた膨大な時間絶望するのだ。

恐らく我々の社会は、遺伝による能力差を受け入れた上で次のステージに進む事になるだろう。もはや能力差を差別しか繋げられないような時代ではない。適性をうまく利用したり、不本意な能力であれば修正することすらどんどん可能になってくる、そういう時代なのだ

能力差があるのであれば、妊娠前の段階からより能力的に可能性のある個体を選ぶというのは当然の判断である。生まれた段階や就職前には遺伝的な適性検査を行い、その道の能力を集中的に伸ばしてやることで不幸な努力は軽減可能である。産まれながらの能力差を適切に理解しあうことができれば、個性はより尊いものとなり、それぞれ能力を補完しあうお互いへの尊敬の念も育まれよう。能力を持つものは、その能力に対する科学的裏づけをもってより自信を強固なものにするだろう。

どうしても避けられない遺伝的な欠陥が認められ、本人もその修正を望むのであれば、積極的な遺伝子の書き換えという新しい医療の出番である無能人間をただ生き長らえさせておくよりは、治療できるもの治療したほうが、本人にとっても、その利益を享受する社会にとってもメリットが大きい。

これらのように、これから先取りうる対策、進むべき方向は多々考えることができるが、まずは社会がこの、産まれながらの能力差という事実を正面から受け入れ、消化し、次のステージに進むことを願ってやまない。

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