はてなキーワード: 中等教育とは
ブログを書かなくなって久しいが、復活にむけリハビリがわりに増田に書いてみる。
もっとも、大学教員である私が学生指導を通じて感じた知性について今日は書きます。
知性が低いと思われている人の中には、単純に広義の体力がないケースが多い。病気がちであったり、何らかの事情により物事に集中出来なかったりするために、知性を獲得する上で必要な思考が妨げられているケースが多い。
案外、中等教育期間中に体力づくりのための運動をすることは頭を良くするためにも大変理にかなっていると思う。また、特にチームスポーツであればリーダーシップを学べるので良いと思う。自分の子供にはそうさせてやりたい。
とくに運動が苦手な人を中心に、大学生になると定期的に運動する習慣を失う人が多いが、案外知性の獲得に向けてよろしくないような気がする。
本能や感情を抑制するのがまずもって社会生活を送る上で求められる基本的な知性である。そして、それらの基本的な知性の多寡は生まれつきの要素が強いが、しつけによるものもあるだろう。
もっとも、知性ある親はしっかりしつけるし、知性が獲得させた様々な社会的資源を活用して子育てするから、親は選べないということは本当に不公平なことであると思う。
人間は感情が優先される動物なので、都合の悪い(=悪い感情を引き起こす)現実は直視したがらない。そのため、基本的な知性が乏しい(=コントロールできる感情の水準が低い)と、自分にとって不都合な真実を理解しようとしないために、理解できる法則に限界がある。結果として応用的な知性(職業的に求められる能力など)も獲得されにくい。
もっとも、感情的にならず、冷静に周囲と調和できる人、いわゆる「良い人」が社会的に成功するとは限らない。全体的にみて、その様な人は所詮当たり障りのないことをしようとするから、つまらないことになる。
社会的に成功する人、特に経済的に成功する人の中には、性格的にユニークな人が多い。やはり、人並み外れた目立ちたがりだったり、強い欲望を元に事業を成功させるような人は強烈なエネルギーを持ち回りを引っ張ったりする。その人が良い人である場合もあるが、その様な強烈な感情は何らかのコンプレックスであることも多く、「良い人」でないこともままある。
というより、日本的な文化の中で、冷静に周囲と調和して生きるよう指導されているのは、社会が安定を求めるがゆえに、大半の貧民・庶民に隷属を強要することの裏返しかもしれないとすら思う。一方、親が金持ちだったり、社会的なポジションを有するようなケースでは、根拠の無い自信を持っているような奴もいて、比較的楽にリーダーシップを握ったりするなど、成功に近づく。社会階層が最生産される精神構造がそこにはある。
一定の素養がある人が習熟すると、だいたいの見た目や立ち振る舞いだけで、その人の知性の水準がわかってくるようになる。もっとも、その能力を獲得するためには、直感的に人を見る目を養わなければならない(少しシビアな)環境にいたかどうかが重要である。おそらく、過去の生活の結果に基づいて顔の形や立ち振る舞いと知性や性格との関係に関するデータベースができていて、それを無意識のうちに当てはめることでその推論が成立しているように思える。その構造を理解すると、第一印象に気を配ることは重要であることにも気づくだろう。
だいたいにおいて、賢い人は見た目も良い。もっとも、私は「見た目」に二種類あると考えている。一つは持って生まれた「造作」の良し悪しであり、もう一つは後天的に獲得した、あるいは経験した感情によって作られる「面構え」のようなものだ。前者はいかんともしがたいは物理的必然であるが、後者は自分の心持ちによってある程度コントロールすることが可能である。(もっとも、そのそれを改善するような心持ちを持てるかどうかも基本的な知性によるのだが。)
10代の間の見た目はまだ前者の「造作」によるものが大きい。しかし、大学を卒業するぐらいの年令になると、どのような経験により、どの程度の精神的成長を遂げたか?ということが顔に出てくる。ましてや40にもなろうとすると、それまでやってきたことの影響が思い切り顔に出てくる。結果として、大人になればなるほど、賢い人は見た目も良くなる。
性欲の強さは性格や知性にある程度の関係がある。社会生活をうまくこなすためには、強すぎても、弱すぎてもダメ。もっとも、ここで言う性欲とはある種のバイタリティの言い換えかもしれない。
性欲がある程度強ければ、異性を誘惑するという、生存上もっとも戦略性が要求される行為について自発的に考える。特に取るべきコミュニケーションの内容や、自分の振る舞いが相手に与える影響をよく考えるようになるからか、結果としてある程度の知性を獲得するのだろうと思う。
もっとも、性欲が強すぎるとそれ自身が知性の獲得に障害となることもあるので、社会生活的に見てうまくいかないケースもある。
性欲が弱そうにみえるタイプは、やっぱりコミュニケーションのとりかたに問題が出てくる。実は、就職活動をするときにモテる人とモテナイ人の差は如実に出てしまう。
言うまでもないことだが、基本的な知性が乏しい人は、自分の能力を効果的に伸ばすための選択ができない。また、自分の適性もなかなか決め切れない。結果として解決すべき問題、獲得すべき能力に関して集中的に取り組むことをしないで、ばらばらで組み合わせの悪い能力を身につけたりする。あるいは単純に時間を浪費する。
もっとも、将来的にどのような組み合わせが望ましいのかわからないという言い分もよく分かるつもりで、無駄なことなどないと信じたい。ただそのような言い方は、気の毒にも無い内定で落ち込んでいる学生を目の前にしてあまりにも無力である。
以上リハビリ終わり。
よくよく観察するとw
直近の投稿?何?スゴすぎ?会社で勉強大会しているのかなぁ~^^;
http://ameblo.jp/mystandardjp/entry-11033779464.html
注目度ナンバー1!ホットケナイ!ホットなキーワードをチョイス!
■ 文部科学省の話題
公用語名 もんぶかがくしょう
紋章 Go-shichi no kiri crest.svg
上部組織
下部組織1 内部部局
下部組織概要1 文部科学省大臣官房 大臣官房、生涯学習政策局、初等中等教育局、高等教育局、科学技術・学術政策局、研究振興局、研究開発局、スポーツ・青少年局
下部組織概要2 科学技術・学術審議会、宇宙開発委員会、国立大学法人評価委員会、放射線審議会、独立行政法人評価委員会、中央教育審議会、教科用図書検定調査審議会、大学設置・学校法人審議会、文化審議会(文化庁)、宗教法人審議会(文化庁)
http://ameblo.jp/mystandardjp/entry-11030895849.html
注目度ナンバー1!ホットケナイ!ホットなキーワードをチョイス!
■ ヘンリー8世の話題
『ヘンリー8世 (イングランド王)』より : ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)はテューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王国 アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世 (イングランド王) ヘンリー7世の次男。
ロンドン郊外のグリニッジにあったプラセンティア宮殿で、ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨーク エリザベス王妃の次男として誕生した。兄弟には兄アーサー王太子 (チューダー朝) アーサー(プリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレット・テューダー マーガレット(スコットランド王ジェームズ4世 (スコットランド王) ジェームズ4世に嫁ぐ)、妹メアリー(フランス王ルイ12世 (フランス王) ルイ12世に嫁ぐ)がいる。1493年に未だ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城の城主、シニック港長官に任命された。翌年1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。
http://w.livedoor.jp/nihonerimo/ https://twitter.com/n_erimodel/ http://ja-jp.facebook.com/pages/%E6%97%A5%E6%9C%ACe%E3%83%AA%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/108169899279250
怠けてますが ^^;
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
id:aionarapです.自分のブログがなく,ブコメじゃ情報を書き足りないのでこの場をお借りしました.
“徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
はてなブックマーク - “徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
この中教審の答申に関して,ブコメでは否定的な意見が多数,というか肯定意見は皆無ですね.しかし,私個人はある程度この試みに賛成です.あ,先に書いときますが,完全肯定じゃないですけどね.修論は書いたほうがいいし,徒弟制の完全廃止もどうかとは思っています.
じゃぁ何が賛成なのよ,という話ですが,Qualifying Examの導入,及び広い範囲の教育に関してです.これは必須,と私は考えています.この辺りのお話に関するご意見を皆さんに聞いてみたいと思い,当エントリを書くことにしました.
今回の中教審の答申は,博士の現状の問題を反映した意欲的な取り組みに感じる.丸呑みにするには良くない部分もあるが,期待しても良いのではないのか.
さて,そもそもの出発点ですが,博士は「スペシャリスト」でありさえすれば良いのでしょうか?私は否と考えます.博士こそ「ジェネラリスト」にもならねばならない.…と書くと誤解を招きますね.要は専門馬鹿になっちゃいかん,ということです.
勿論,博士課程の人間は自分の専門分野に関して,国際的な第一線に立てるような知識と経験が必須です.一生懸命に自分の研究に取り組む必要があります.ですが,それだけではダメで,最低限隣接領域(まぁ定義が微妙ですが)に関して,可能であればもっと大きな枠組で知識を深めなきゃいけません.科学技術はどんどん煮詰まってきて,先に進むためには学際分野の融合による新しい概念の創出が必要です.それをイノベーションと呼ぶこともあるでしょう.それを生み出すためには,少なくとも2つの分野に関してよくものを知っていないといけません,そうですよね?
テクニシャンとして分野を極めるのもひとつの道かもしれませんが,博士に求められているのはそういうことではないと私は考えています.
加えて,博士が「スペシャリスト」のみを意識していると,博士課程の人材の活用先は研究者,それもかなり狭い分野に限定されます.
ここで,大学院設置基準が定めている博士課程の役割を見てみましょう.昭和49年の時点では,
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
と,敢えて変更を行っています.差分は,
「又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力」
「社会の多様化,複雑化等に対応し,博士課程において,大学等の研究者のみならず,社会の多様な方面で活躍し得る高度の能力と豊かな学識を有する人材を養成する必要から明確化」
(以上,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-3.pdfの2ページ目より引用.)
平成元年の時点で,大学院設置基準は博士課程学生に「社会の多様な方面で活躍しうる」人材たることを求めているのです.
「おいおい,博士が研究者にならなくてどうするのよ…」という意見もあるでしょう,それは理解します.ですが,包含関係を取り違えてはいけません.研究者として生きて行けるのは,博士号を取得したうちの一部の人間です.研究者になるのは博士号取得者でしょう.ですが博士号取得者は全員研究者にはなれません.国家として,限られた国庫の中から博士を全て取り込めるほどポストを恒久的につくるのなら別ですけどね….
それに,(ありえませんが)もしそうなったとしても,全員研究者になるのもどうかと思います.一人ひとりが研究テーマを持って,プロジェクトリーダー的な役割を果たしつつ,世界の最先端を突っ走ってきた人間が,その経験と知見を他の分野に持っていくことは非常に意義があるでしょう.ある意味,一人でプロジェクトチームに求められる役割を全て果たす必要があるのですから,その能力は推して知るべしです.是非,社会のあちこちで活躍するべきです.
非常にポピュラーなのは,専門を活かした職業でしょう.企業での研究開発を初めとした「明示的に博士を求めている」職業は多いです.…まぁ敢えて書く必要はないですね.
初等,中等教育の教師もいいでしょう.勿論高専も.起業もいいですね.
そして,本当はその他の「博士が求められていない」と考えられている職業にも行ったほうがいいと思うんです.だって,ずっと知的体力を鍛えてきたわけですから,同年代の博士号非保持者と比較してその辺りは大きくリードしているはずです.
彼ら/彼女らが持っている問題発見能力は,必ずや企業にとって大きな助けになります.
前節の内容に関して,同意して頂けましたでしょうか?して頂けた方も,そうでない方もいらっしゃるでしょう.
でも,同意/非同意にかかわらず,ほとんどの人は「夢物語乙!www」という感想を抱くのではないでしょうか.いえ,私もそう思います.
例えば,id:scicom 氏の快著,「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?」(http://goo.gl/Pd0ls amazonへのリンク)には現状の博士号取得者,特にポストドクター(PD)の状況が整理されています.
簡潔に言えば,現状は散々たる物です.企業は博士号に魅力を感じていません.これは伝聞ですが,採用担当者は「博士は当たり外れが大きい」と感じているようです.ハズレを引くリスクを恐れて採用を控えるそうです.
そもそも,皆さん,博士号をとっている人間が「最低限」「共通して」何を出来るか,分かりますか?
言い換えると,博士号が担保しているものは何か,知っていますか,ということです.
特に,博士課程では,①学生に特筆すべき顕著な研究業績を求める大学院もあるなど,博士の学位が如何なる能力を保証するものであるかについての共通認識が確立されていないこと,②博士課程(後期)の教育が,個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまり,学位プログラムの整備という観点から不十分であること,③大学と産業界等との間において,大学院が養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく,修了者が産業界等の社会の様々な分野で活躍する多様なキャリアパスが十分に開かれているとは言えないこと,といった問題点が見られる
(http://goo.gl/Jq0LU, pdfファイル,5ページ目)
文科省は,博士号が担保するものに関する共通理解は無い,と述べています.また,教育の質もバラけていることを指摘しており,このことも共通理解の妨げになるかと思います.
個人的には,博士号は「専門知識」と「プロジェクト(研究)遂行能力」は担保していると思います.…が,サンプル数が少ないので断言はできません.
この「一般的な博士像の不存在」が,世間一般への博士の浸透を妨げていることは想像に難くありません.
当の本人たる博士号取得者は活躍の場が減る,すなわちたつきの道の選択肢が減ります.
納税者の皆さんは,せっかくお金をつぎ込んで育てた人材が有効に活かされず,「税金の無駄だ!」と感じるかもしれません.
後進の学生は,この惨状を見て博士に進まなくなります(というかそうなってます).
こうして,本丸たるアカデミックの世界ごとジリジリと衰弱し,…あとは言わずもがな.
勿論,「これさえやれば万事解決!」みたいな簡単な処方箋はないでしょう.でも,チャレンジは出来ます.
私は,そのチャレンジの一環が今回の中教審の答申だったのではないか,と考えています.(というか資料はそれを物語っています)
専門の知識だけではなく,基礎知識や計画力,語学力,倫理観などもちゃんと持っていることをQualifying Examで保証しましょう.
どこに放り出しても生きて行けるほど強くするために,総合的な教育もちゃんとしましょう.
そういった取り組みが,今回の答申の意図ではないのでしょうか.
この新課程を出た博士がその有用性をアピール出来れば,在野の博士号取得者にもスポットが当たり始めるでしょう.
さて,ここで,「大学院に進んでまで人に教育を受けるとかwww自分で学べよそれぐらいwww」という気持ちになる人もいるかもしれません.
正直,私も「それぐらいじぶんでするわい」と思ってたりします.
でも,主眼はやっぱり「質の保証」なんだと思います.ちゃんと大学院は「最低限」「共通して」一定の能力を持った博士を輩出しますよ,という保証.
さぁ,経営者の皆さん,安心して共同事業を博士が経営するベンチャーと行って下さい.
さぁ,保護者の皆さん,安心して博士の教員を迎え入れてください.
そういう事を,皆が自信を持って主張できるように,ということでしょう.
ええ,上記の効果を狙ったとしても,逆効果になる部分もあるでしょう.
徒弟制を完全廃止すると,一本軸の通った研究ができなくなって,結果として「スペシャリスト」にもなれなくなります.
(念の為に再度主張しますが,博士は「スペシャリスト」の能力を最低限備えてなければなりません,と考えています)
博士課程に進学希望の学生が修士論文書かないと修士/博士の間のフレキシビリティを損なうことになります.
なので,細かい部分は考える必要があるでしょう.
でも,今回みたいに,現在抱えている問題に対してちゃんとコミットメントしたということで,私は文科省をちょっと見直しました.
というかなんか雰囲気で「お役人は肝心なことに取り組まない」みたいな思い込みがあったのですが,やっぱりそんなこともないよなぁ,と思いました.
なんせ,前述の「博士漂流時代」を読んで気になったことを調べ始めたら,殆ど中教審の資料にまとめられていたのですから.
さて,長くなりましたが,これにて本エントリはお終いです.お付き合い下さり誠にありがとうございます.
元増田です。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
まさにわが意を得たり!のたとえ話。
本来「詰め込む」というのはそういうのをわかってやることのはずなんだが、
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
というものだと思われてるんだよね。情けないことに。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
ただ、これは難しいところだと思う。とりあえず「できる」ようになってから概念いじくり回してる間に「わかる」ようになるという面もあるし、「できる」ようになる前に「わかる」ことに集中するのはかなり辛くて効率もなかなか上がらない。そのあたりのバランスは個人差もあるから難しいところなんだけど。
遠山啓なんかの功績もあって初等教育ではかなり工夫もなされているんだけれど、それでも
でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
というのが現実だからねえ。
まして、カリキュラムが欠陥だらけの中等教育となれば目も当てられないことになる。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
それはどうかな。むしろマニュアルを覚え込むことに従順な奴の方がリア充になりやすいと思うけどね。世間の流行にとりあえず乗っておけば大けがはしないよ。
あと、あなたが引用したnext49氏の日記はちょっと別の問題じゃないかと個人的には思ってる。むしろ「空気を読め」という風潮がそういう学生を作っているのだと言いたい。俺の体感で言うと、「自分の考えがあってもタブーに触れることを恐れる余り、それを口にすることを無意識に禁じている」ような人は結構多いし、実際のところ自分と違う意見を言われるとキレる人間は世の中に多いからそれは正常な適応だと思うんだ。大学の(まともな)研究室というのは忌憚なく議論ができる数少ない場(ということになっている)なんだが、臆病な卒論生にはなかなかそれを実感できないことは多いよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101007/acd1010070904010-n1.htm
すばらしいコメントの数々
motowota 考えるためには、知識をアプリオリに詰め込むことも大事、という当たり前のことを言っているだけなのに、反発するのはなぜ?
tobitaQ 詰め込み教育を受けて、それなりの偉業を果たした人が言っているのだから説得力がある。詰め込めずドロップアウトしてブチブチ文句垂れるやつと比較にすらならんぐらい。
aaa555 根岸さんの意見を支持。日本の受験システムは悪くは無い。本当に悪いのは日本の大学の研究・教育システム。根岸さんの批判も分かるわ
ruby86 さしたる受験地獄を経験していない人の「詰め込み教育批判」が蔓延する中、その数百倍は説得力があると思う。
hiroyuki1983 詰め込みとか暗記とかってとっても大事だよな 2010/10/08
mellowmellowmellow 否が応でも知識を蓄えることになる。脳みそを使う。18ぐらいの時期に受験勉強を経験することは悪いことではないと思います。やってる最中はとんでもなく辛いんだけどな!
hisamura75 ずいぶん批判的なブコメが多いんだな。日本の高等教育はぬるすぎると思うぞ。/こういう件に関してはむしろ、教育が専門の人に何が分かるか、という気がする。
uchisaiwaicho かっちょいい
Dursan 発想の数と質は知識の数に比例するからねぇ・・・
kairusyu タイトルがセンセーショナルだなぁ。私も研究してたから、対象がどんな基礎的なことの上に立つかを考えないと失敗すること多かった。/apjさんの博士取るときのページにもそれっぽいこと書いてあるから見ればいいよ。
helmsman470 先生。私もまったく同じ意見です。さすがよくわかってらっしゃる。
unaken 逆に考えよう。日本に受験戦争が無かったらどうなるか?受験競争の激化を反省して生まれたのが「ゆとり教育」なんだぜ。
napsucks 「私は受験地獄の勝利者だ」と空目した。基礎は本当に大切。みんな高卒を馬鹿にするけど、ちゃんと勉強してれば高校で得られる知識でも水で走る車に騙されたりしないよ、ベンゼン環を知らないとかもないよ。
subAccount 本旨とは関係ない上にあえて煽り気味に書くけど「受験=無味乾燥な暗記」と思い込んでる人は健全な中等教育を受ける機会がなかったんだな、と少し可哀想な気分になる。
@qyouzoom とっても同意。RT @tomute: 最後の三行は凄く同意。
gtsubota 人生 どっちかというと私もこっち派。
katamachi 半世紀前の受験状況と今とは違うけど、「基本が大事」という文脈なら彼の言う通り。海外に来てみろよ、という挑発も理解できる。日本の社会に閉塞感を抱いているならそこに動機や目的を見出してもいいとは思うけどな
syoh11 受験地獄て。本当に地獄だったんかな?受験って、自分の成長を簡単に実感できるすばらしい機会だと思うよ。
POPOT これは格好良すぎるw 75歳にしてはお洒落だし若いね。
Outfielder また「日本の教育はダメだ」「ノーベル賞が出たからといって思い上がるな」論がたくさん・・・。
georgew 共感するところ大。
ks1234_1234「基本が大事になるから」理系なんで、理科系はそのとおりだと思う。出版社に入ったので、国語は、足りてないけど必要だと思う。社会科だけ、もっと現代史やりたいと今でも思う。国際情勢のみこめない
what_a_dude 詰め込み教育は俺も賛成派です。若い頃に基礎を叩き込まれるのは、全く悪いことじゃない。学問の創造性はゆるぎない基礎から生まれる。
hiruhikoando 若いころの弛まぬ努力と海外経験は大事だなとも思う。あと文系も理系をもっと勉強すべきだなと昨日の古舘を見て思う。
AtsushiKawahara 頭脳は身体能力と同じで、鍛えると強くなる。こんな当たり前の事を僕は疎かにしていた。だから、これからの未来を担う世代が受験地獄で鍛えられるのは、実は必要で大事だと思っている。
geophysics 米国でPhD取得後帰国してきた自分としては、非常に考えさせられる話。詰め込みの暗記がとても大事という点についてはとても同感。一定量詰め込まないとアウトプットもできない気がする。
Sigma ツマンナイことを覚えて試験でいい点を取るスキルは、一生役に立つ。試験を受けることは大学受験で終わりじゃないから。だから、「学校の勉強は役に立たないから、大学受験しないから、勉強しなくていい」は間違い
Keysrapid 正しい受験地獄と間違った受験地獄があって、根岸さんの場合は前者だったというだけの話。そうじゃないと、韓国なんか日本以上の受験地獄なのに一人もノーベル賞科学者が出ない理由が説明できない。
Kou_RYU でも受験地獄で得られる学力って受験で多く得点を取るスキルであって、基礎学力や応用力と得る事とは別な気もしないでもない…。
suzuchu 18歳人口のうちの高卒者/大卒者の比率がこの人たちの時代と今では全く違うからなあ…。順当に学歴インフレしてれば大学院がそういう扱いになったのかもしらんけど。
sugimo2 ゆとりでも詰め込みでもいいけれど、こぼれた層と物足りない層に選択肢が欲しい。
fromdusktildawn 詰め込み教育はいいんだが、詰め込み方が下手くそで効率が悪すぎな気がするが。受験地獄も、地獄と言えるようなハードなもんじゃなく、たいていの学生はだらだらとぬるかったと思うけど。
aiaki みんなと同じ事やって、何が楽しいんだろ。何事にせよ苦行だとしか感じないのならそんなところに飛び込む必要はない。
ko_bayashi 大学受験なんて、あんな横一線のスタートラインで開始される公正な競争は、世の中では珍しい方だと思いますよ。社会の競争は実力以外の要素(コネとか)が重要になるので大変です
yoshi1207 いや、ずっと海外におられた方に単純に、進学率25%時代の受験戦争とセンター試験に最適化された”効率の良い”現代の受験とを比べられても困ります、多分。かなり複雑/産経の取り上げ方に乗せられたかな…
hal9009 ま、優秀な研究者で学習者が優秀な教育者とは限らないって事でw。一律にこういう教育方法がいいは有り得ない、はわかりきってる訳でw
welpherd 言葉のあやのような気がする。「受験地獄」というより「詰め込み教育」であれば同意。詰め込んだ後で整理する、というのが学習の最短コース。優秀な学習者が優秀な研究者とは限らないが、逆は正しい
y_ryuzan ゆとり教育反対論者が勘違いして大喜びする様が目に見える。きちんとビジョンを持っている人間なら受験地獄なんて足かせにしかならんことは明らか。実際はおれのような人間が多いから、その方がマシ、という話
tappyon 受験なんて意味の無い目的の無い暗記するだけで考える要素なんて何も無いもの。それが閉鎖的である原因だと何故思わないのか?
amamiya1224 基礎を叩き込むといえば聞こえはいいが、本質に目を向けることのできない者は、誰かの都合のいい犬になる。 RT 【ノーベル化学賞】「私は受験地獄の支持者だ」「若者よ、海外に出よ」根岸さんが会見 - MSN産経ニュース
temtex 受験地獄は今もあり,若者が努力をしないわけでもない。だが、嘗ての経済状況はとうの昔に過ぎ去り,奨学金も無い、新聞奨学生で地獄を見ても大学すら行けぬ。さて、これでどうやって海外に行く?
satidama 意外と古い考え方の人だな 理系のやつなんてそんなもんか
tropical_sorbet 勇気づけられるが、骨を拾ってくれるわけでもなく。
guldeen 何でも記憶できる・筋力がつく時期に基礎トレーニングをやれ、というのはその通り。だが日本の『受験地獄→ユルユルな大学内』はいただけない。そら、意欲・能力の有る者は“頭脳流出”するわ。
asap7 受験地獄は結構だが、今の教育制度は改革して欲しい。英語教育とかどうにかならないのかな
tdam 海外生活の長い根岸氏が日本の受験事情をどこまで知っているのか。日本の高等教育の閉鎖性は同意するが、専門外のことは割り引いて考える必要がある。
te2u 研究に必要な基礎は、受験地獄でしか身につけることができないのか?/受賞者が日本人である、ということで浮かれてていいのか?
neogratche 基本を習得するという「目的」は確かに大事だけど、その「手段」としての受験勉強が様々な社会悪を生み出している事は事実。本当に受験地獄が最善だと言い切れるのか?
go-ya-juice 教育システムではなく、研究環境に問題があるってことなのかな
runeharst ただし、研究職の人には受験なんたらがry とか思ったりした。
electrolite 基礎を効率よく理解させることはおそらく教育で一番重要なことだが、英語の多様性を無視した「発音記号」なるものを「読んで」、正しいかどうか答えさせるような問題がセンター試験にでているようじゃね。
xzglrete 詰め込むというか、基礎を念入りに教えることはとても重要なことだが、それで受験「地獄」の正当化をするのは反対。必要なのは、加えて知的好奇心とそれによる刺激で、淘汰圧かければいいってもんじゃない。
kokutou_gareria こういうノーベル賞を取った人間が、その権威を盾にして主義・主張を行うのはやめて欲しい。IT長者の自分語りと同等か、それ以上にウザい。
rAdio 教育課程は複線であるべき。受験地獄でも何でもあっていいと思うけど、「それしかない」という単線状態だけはあかんやろ、と。
vid 義務教育レベルの「基礎」となると、それを身につけるには詰め込みと徹底した反復しか無いんだよね。独自の研究はいいが、独自を支える基礎が重要なのはその通りです。それが近年では……
略
彼らに足りないのはカルシウムじゃありません。知能と知性です。
「ヨーロッパ人は誰でも英語を話す、それに引き替え日本人は」云々という議論を耳にする。確かに英語が流暢なヨーロッパ人に「どうして英語がしゃべれるの?」と訊いたら、なんでそんなこと訊くのという顔で「学校で習ったから」と答えるのが常だという。これを見て、日本の学校英語教育がいかに腐っているかという結論に飛びつく人は少なくない。
確かに日本の英語教育は旧態依然であり、最近の研究成果が反映されていないということはあるかもしれない。しかし、問題はそれだけなのだろうか。ヨーロッパ人が英語を初中等教育の間にかなりのレベルにまで身につけられて、日本人ができないことには根本的な原因が他にあるように思えてならない。
以下は、米国の外交官が各地の言語をビジネスレベルにまで学ぶのにかかった時間の表である。孫引きご容赦。
| 分類 | 学習時間 | 言語 |
|---|---|---|
| 英語と類縁性の高い言語 | 575-600時限 | アフリカーンス語、デンマーク語、オランダ語、フランス語、イタリア語、ノルウェー語、ポルトガル語、ルーマニア語、スペイン語、スウェーデン語 |
| 750-900時限 | ドイツ語、インドネシア語、マレー語、スワヒリ語 | |
| 言語学的・文化的にはっきりとした違いのある言語 | 1100時限 | アルバニア語、アゼルバイジャン語、ベンガル語、ブルガリア語、チェコ語、フィンランド語、ギリシャ語、ヘブライ語、ヒンドゥー語、ハンガリー語、アイスランド語、カナダ語、ラトビア語、リトアニア語、マケドニア語、モンゴル語、ペルシャ語、ポーランド語、ロシア語、セルビア語、スロベニア語、タガログ語、タジク語、タミル語、テルグ語、タイ語、トルコ語、ウクライナ語、ウルドゥー語、ウズベク語、ベトナム語、ズールー語 |
| 英語母語話者にはかなり難しい言語 | 2200時限 | アラビア語、中国語、日本語、韓国語 |
出典:http://en.wikibooks.org/wiki/Language_Learning_Difficulty_for_English_Speakers
この表は外交官というかなり限定された人を対象にした調査だが、すくなくとも英語母語話者にとっての言語の難易度の序列としてはだいたい合っているといえるだろう。そして、だいたいこの関係は逆に読み取ることもできて、たとえばオランダ人が英語を学ぶのは日本人よりもずっと簡単だということも言えるであろう。こう言うと「英語話者にとって日本語が難しいのは漢字が難しいからだ」と言われるかもしれないが、文法的に近似していて漢字がほとんど使われない韓国語が日本語と同じ分類に属していることから、そこはあまり本質的ではないであろう。
一方、学校での授業時間数を考えてみよう。日本の学校では年間授業日数は約200日である。毎日1時間英語の授業があったとして、中高6年間での英語の授業時間数は、定期考査や学校行事のことを考えればたかだか1000時限程度である。そしてヨーロッパの学校は日本の学校に比べて授業時間数が多いことはないだろう。
となると、結局「ヨーロッパ人は学校で習えば英語ができる」云々は
「ヨーロッパ人は学校で1000時限ほど勉強すれば英語をビジネスレベルに使えるようになるが、日本人はできない」
ということを主張しているに過ぎないことになるが、これは上の表を見れば何も不思議でないことになる。おそらく、日本人が英語を身につけるためには、ヨーロッパ人に比べて2-4倍の時間がかかるのである。
となれば、いったい日本人はどうしたらよいのだろうか。中等教育の1000時限ではとても足りないことははっきりした。あと1000時限ほどの学習が必要である。
この1000時限分、中高6年分を社会に出てから確保するのが絶望的でありしかも遅すぎるのは間違いない。といって、大学で毎日1時限を英語に充てることも無理だ(レジャーランド化したような大学ならともかく、まともな大学生にそんな時間はない)し、もし「日本人も英米の大学に進学すべき」という要求を満たさねばならないとしたらやはりそれでは遅い。
となると小学校の6年間を充てるかということになるが、小学生の読み書き能力が極めて低いということは忘れてはならない。ひらがなやカタカナを学んでいる子供にラテン文字を教えるのは負荷が大きすぎるし、漢字や分数・小数、あるいは都道府県の名前といった「一般常識」レベルのことを学んでいる子供にさらに負荷をかける余地も少ない。そしてこのくらいの年頃の子供は興味がなければ全く学ばないし、学んだこともすぐ忘れてしまう。実際、小学校の後半ぐらいから2言語ぐらいを学んでいるヨーロッパ人でさえ、「中学から勉強しなくなったドイツ語やフランス語は全部忘れちゃって何も覚えていない」という人は珍しくないのだ。英語が特に流暢な語学好きな人だってそうなのだから後は推して知るべしだ。
つまり、日本でできることはほとんどないのだ。香港やシンガポールのように屈辱的な歴史的経緯から日常生活に英語が溶け込んでいればともかく(それでも香港人やシンガポール人全てが英語が流暢なわけでは全くない)、日韓中のように大英帝国の支配を逃れ続けた国民にはそのような機会は全くない。実際、世界的にこの三ヶ国は英語力ワースト3と言ってよい(英語が流暢な中国人は多いように見えるが、その多くは移民の2世以降やごく一握りのエリートである。中国人は母数がめちゃくちゃ多いことを忘れてはならない)。
以上見たように、英語が世界を支配することは結局起こりえない。あるとすれば旧大英帝国と米国をたきつけて世界征服戦争を起こしてもらうしかないということだ。
結局「国際英語」の考えの欠陥はここにある。母語話者が自分たちの文化から逃れられない限り、自然言語を異文化圏に平和裏に浸透させることは無理だということだ。英語圏の文化を普遍的で上位にあるものとして強要しない限り、十分な英語力を得られない異文化圏の人間を無視して英語支配を正当化することはできない。だからといって「英語帝国主義」に開き直ることはそれ自体恥知らずというものであろう。
やれ英語の時代だ、やれグローバル化だということが近年安易に言われるが、ヨーロッパのような文化的に近縁な地域や旧大英帝国、また米国の勢力圏化にある中南米を除いてそのような流れが一般化しうるのかという検討が全くなされていないのは実に不思議だ。「英語がしゃべれるようになれ」といわれてできるのであれば誰でもそうするであろう。問題は「なぜできないのか」を考えるべきことではないのだろうか。無理なものを無理強いしてもどうしようもないということに早く気づくべきである。
オランダ・ハーグの国際刑事裁検察局が日本の文科省局長を逮捕起訴
オランダのハーグに位置する国際刑事裁判所(ICC)検察局は、日本の文部科学省初等中等教育局局長金森越哉(56)氏の統括する日本の教育が詐欺教育の疑いがあり、「児童の人権に関する条約」および「拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」に反する可能性があるため、14日、捜査が行われ、同氏をその共謀共同正犯とみて、国際刑事裁判所に訴追することを決定した。ICC検察局は、「日本社会の統治の仕方は、一見西洋化した理性的支配に見えるが、実は全く理性的なものでなく、ほとんど呪術の類であって、大人たちが言葉を巧みに弄して子どもや庶民の感情を操作し、その競争心や活動力を利用することで成立している残虐な奴隷社会だ。 日本を牛耳る日本語のプロ達はあまりにも精妙な話術を弄するので諸外国は気づいていない。日本において重大な人権侵害が日々行われているので捜査願いたい」という日本人からのメールにより、日本研究家に日本社会及び日本語の調査を行わせたところ、日本が非近代的な呪術的社会であることの疑いが強まり、呪術支配の首謀者である金森氏の刑事訴追に踏み切ったとコメントしている。(共同通信)
日本研究家の話「文献によれば、もともとこの国の民族は19世紀後半まで西洋理性を持たなかったことが明らかであり、いわゆる明治維新と呼ばれる改革にときに西洋理性に酷似した造語を大量に作ったようだが、その後に形骸化し、現在では感情を操る形式と化してしまっている。日本の大人は有形的暴力はあまり使わないものの、もともと感情しか持たない人民に強引に造語を暗記させ、それで感情を呪縛する方式で支配しているだけであるから、実質的に言って日本の支配方法は諸条約が厳に禁ずる残虐な感情的虐待に当たる。したがってICC検察局が日本の教育当局を捜査し、条約に基づき責任者を処罰するのは正当だ。」
オランダのハーグに位置する国際刑事裁判所(ICC)検察局は、日本の文部科学省初等中等教育局局長金森越哉(57)氏の統括する日本の教育が詐欺教育の疑いがあり、「児童の人権に関する条約」および「拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」に反する可能性があるため、同氏をその共謀共同正犯とみて、14日、捜査が行われ、同氏を国際刑事裁判所に刑事訴追することを決定した。ICC検察局は、「日本社会の統治の仕方は、一見西洋化した理性的支配に見えるが、実は全く理性的なものでなく、ほとんど呪術の類であって、子どもや庶民の感情を言葉の魔術で愚弄して操作し、その活動力を利用することで成立している奴隷社会だ。日本を牛耳る日本語のプロ達はあまりにも精妙な話術を弄するので諸外国は気づいていない。日本において重大な人権侵害が日々行われているので捜査願いたい」という日本人からのメールにより、日本研究家に日本社会及び日本語の調査を行わせたところ、その通りであることが発覚し、首謀者である金森氏の刑事訴追に踏み切ったとコメントしている。(共同通信)
日本研究家の話「文献によれば、もともとこの国の民族は19世紀後半まで西洋理性を持たなかったことが明らかであり、いわゆる明治維新と呼ばれる改革にときに西洋理性に酷似した造語を大量に作ったようだが、その後に形骸化し、現在では感情を操る形式と化してしまっている。日本の大人は有形的暴力はあまり使わないものの、もともと感情しか持たない人民に強引に造語を暗記させ、それで感情を呪縛する方式で支配しているだけであるから、実質的に言って日本の支配方法は残虐な感情的虐待に当たる。したがってICC検察局が日本の教育当局を捜査し、条約に基づき責任者を処罰するのは正当だ。」
http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20090224/p1
これを読んで改めて感じてしまった。
以前は自分が批判される若者の立場にいるから反射的に嫌悪を感じているんだろうと思っていたけど、
若者と言えない年齢になってからも相変わらず「気持ち悪さ」を感じるんで何故なのか整理してみようと思う。
(1)不遜さ。
「以前はマシだった」=「自分はマシだった」という不遜さが垣間見える。
そして「今の若者はこんなこともできんのか、俺はできたぞ」という主張は
たいていは曖昧模糊とした思い出語りの域を出ず、本当にできたという保障はどこにもない。
この態度に僕はこんな疑問を持つ。本当に「昔の自分」と「今の若者」を比べていますか?と。
学生の倍は人生経験のある「今の自分」と「今の若者」を比べていませんか?と。
(2)傲慢さ。
若者語りがされる時「では、どうするか」の視点が欠けている場合が多いような気がする。
「今の若者はこうだ。本当はこうでなければならない。そうするには…」の「そうするには」が欠けている。
ことが教育となるとこの部分を考えるのも言い切るのも難しいけれど、そこが欠けてしまうと単なる愚痴にしかならない。
自分は何にもしないけど、自分の理想の若者像を押し付け、勝手にトランスフォームしろという傲慢さが鼻に付く。
何故、あなたの理想像に合わせなければいけないのか? そうするにはどうすればいいのか? そのメリットは?
(3)切り離し。
何故か若者が語られるときは、話者と若者の因果が無視される傾向にある。
まるで今の若者が脈絡もなく、突然変異的に現れたかのように語る。
今の若者は自分たちが作り出したんだ、という視点が欠けている。
勝手にダメになったんだから、自分たちには責任はない、ダメな若者が悪いんだと説教をする。
そして、同時に入り込んでくる「僕らは大丈夫」のニュアンス(上のブログで言うなら「僕の子供は大丈夫」)。
因果を無視して「彼らはダメだ。僕らは大丈夫」と言ってるだけじゃ、世代間闘争にしかならない。
というか、上でリンクを貼ったブログ主の人は、今現在ダメな若者を作り出している立場にある人じゃあないですか!
(4)責任転嫁。
上記(3)の亜種(セットになって出てくる場合も)。大学で言うならば「大学で教える以前の問題だ」という態度。
「高校の教育が悪い」「いや、中等教育が悪い」「いや、初等教育が悪い」
「いや、親の教育が悪い」「いや、社会が悪い」と責任は繰り上げられていく。
ドリフターズのいかりや長介と仲本工事が演じる「バカ兄弟」というコントがある。
ある日、兄弟の弟(仲本工事)が参考書を開いて一生懸命勉強している。それを見た兄は弟とこんな会話をする。
「何で勉強なんかしているんだ?」
「兄ちゃん、オイラ大学に入りたいんだ。そのために勉強しているんだ」
「ハハハ、やっぱりお前はバカだな。学校っていうのは、頭が悪い奴が頭を良くするために行くところだ。入る前に勉強して頭を良くしたんじゃ、学校に行く意味がないだろう」
僕はこれこそが教育だと思う。大学生の頭が悪いんだったら、そこで優秀にしてあげなければいけないじゃないですか、と。
そのアイデアは、こちらのアイデアの「『教諭』でなく『教科特別講師』という身分」を活用する現場のイメージと、発想の根を共有し、従ってリンクさせることが可能なのではないかと思う。
現在初等中等教育の現場で、現場がもっとも悩んでいることに一つに「総合学習」枠が活用しづらいという問題がある。少し調べれば分かるが、これはまさに現在の公教育内に「私塾」を作るという発想に近いんだ。でも現場にこの枠を活用できる余裕がない。
そこで、「総合学習」枠で『教科特別講師』がそれぞれ小さな私塾を作るというのは、現在の教育制度の延長線上で実現可能な、そして効果のあるあなたの発想の具現化ではないかと思うがどうだろう? 反応乞う。
教育予算が益々減り、一方でアカポスの減少・不安定さから院卒・オーバードクターが余ってたり講師で食いつなぐ人が多い日本なわけだが、
という政策を提言したい。
「教員免許更新制」はハッキリ言って百害あって一利無しの愚策であり廃止されるのが妥当だが(根拠はググれ)残念ながら現在の教師の育成システムでは保護者から「教育への信頼」を取り戻すのが難しいのは事実で、だから教育改革は必至。ただし予算はカツカツ。そこで上の政策。余っている頭脳を、必要な所へ。「研究の最前線」で活躍している人が小中高と連携する。スーパーサイエンスとかそういう政策よりも遥かに実になる現実的なプランで、しかも予算は安くて済む。そして、準アカデミーポストの人が教育の最前線に関わることにより、教育への信頼は復活する。
この政策のミソは、身分が「教諭」とか「常勤講師」でなく「特別教科講師」という新設身分であること。まずは大学の多い府県などを特区指定して、そこに、定数外/常勤で配置する。のちに「教諭」になるのでなく、あくまでメインは「研究」であることが保証され論文を書き、将来はアカポスを得る予定の人が一時義務教育・初等中等教育に関わることが大事。
ここには書ききれないが、実現すれば様々なメリットや相当な効果が期待できる。とりあえず研究職を目指す人の生活の安定も含めて検討すべき政策だし、その意味では急いで検討を始めたどっかの私立進学校とかがパクってやり始めるのも可。その場合卒業生中心に声をかけたりすることになるんだろうな。
(追記)
ちなみに、この話題を自ブログでなく増田に放流したのは、自分の立ち位置を予断に含めて欲しくなかったこともあるけど、現在の増田が非常によいブレストの場になってると考えているから。未熟なアイデアを、しかも小出しみたいな形で出してるのはそれが理由。なので「私塾良くね?」みたいなレスポンスはとても楽しい。ありがとう。あとブクマが増えてることにも感謝してます。適宜そちらにも反応返せたらと思います。そちらのみなさんもありがとう。(反応返してみた:http://anond.hatelabo.jp/20090219230021)
おいおいちょっと待て。嘘言ってもらっちゃ困るよ。
まぁ、私立トップだとクラブとか禁止で勉強するらしいから、それに比べて平均値が低いのはしょうがないけど、トップの層の東大、京大、阪大に行ってる数とかがリアルに桁違い。
俺は灘だったんだけど、クラブ禁止なんて聞いたことないぞ。確かに運動部は高2の秋ぐらいに部活を引退することが多いんだが、それでも高3で試合に出たりする奴もいないわけじゃなかった。むしろそういう奴は周囲から一目置かれていたしな。それに、学校で受験指導らしい受験指導も受けたことがない。
そして、俺の知る限り、甲陽とか洛星とか東大寺とかそのへんの関西のトップ校はどこも似たような感じだったぜ?関東のトップ校のことは余りよく知らないけど、開成とか麻布とかの知り合いから部活禁止なんて話は聞いたこともない。
それに、進学実績も君が信じてるほど私立が図抜けてるわけじゃないぞ。兵庫県で言うと、長田高校や姫路西高校に進学実績で勝ってるのは灘と甲陽だけだ。そして、これらの学校は地域的に離れているので事実上住み分けができている。灘や甲陽は本質的には「西宮北高以上の進学校がない地域」の人間の避難所として機能しているだけで、別に受験に特化した学校というわけじゃない。
別に進学実績なんかどうでもいいんだが、「私立トップ校は受験少年院」みたいなデマを流すのは勘弁してほしいんだよね。そういうデマのせいで、「中高時代勉強しかしてなかったのか」みたいなうざい奴が続出して、正直かなり迷惑してるんだよね。
つーか、そんなことよりもっと気になるんだが、「偏差値30」とか「偏差値70」とか、「偏差値」を絶対的な指標みたいに使うのやめてくれ。
「偏差値」ってのは純粋に統計的な量にすぎないのであって、同じ学力でも母集団が変われば偏差値ってのは大きく変動する。早い話、「偏差値50」ってのは「平均点」っていう意味しかなくて、たとえばレベルの高い模試での「偏差値50」と、誰でも受けられる模試の「偏差値50」の学力はだいぶ違うはずだ。
「戦闘力」じゃないんだからさあ、「俺の偏差値は70だ」みたいな言い方はやめてもらえないかなあ。「偏差値」ってのは母集団が決まってないと全く意味のない数字なんだよね。
追記 ブクマの人へ
ということは、大阪にはそもそもトップレベルの中等教育(高校教育)のニーズはない。のか。/必要なら、兵庫、京都、奈良あたりに越境通学させるから。
そういう面もあるけど、実際問題として大阪のトップ公立校を蹴ってまで隣接府県に行くメリットはあまりないんだよね。私学トップ校と大阪の公立トップ校の差ってのは非常に微妙な差しかないので、入学時の平均学力がちょっとでも高い学生をかき集めることに意味があるかというとこれは一概に言えないからね。むしろ私学のメリットは高校受験の内申点を回避できることと、私服だったり部活が盛んだったりして校風が自由なところじゃないかな。後者は公立でも結構満たされてるけど。
http://anond.hatelabo.jp/20081025104047
日本は1979年にこれを批准しているが、その内の「中・高等教育の段階的な無償化(第13条)」については留保している。
第13条
1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。
2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。
(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
(d) 基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全課程を終了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること。
(e) すべての段階にわたる学校教育制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及 び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。
戦前は6年制の小学校、5年制の旧制中学校、それ以降が高等学校や大学だった。
単純に年数をアメリカに合わせて名前は直訳しただけじゃないかな。
高等学校なのに中等教育に分類するのってかなり紛らわしくね?何でもう少し別の単語で訳さなかったんだろ。文科省の中の人は高校も高等教育に分類してたりするんじゃないの?
そもそも高等じゃなく中等とかいてるあるけどどういう違いがあるんだろうか。
初等教育=読み書き算数など社会生活に最低限必要な教育→日本では「小学校」の6年
中等教育=高等教育に必要な基礎知識を身につける→日本では「中学+高校」の6年
高等教育=専門家を育成するための教育→日本では「大学」(短大や高専の後期課程も含む)以降
だから元増田の指摘は正しい(子どもの権利条約では中等教育までしか書かれていない)けど、高等学校(!= 高等教育)までは受けられるようにするのがまっとうな国としての責務ですよとなっているのも確か。
まぁ義務教育は中学までしかないけど、現実問題として(特殊な教育を受ける場合を除けば)中等教育を完遂しないというのは日本ではあまり現実的ではないと思う。橋下はなんていうかすげえ現実と離れたところで話してる感がある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1186237.html
2008年10月25日hokusyu 教育, 政治, これはひどい, あたまがわるい 高等教育の無償化は「子どもの権利条約」でも保障された無条件の権利であって、まずそれを実現できてない政治が真っ先に反省すべき。居直るどころか正当な要求をした子ども自身を非難するのは論外。
種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
とある。
どう読んでも『無条件の権利』ではないんだが、なんかスターいっぱいついてるのはどういうことなんだろう。
みんなそろって嘘ついてるの? それとも、よく知らないけど自分たちの主張に合致するからってこと?
まず、君、題名のリンク先が間違ってるね。それは君が書いた古い記事だ。
意図は質問だよ。自分は服装でも教育でも何でも属性によって差があろうが是正すべき不公正とは思わないが、あなたはなぜそれが不公正と思うのか、どういう基準なのか聞いたということ。
いや、だから相対化だろ。スカートだの大食いだのというどうでもいい「格差」も存在する、従って格差は全てどうでもいい、と。そういう乱暴な論法にしか見えない。少なくとも「是正すべき不公正とは思わない」という、少しも自明でない主張に対して何の論拠も挙げていない。
だからスカートについては保留といってるだろ。是正しろとは言っていないが、不公正でないとも断言しないよ、俺は。教育ほどの大きな不公正があるとまでは思わないが。そもそも「格差がある」ことと「是正すべき」ということはまた少し違う主張だ。なぜなら、是正をするための資源にも限りがあるから、そこから先はまた次元の違う議論になるからだ。これも何度も書いたことだが
無制限に受けれるわけではないのは日本でも外国でも変わらないのに、何で俗流解釈になるのやら。その記事だって斬新的とか書いてあるように無制限になんでもやれというものではないし、日本の例にいたっては高等教育とも書いてないし大学や塾や家庭教師をどうするかなんか何も書いてない。
馬鹿。なんで「塾」だの「家庭教師」だののあらゆる教育形態を国が網羅しなきゃならんのだ。何らかの形で教育を受けられる機会が存在すればいいんだよ。そしてそもそも日本国憲法には学制だのなんだのと細かいことを規定するためのものではないんだから、そこに「書かれてない」ことは何の論拠にもなりゃしない。そこまで言うならほれ、教育基本法。
第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。
(教育の機会均等)
第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。
わかったか?君が考えてるより日本の法律はずっと経済弱者にやさしいのだよ。ちなみにこの文章から高等教育は除外されてるなんて恣意的かつ馬鹿な結論を見出さぬよう望むよ。念のために言っておくが「高等教育」とは「高校教育」のことではないぞ。高校は「中等教育」だからな。こんなこと常識だろうが、まったく。
社会的要因によって大学進学率に差が出るのは不公正で塾や社員教育なら公平というのはどういう論理展開なのかさっぱりわからん。
ほらまた言ってないことについて勝手に人の意見を捏造した。国の権力が及ぶのは学校教育法で定められた学校の範囲に決まってるだろ。塾や社員教育に国が口を出したらそれこそ国家権力の専横だろうが。ちなみに教育訓練給付制度っていって金だけ出してくれる制度はあるんだけど、これは教育行政じゃなくて労働行政の管轄(要するに失業対策)ね。
個別にそういう人がいたってかまわないなら、結果として全体の傾向に差があったって問題ないと思うんだが、どうして問題になる?
馬鹿としか言いようがない。サイコロで6が出ることがあるのは当然だが、6しか出ないサイコロには問題がありすぎるだろうが。
だからそれが問題だと最初から言ってるんだろうが!それが問題じゃないとでも思うのかお前は。どんだけ無自覚な搾取者なんだお前は。
細かい昇進とか給与体系は知らないけど、
ってのはどうなんだろうね。調べたら、小学校ではざっと4:1なので、「珍しい」までは行かないようだけど、元の構成比が構成比なのに。
以下データ