はてなキーワード: 社会生活とは
全て捨ててしまいたい、という思いが二時間ほど前から消えない。
就職活動に完全に乗り遅れていたり、今期に入ってゼミ以外一度も学校に行っていなかったり、友達が全然いなかったり、何も誇れることがなかったり、社会生活がとても営めそうにないと思ったり、そんな諸々の自業自得な悩みに、今日が卒論の第一回プレゼン発表の仮完成物を先生と打ち合わせるのに、全く出来てないという切っ掛けで吹き出してきただけなんだと思う。
こんなことかいてる間に、資料を探して読んで少しでもまとめればいい。何なら今日は仮病を使って明日謝りながら行ったって良い。でも、やりたくない。絶対に、明日になってもやらないと思う。
就職活動だって、行きたかったのに募集が終わったと残念がってた企業が二つも二次募集を始めて、奇跡かと喜んだのが一週間前。なのにESを全然書けてない。書こう書こうと思って、またズルズルとやってない。これからも出来る気がしない。
何でこうなってるのか、全部リセットしたい、という思いが消えない。
多分ただの逃避だとはわかってる。ちょっと面倒なことは全て先延ばしに先延ばしに、逃げて逃げてきたから、逃げ場を失って今度はパニックに逃げ込んでるだけだと思う。
でも、電車に乗って遠い所へ行くとか、蒸発するとか、そういう妄想ばかりが浮かぶ。
包丁はさっき一辺手に持ってみたけど、やっぱり実際に使う勇気はなかった。
私は別にメンヘラじゃない、なんちゃってメンヘラだ。だから、それっぽい行動に憧れて、こんな事してるんだとはわかってる。
でも、何もしたくない。今までと違って、何もしないで生きていけるほどこれから先の人生は甘くない。ということは生きていけないってこと。なのに死ぬ勇気も出ない。ただリセットして捨ててしまいたい。
どうしたら良いんだろう。
さっき、前々から興味があったいのちの電話に掛けてみようかと思ったが、番号を押し終わったところで切った。
いのちの電話に掛けれるくらいなら本当に自分はやばい状況じゃない、だから掛ける必要はないんだと思ったから。心の中で「創作の材料になる良い経験だから掛けちゃえよ」と思ってる自分もいたが、それってなおさら掛ける意味がないって言うか不純だしね。別に不純でも良いけど、そんな目的なら明日か明後日で良い。電話する暇があればプレゼンの資料を作るべき。つか創作ってなんだ一つも書き上げたことないくせに。ワナビもいい加減にしろと。
とかいいながら増田に書いてるんだけどー。
なんだこれ。ここまであれなのは初めてだな。
こんな混乱も、せめて一週間前に来てれば適当なことで気晴らしをして、真面目な生活に戻れたろうに。もうそんな時間もないじゃん。あっは、混乱すら乗り遅れやがったぜ。
大学を学歴のために使うか社会に出てから必要な知識の基礎を学ぶ場として使うかは知らないけど、どちらにせよ大学を社会への通り道として使うわけだ。しかし社会に出てからも人間関係による問題が今までと同じように表れてきてしまった場合、社会生活そのものが破綻してしまう。これまでも駄目だったのだから次も駄目だろう。社会に出るために大学に入るのに、その社会で自分は生きていけないのか。じゃあ大学に入るのも無意味だ!
ってことじゃないの。現状が上手くいかないと未来に対しても悲観的になってしまうのはよくあることなので、理解できないではない。
まあ、
とにかくこれやって、大学も行ってみて、駄目そうだったらまた考えればいい。やらずに逃げるよりやってすぐ逃げ出す方がマシだ。もしかしたら運良くいい環境に巡りあえるかもしれないからね。
いろいろあって、同世代よりちょっと給料の良い職場にいさせていただいている。
でも、
とにかく働くと言うことが何かとてつもない損をしていることのような気がする。
だから働きたくない、できるだけ働く時間を減らしたいのだけど、
そのために働くスキルをあげるのもなにかだまされているような気がする。
仕方がないので貯金をする。
土日をフルに使ってインターネット。彼女なんか30年間いたためしがないし東京に友達はいない。
金はたまる。月給の半分ぐらいで生活しているし、ボーナス商戦には乗らない。
たまるんだけど、働かないですむようになるためにはぜんぜん足りない。
ちょっと投資をしてみたけど、見事に損をした。
投資について研究するのも仕事に思えてしまったため、結局当てずっぽで投資したためだろう。
いくらあれば働かなくてすむようになるんだろう。怖くて計算できない。
定昇を無視して同じ水準の生活をしていこうとしている。
むなしい。でも先輩が時計や車の話をしていると、なんて無駄なことを、と思ってしまう。
当然彼女も欲しいわけだが、出会いの場に行く事ができない。そっち方面には金が使えない。
でも面倒だから自炊はしない。もっと絞れるところはあるはずなのに。
寂しい。
淋しい。
だんだんお金の話じゃなくなってきた。
今「生きてて楽しい?」って聞かれたら多分殴る。泣きながら。
この年だと恋愛即結婚なんだろうか。結婚するともう働かない人生は不可能だ。
どこかで仕事をやめてあとは寝てすごしたいのに。そんで気が向いたときだけバイトする感じで。
夜中まで働かないと社会生活が維持できないってのは何か間違っているような気がする。
夜中までじゃなくても、週5日8時間でも多すぎる。絶対。
今の仕事の内容自体は嫌いじゃないんだ。ただ朝起きてその日にやるべきことがあるのがいやなんだ。
かといって土日はなにもする気が起きないで朝の10時から夜3時までインターネットって極端すぎやしないか。ないものねだりか。
自分がわからない。
明日は早く起きて自転車で出かけよう。それはそれでいつもどおりの休日だけど。
東京大好きだけど。いやまじで。
書いてるうちに自分の悩みの中身が見えてきた。(あとちょっと落ち着いてきた)
要するに、
・平日の予定がある
・休日の予定がない
この二つが悩みなわけだな。
いつになれば平日の予定がなくせる=仕事をやめられるのかがわからない、ってのも含めると三つ。
でもって、ちょっと努力をすれば、
・平日の予定があるのに休日も予定があってうざい
・金が溜まらないため、いつまでたっても平日の予定がなくせる時期が来ない
に変更可能なわけだ。
どっちがマシかもうちょっと考えよう。仕事の合間合間にでも。
気になったので、勝手に補足。
sta la sta - 相手の嘘を見破るためのいくつかの方法
もしあなたが「これは嘘だ」と判断しても、相手は本当のことを言っているかもしれない。
もしあなたが「これは嘘ではない」と判断しても、相手は嘘をついているかもしれない。
どちらの場合にせよ、あなたは少なからず被害をこうむることになるだろう。
あなたがこうむる被害としては、「相手を信用できなくなる」ということ。
社会生活の様々な局面において、「相手を信用する」というのは必要なスキルになる。
一旦その相手を「否」としてしまうと、相手との関係発展(あるいは関係維持)が難しくなる。
相手が嘘をついてあなたを騙そうとしている場合、被害は甚大なものとなる可能性がある。
いわゆる“詐欺”に遭ってしまった人々の多くの弁解として、
「こんなはずじゃなかった」「あの人は信用できると思った」「まさか私が騙されるとは」「嘘をついているようにはとても見えなかった」「なぜあの人が」等々がある。彼らは「これは嘘ではない」と判断した。しかしその結果、騙されてしまった。
世の中には、表情や振る舞いを全く変えることなく、いとも平然に嘘をつける類の人々が、確かに存在する。
また、「嘘をつかずに騙すことのできる」人々も存在する。自分の本心さえも書き換え、自分の頭の中で「嘘を本当にしてしまう」才能を持った人々。この人々は、本心から相手を騙すことができるので、「嘘を見破るための方法」なんて全く役に立たない。彼らは嘘をついていないのだから。
上記リンク先のような「相手の嘘を見破るための方法」は、嘘を受け流す際のおまけ、くらいに捉えておいたほうがいいかもしれない。
いやいや、彼女はそんな重々しいことは言ってないんじゃないのかな。
「化粧する私」とか「本当はガサツだけれど甲斐甲斐しく振舞う私」とか、そういうレベルの「理想的な何か」のことでしょう。
どうもあなたは「普段とは全く違う、偽りの自分へと変貌しなければ恋愛なんてできない」とか、そんな重々しい意味に捉えているようだけれど。そんな話じゃないし、彼女はひねくれてなんかいないでしょう。普通普通。
だって人間、何重にも自分を演じ分けなければ社会生活なんて送れませんよ。会社で私の上司が突然「課長」としてでなく「自分の孫のおじいちゃん」として我々に対して振舞いだしたら、私も他の部下も救急車を呼ぶと思う。w
ツーショットチャットの黎明期、「自称芸能人」と会話したことがあったのをふと思い出した。この手の「自称」は当時から少なからずいたので事実かどうかはどうでもよかったが、面白かったので色々話を聞いた。相談に乗っているうちにずいぶん気に入られたみたいでなんだかつきあってくれという形になったがまあこういうコストパフォーマンスの悪い詐欺もあるのかもしれないと適当に聞き流しておいた。名前も聞いたが、知らない名前だった。後で調べたら深夜番組に時々出たりしているマイナーなタレントの名前だった。当時のチャット上には、ニセモノ、ネカマ関係なく、話してて面白い、濃い人間の割合が高かったように思う(直接会って確認した相手も何人もいるので、もちろん全員が全員「騙り」というわけではない)。社会生活において強い不全感のあった人間が、当時まだ普及していなくてハードルの高かったネットに、そのハードルを乗り越えてまで救いを求めていたからかもしれない。自分もそういう相手にシンクロすることで、何かを乗り越えたり、やりすごしたりしようとしてきたのだと思う。初期のツーショットダイヤルにも似たような傾向があった。一度もう「時効」になった頃に、その頃の体験をまとめて書いてみたい。
http://anond.hatelabo.jp/20070324135307
Youケツ毛剃っちゃいなよ!
こないだわけあって服で隠れる部分の体毛を全部そってみたら、風呂上りに体を拭いて乾燥させるまでの時間がものすごく速くなって便利だった。いっそ頭も…いやいや社会生活に問題が。
http://anond.hatelabo.jp/20070324133723
何もしてないのにしみるのは痔だよなあ。病院へ行け。もしくは薬局へ行け。
http://anond.hatelabo.jp/20070324141037
いらないよね!
http://anond.hatelabo.jp/20070324143141
ひげと同じで継続的に管理するですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070316193101
良い感じだね。羨ましい。>講師の人
そう、無関心。無関心なことがきりがなく続くのは面倒だという感覚。
でも、現在の自分のルーチンワークは許容できる。今すぐ死ぬことから2番目くらいの良い方法と判断したから。
死にたい気持ちに変わりはないが、自分で選んだ方法として、それなりに楽しくこなしている。
これがどうにも嫌な人は、突然「生きがい」とか「世界滅亡」とかに飛びつきたくなるのかもしれない。
親御さんだけが気がかりという状況は正直羨ましい。
自分は既に三十代だけれど、長く生きれば生きるだけ、恩のある人が増えてきてしまった。
関わり合う人は極力少なくするように暮らしているが、今日突然自殺して仕事を滞らせては職場に迷惑がかかるし、
同僚もショックを受けるだろう。兄弟や、なついてくれてるその子どもたちもショックだろう。
困らせたいわけじゃないんだ。自分が早く死にたいだけで。参ったなあ。
社会生活というのは、つまりそういうことなのだろうと思う。
平均寿命からすればまだ折り返し地点にすら着かない。まあ、ペースを守ってぼちぼち行くとしましょう。
以上、直接恩のある人がいないここで、増田はいつも考えてることをつぶやいてみました。
http://anond.hatelabo.jp/20070306165258
現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する
これはそうだよなぁ、と思った上で思うんだけどさ。
見知らぬ他者の能力や実力に「アクセス」できるようになるのには時間が掛かるじゃん。大学や社会で「能力ぐらいは聞こえてくるけど他者」な距離の奴らを知ったり、あるいはニュースやネットで自分とは全然関係ない奴らの「属性」を知ったり。そういうのを「知らない」と、見下すことすらできやしない。逆に言えば、自分の隣の奴を、隣の奴に分かるように見下しちゃうと社会生活に影響が出るから、わかんないように見下すか、それなりの距離のある対象を見下すよう「賢く」なっていってるだけとも言う。
で、小学生や中学生ぐらいまでってさ、アクセスできる、知ることができる人間関係の幅って所詮クラスや学年どまりだよね。つまり「見下すことで安定を図る」のが人の通弊だとすると、彼らは見下す対象として同じクラスの人間(か、教師)を選ぶしかない。
いや何が言いたいかっつーと。小中学生が2ch経由なりなんなりでもネット上で言論(小中学生同士のブログコミュニケーションとか)を形成して、自分とは距離のある奴を見下す術を獲得するようになったら、存外いじめとか減るんでないの、ということ。奴らが「自己の有能感を回復する匿名空間」を手に入れられたら、と言ってもいい。今もう既にそういう傾向はあるんだろうし。逆に言えば見下す対象なしで人が生きていけないとするなら、いじめ対策って所詮「リアル同級生以外で見下してもいい奴」を提供する以外にはねえんだろうな、とも。この辺は妄想だけどね。
言ってみれば普遍的で陳腐な人間の営為。美しいとか醜いとか退屈とか。
そんな事言えるわけもない。
【アタマの良し悪し】
最近、暇つぶしに携帯でチェスをやってる。今までやったこと無かったから新鮮で面白い。
チェスってーのはなんだろうね、すごく偏見じみてはいるけど、理系の人に馴染みそうなゲームだ。
実際、うぃきぺでぃあによると、人間のプロをコンピューターが負かすようなゲームなんだそうだ。
こう、順列組み合わせの思考というか。私はそう言うの凄く苦手で、2手3手先なんてまるで考えていない。考えられない、と言った方が正しいか。
フィーリングで気の向くままにコマを進める。ファジーな典型的文系脳なのだ。
結構愕然としたのが、クィーン×2とキングで、相手キングだけでチェックメイトできない。
「こーなったらあーで、そしたらこーでしょ」みたいな思考がまるでできない。これなんなんだろう。
場合分けってのがまるでダメ。っていうかそれ以前の低脳ぶり。
それでも社会生活は送れるんだなぁー、とか思う。
結局、私は私自身の定義によるワタシ自身のアタマの良さ、なんてモノにそれほど興味を抱けなくなってしまったのかもしれない。
何か落っことしてきてる。誰もそれを拾わない。ワタシ自身ですら拾わなかった。
【恋愛】
それで、今日好きな人に「好きだ」って言ってみた。
「好きだ」って言ったら、なんかホッとして、頭の中に風穴が空いたような気分。
相手は「うふふ」と笑っていた。
そっから、現実とは言わないが、なんやらどっか別の所に続いている記憶がある。うまれる。
それだけで随分救われた気分だ。
「頭がいい」か・・・。確かに子どもと大人とでは指針が違ってくる。
大人の場合、「豊かな社会生活を送っている」ってことになるんかな?貧しかろうが、忙しかろうが、「豊かさ」を持つ人こそ、本当に能力の高い人間のような気がする。
計算が速い、何か国語も操る、というようなステイタスは外面的なものであって、別に結果論主義じゃないけれど、その人がいかに「豊か」であるか、ということを考えないでは意味がないような気もする。
東大生は頭がいい、というのは最早「子ども」時代の、ヌクヌクと温室栽培されていたときの指針なんじゃないの。綺麗な緑の葉をつけて、虫に食われぬ運や他の芽に負けぬ競争力を持ち合わせていく彼らは、もちろん特Aのシールを貼られて出荷されるべき存在なんだと思う。
だけど、そこに数多の他者が関わっていく「大人」時代において、単体としての出来の良さを全ての価値とするモノサシはありえない。社会の輪に取り込まれた以上、他者との関わりの中でしか人は価値を見出せない。「頭がいい」というのは所詮、出荷時の特Aシールに過ぎず、よりよい環境におかれる頻度の高さでしかない。家畜のエサになる可能性が比較的低いというだけの話だ。だから「頭がいい」というのが、彼の生きるコミュニティ内での市場価値にはなりえないということをはっきりさせないと、「頭がいい」シールを貼られた彼は孤独さの中でしか自己認識することができない。それは偽りの自己認識であって、社会の中では何の価値もない。「大人」の世界で「頭がいい」というのは、それほど価値がないということだ。むしろ、「頭がいい」というのは時に彼の意欲を高め、時にプレッシャーを与えるといった言霊でしかない。「彼は頭がいい」という人ほど、その言葉にどれほどの価値があるのかを知っている場合が多い。逆に、「俺は頭がいい方だ」という人ほど、その言葉の価値のなさに無頓着だ。
この記事を書いたものです。怖れていた事態になってしまいました。こういう風に話が流れて議論にならない事態が一番嫌だったのですが。だからネタということにしておけば、誰も見下された気になどならずに済んだのに。
だいたいね、わかってるんですよ。高学歴だとか、あるいは話のテンポとか、そういうことで事実を挙げただけでも血圧を上げる人がいるのが。東大生は「大学どこ?」って聞かれると「東京です」と曖昧な答え方したり、「一応、東大です」と言ったりするんですが、そういう風に答えないと「お前ら俺たちのこと馬鹿にしてんだろ」といきなり言いがかりをつけられたりするんですよ。
そもそもね、プロ野球選手が「素人の野球の指導をするのは難しい」「我々から見れば普通の学校の野球部員も運動音痴君も五十歩百歩」とか、将棋や囲碁のプロから「アマチュアは自然な手が見えていないことが多いから、指導対局では手加減が難しい」「アマ有段者でもプロにはハンディ抜きでは勝てない」とかそういうことを言っても誰も怒らないでしょう。それと同じように受け止めてもらえればいいのに、絶対そうはならない。IQだとか学歴だとかが、人間性の僅かな一面だけを切り取ったものでしかないことは明らかなのに、どうしてそんな感情的に反応するんです?
こちらの方も見事に誤解しておられて、
そもそも何を告発したんだ。「頭のいい人から見ればお前らも話にならんほど知能が低いんだよ」という事実を認識させることが差別的な人間を批判することになるだなんて本気で思っているのか。
と言ってらっしゃる。違います。「自分がやられて嫌なことは人にもするな」と、それだけの話です。たとえば、「運動神経が鈍い奴は草野球や草サッカーを楽しむ資格はない」とか「音痴はアマチュア合唱団やアマチュアオーケストラに入るな」ということを公然という人がいれば、プロが出てきて「我々から見ればお前らも五十歩百歩のヘタクソだ」と一喝することも必要ではないでしょうか?それを屈辱と感じれば、同じアマチュアを「ヘタクソ」と侮辱したことを反省もするでしょう。それだけの話なのに、どうしてわかってもらえないんだか。
正論を正論で語れない、いちいちネタ化しなければ何も言えない風潮と、ネタと言えば何でも許されると思っている風潮が。それがヒトをどれだけ傷つけるとも知らずに。
と言います。その指摘は正しいです。だからこそ「ネタ化」してものを言ったし、しかし意図は真面目だから「ネタ逃げ」せず、批判には面倒でも何度もこうやって答えている。ところがあなたは
見当違いな非難? どう見ても傲慢そのものです。本当にありがとうございました。
さーすが高学歴様、俺たちにできない事を簡単にやってのける。そこにしびれるあこがれるぅ。
なのに何故執拗に食いついてきたか? 結局、自分は賢いと言いたいだけなんじゃないの。
だの、邪推に基づいて「煽り」を繰り返すばかりです。不誠実なのは一体どちらですか。
あなたみたいな確信的な揚げ足取りがいるから、
あんだけ堂々と自説の正しさを主張できるなら、最初から理屈捏ねくり回さずにど真ん中直球ストレートで正論ぶちかませばいいのではないでしょうか?
ということができないんですよ。あなたが血圧をあげていらっしゃる
そういったことを直接的に書けば「煽り乙ww」、前もって断り書きをした上で丁寧に書けば「どこを縦に(ry」と言われるだけだ。所詮、「平均的な人」は「わかりやすい話」でなければ理解できないのだ。そこで苦肉の策として、わざと人目を引くような形で、一人称体の風刺小話を書いてみただけのことだ。要するに形式はネタでも意図は真面目だったわけだ。
という箇所が、あなたみたいな方への皮肉だということがおわかりにならないですかね?だいたい、
「煽り乙ww」、「どこを縦に(ry」とか言われるのが嫌だから暴論と承知で暴論を使ったのか? それも匿名で、そんなにチキンなのか?
って、ああいうことを増田以外で書けば、たとえば
ってことになるからですよ。
蛇足
こちらの人いわく、
[トンデモ]「軽度の知的障害者と『健常者』の違いはほとんど認識できなかった」「十分賢い人を連れてこれば『健常者』も障害者同然」。自分が「十分賢い人」だと思っているんだね。これはすごい。
こんな書き方をした以上、そういう風に誤解されることは覚悟していたが、それのどこが「トンデモ」なのか理解不能。
蛇足2
それからもう一つ補足しておくと、「健常者」と「障害者」の境界は必ずしも明確ではない。例えば強度近視の私は、メガネの発明以前なら「視覚障害者」でしかなかったはずだ。「健常者」といえども「障害者」以上に社会生活に支障をきたす側面があるのは決して稀ではない。自虐的に言えば、誤解を生まずに無難に世渡りをするという面では私は大抵の「障害者」以上だろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070219010722
例えばデザインドベイビーとかでIQの平均が今の115ぐらいに上がったときに、知的障害の境界線をその平均の三割引のIQ80ぐらいにするかね? まずしないだろう。現在普通に暮らせてるなら、世間の平均が上がったって同じように暮らせるんだから。
3割に意味があるんじゃなくて、意味があるところ(社会生活に問題がでるような知能の低さ)がたまたま平均の3割低いあたりからだったってだけ。だからIQ150の人にとってIQ150の3割引のとこに意味があるってわけじゃない。IQが比例尺度になってるから、なんて全然論理がつながってないよ。
旧タイトル 「http://anond.hatelabo.jp/20070218013048 に」
(追記 MellowMoon 「"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか?」は良エントリと思いました。
動画に入っている「服役囚の4分の1が知的障害者」が意味するもの - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局と、そこで話している山本譲司さんのAmazon.co.jp: 累犯障害者: 本: 山本 譲司もご参照を。MellowMoonさんありがとうございました。)
これはほんとにいろんな問題が絡んでいる。
知的障害者が犯罪を犯してもよい、とは私も思わない。良いわけがない。
彼らが犯罪の意味を知的障害がない人と同じスピードと深さで理解できない、という事実。
さらにそれでも自分の行動に対する責任を自分で取る「権利」を有する、ということ。
これらから逃げていては、解決はありえない。
彼は触ってはいけなかった。なぜなら、触られた人がそれを嫌がっていたから。
(この「なぜなら…」は大いに議論の余地があるけれども、ごく基本的なとこだけ残します)
でも、彼はさわり続けた。
触られた人が嫌がっている、というのを感じることが出来なかったのかもしれない。
触られた人が嫌がることが、彼の中で楽しかったのかも知れない。
問題は、「それはいけないことだ」ということが、彼に継続的に教育されなかったこと、
「言って聞かせたけれど」と先生は言ったというが、
知的障害がある子供は(障害の程度によるが)一回言って聞かせたくらいではわからない。
(この「障害の程度を正確に把握する」という過程も、専門知識の乏しい現場ではごっそり抜け落ちやすい)
ましてや若干の性的興味と衝動を伴う問題行動であれば、わかっていても抑制がきかないことだってある。
彼も女の子達も、両方を守るつもりならば、とにかく彼の行動を修正するしかないのだ。
たとえば。
問題が表面化したら即座に、スタッフを一人増やしてでも、彼の行動をきちんとフォローする。
女の子達にも、触られたらスタッフに訴えるように話しておく(いいにくい子もいるからサインを決めておいてもいい)。
彼が女の子を触る度に、その場で「相手が嫌がっている」事を彼に明確に伝えて、
それはしてはいけない事だ、と同じやり方で伝え(両手を組ませるなど、わかりやすい「怒られてるんだよサイン」を作るなど)、
その場で触った子に「ごめんなさい」をさせる。
一回も余すことなく、やるたびに根気よく、1日に何回でも。
2週間??一ヶ月以内ぐらいの短いスパンでこのアプローチをトライして、効果を判定をする。
ダメなら「物理的対策」として、刺激から遠ざけるという選択も必要になるだろう(クラスを移したり、辞めさせたり)。
こういう大人のサポートがあって初めて、触られた女の子はその場で「触らないで」と明確に伝えることが出来るようになる。
むしろそうしなければ、触られた女の子達には
「理由があれば、触られても我慢しなくてはならないんだ。こんなことは些細なことで、いちいち大きな声で言ってはいけないんだ」
という自己否定観が残ってしまう。
(これが歪めば、DVや痴漢冤罪に……なんていう風に広げることも可能だが、ここでは触れません)
知的障害の人が社会に出ることはいいことだ。
しかし、現状は、これまでのように障害者を囲い込んでおける財源がなくなってきたので、
「障害者を受け入れる良い社会にしよう」という正論の尻馬に乗って
結局問題は、全部現場任せ。
降って沸いた問題に、専門的知識もお金も人手もなく、もちろん世間の後押しもなく、
右往左往した挙句に弱い人にしわ寄せてしまう。
そして、しわ寄せを受けて傷ついた人の心から、小さな花がひとつ消える。
はっきり言おう。
知的障害者は普通の人より社会生活能力に劣ることが多いのだから、
社会生活に適応するには、だれかからのサポートなしにはありえないのだ。
(この「劣る」に向き合わないことが、心神耗弱関連の裁判の問題にも絡んでいると思う)
私には、そういう問題に思えてならないのだ。
で、そういう「弱者救済コスト」をみんなで負担しよう、という空気は、今の日本にはとても乏しいと強く感じる。
(そして今のところ政府はそのコストを取ることから離れる方針)
結果。問題は現場に残され、弱い人、優しい人にコストは押し付けられ、社会から「寛容」が消えていく。
知的障害者をサポートするには、専門的知識と人材という「金」がかかる。
世の中には社会福祉や障害者教育を研究してる人がいっぱいいる。
でもそれらを現場に生かす仕組みは乏しいし、現場には人を増やす余裕なんてない。
専門的知識と人材なしに社会に新しい価値観を生み出すことなんて、絶対にできないだろうと私は思うのだ。
優しさと思いやりだけではどうにもならん。愛だけでは地球は救えないのだ。
(まあ、そういうのを政府に頼らずNPOで、っていう「小さい政府維持」のやり口もあるだろうけど、noblesse oblige精神があんまりなくて(違法とかいう意見もあるし)「ボランティアに金を渡す=それはボランティアではない」ってな風潮では、ちょっとむずかしいだろうね??)
それからもうひとつ。
もし、知的障害の子が女の子で、触られるのが男の子だったらどうだっただろう、という仮定を投げかけてみる。
(この話は、病院で看護師・ヘルパーが患者から受けている継続的暴力の問題と似たような構造を持っていると感じたです)
最後に。
17歳の彼女。しんどかったね。触られたこともそうだけど、ずっと我慢させられたことが、しんどかった。我慢しなくちゃいけない理由なんてなかったんだ。あなたは悪くない。きっとこの本音は、周りの人には言ってないんだろう。増田だから言った。あなたは優しくて、正直な人だ。自分にウソをつく人が多い今の世の中で、あなたはとても正直な人だ。これからも自分にウソはつかなくていい。嫌なことがあったら嫌だって思っていいし、言っていい。
で、もしよかったら、たくさん勉強して、世の中にあふれる難しい問題を、自分の気持ち・直感を大事にしながら、自分の頭で考えて、自分の言葉にできるように、なってください。それが大人になるということの一側面だと、私は思います。
間違いないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20070121222356
「女にはそういうときがあるけど、そこで男にしなだれると何かと間違いの元だから、そういうときは女同士でぎゅっとしてもらいなさい」みたいなシーンがあったような。大体そういうことだと思う。
男に対してもちゃんと説明すればいいのだろうけど、ぎゅってしてほしい時ってば、そんなのいちいち説明なんてしたくないような心理状態だろうからそれは無理っちゃあ無理なわけ。
理解のある男になら、そういう日もあるとあらかじめ説明して承諾を取り付けておくことはわりあい可能だと思うけどね。
下世話な話になるけど、男の場合タイミングを15分ずらされるだけで盛り上がった気持ちが萎えちゃうことなんかもあって、女子からすれば、それはそれで全然構わないじゃない、と思うのだろうけど、男はそういうことがあると手前勝手にものすごい自尊心を傷つけられちゃって凹んだり切れたりすることもあるんだわ。(このへんは個人差の幅が大きいだろうけど。)
難しいよね。
彼女でもなんでもない女の子について「いまぎゅってしてあげたらこの子は救われるんだろうなぁ」と思うことはままあって、それ以上を望んでるわけでもないのだけど、普通に社会生活を営んでいる男として、とてもじゃないがそんなことを実行には移せない。
今と同じように誹謗中傷が溢れてたわけだけど、世間様から見放されたがゆえに、自分も世間様に相手にされないと思っている被差別者(もしくは表面上は社会生活に適応している偽装被差別者)の巣窟だったから、どんなに書き込みをしようが私もあんたも鬱憤晴らしにたわごと書いてるんでしょというコンセンサスの上に書き込まれてた。PCスキルを修行してレベルアップしていることが尊敬対象だったから、PCスキルの無い初心者が馬鹿にされるのは当然という風潮だった。だから掲示板に漂うそんな雰囲気に馴染めない非被差別者はドン引きして二度と寄り付かない。住み分けができてたんだよね。そして2chでどんなことが書かれようと、世間様の商品の購買層は2chと無関係に動いてたから、被差別者どうしがスレの中で殺伐と馴れ合ってというのがある程度許容されてきた思う。
アナログモデム時代が終わり禿!BBの無駄な販促活動のお陰で常時接続回線が普及しはじめ、面白Flashとか電車男とかで2chの存在を知り物見遊山気分で始めた一般人やら学校でネットをはじめた低年齢層やらが、2chに流入してきてカジュアル化(オシャレ化といってもいいかもしれない)が始まった。昔のような被差別くねくねコンセンサスが、圧倒的な数のカジュアルユーザ(=世間様の商品の購買層)の流入によって失われてしまった。それにもかかわらず、昔のように叩いて叩かれてっていう誹謗中傷文化だけはカジュアルユーザにも引き継がれた。だから元旦の全国紙の1面に2chの名前が出るくらいに世間様が黙っていられなくなったんだろうなと。