はてなキーワード: 大家族とは
裏付けも何もないというか調べてないのだけれど、お金の流れと思想を考えるとやはり腑に落ちないなにかがある。思いついたままに箇条書きにしてみた。
・核家族…拡大家族の方が分担などいろんな作業効率はいいのだけれど、核家族化して世帯数を増やした方が家や家具が売れる。
・保険…災害が起きたら怖いと煽ると保険が売れる。でも保険屋がもうけてるってことは保険をかける側が損してるってことじゃないだろうか。
・携帯…電話は家に一台でも事足りるけど一人一台持つスタイルを流行らせた方が売れる。
・メタボ…メタボリックとか肥満の危険性を宣伝した方がスポーツグッズやジム関係の需要が高まり健康グッズが売れる。
・癒し…疲れてないのに「疲れた現代社会」って言うと癒しグッズが売れる。
・髪の毛…はげるのが普通だけど薄いとかっこわるいって価値観を創ればカツラや育毛グッズが売れる。巨乳も同様のことが言える?
・化粧…しなくてもいいけどした方がキレイになれるし周りも反応はいいというのは否定しない。しかし、現在は小学生向けの化粧品もでてる。こういう市場の拡大とか、原材料費や人件費より宣伝費の方が大きいのを見ればなんかだまされてる気になる。
・医薬部外品…医薬品じゃないので確かな効果があるかはわからないけど、効果がある気がする。効果がある気がするとプラシーボ効果で効果が出てくることがある。だいたい売れてる医薬部外品の値段の大半は広告費と考えた方がいい。その額数百億。
・ペット・・・かわなくてもいいけど飼った方がペット関連商品が売れる。癒しとか言うけど生き物一匹飼う労力の方がよっぽど疲れる。
・自分らしさ…「オリジナリティ」「自分だけの」「自分らしく」をよしとすると、たとえば量産されたもの以外を求めることになる。するとオーダーメイドは基本量産より高い値段になる。オリジナリティなんて、人まねからしか生まれないし、創り出す力のある一部の人しか持つことはできない。二番煎じを受け入れた方が争いも少なくてすむ。
・コンピュータ…昔は大学に一台あればよかったのに、今はパーソナルでポータブルな時代。その方が出荷台数が増える。正直大半の人は使いこなせてない。
・教育…学歴社会とか学力偏重社会を煽ると塾や家庭教師の需要が増える。学校がたたかれるのは布石だと思ってる。
・食糧危機…これは微妙だけど、食料の値段の9割は輸送費。だからこんなに顕著に値上がりするわけがない気がする。
・石油…アラブ輸出国機構があと50年で石油が枯渇するって発表したけど、これ嘘やと思う。だってそういっておけば石油が高値で売れるんだもの。
・マイナスイオン…科学的に言えばマイナスイオンなんて存在しないか存在しても人体に影響があるなんて発表はまだされていないらしい。こんな話があって、ある国の歴史ある聖堂の泉の水を汲んでお金持ちに売りに行ったら「これは御利益がありそうだ」と言って高値で買ったという。聖堂に「この水は特別な水ですか?」ときくと「タダの水道水ですよ。飲んでも心配はないと思います。」って。いわゆる水商売ってやつで、タダの水なのに場所とかによってよくわからん価値が付く。
・スピリチュアル…占いもそうだけど、裏付けはないけど当たる気がするから、ってりゆうで本とか売れるし占い師に高いお金を払う。ちなみにアメリカでは占いはカウンセリングの手法の一種。水商売と似てる。
・環境…環境にいいって言っておけば環境にいいかどうか本当はわからなくても少し高いお金を払って環境にいいことした気になる。たとえば不買運動を起こしたとする。だいたい企業は慈善事業とか環境事業にもお金をかけてる者なんだけれど、不買運動によって企業は儲からなくなって、結果環境とか慈善事業にかけるお金から減らしていくことになる。環境技術開発にかけるお金なんかにも同じことが言える。酸性雨もフロンガスも最近は叫ばれない。温暖化は嘘じゃないかと思う。
原作のシナリオから自分が気になった所だけを抜粋したので、他の人が作ればまた別の物になると思います。2話以降で後付けで説明されたり、回想の形で挿入されたり、時間軸をずらして取り入れたり、というのも当然あると思います。京アニが、この長大な作品の、何を描いて何を描かないのかという取捨選択の趣向を見守っていきたいと思います。
また、あとから追記するかもしれません。→少し追記しました。
やたらと自然が多い町。
山を迂回しての登校。
すべての山を切り開けば、どれだけ楽に登校できるだろうか。
直線距離を取れば、20分ぐらいは短縮できそうだった。
代わりに「売地」が写される。
【女の子】「それでも、この場所が好きでいられますか」
………。
【女の子】「わたしは…」
【朋也】「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」
【朋也】「あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」
【女の子】「………」
そう。
何も知らなかった無垢な頃。
誰にでもある。
【朋也】「ほら、いこうぜ」
最後の地の文が抜けている。
何も知らなかったから言えた台詞、無垢だったから言えた台詞。
自分はこの町が嫌いだというのに、この場所を好きでいたいと考える女の子。
自分は変化を求めているというのに、変化を恐れている女の子。
ちょっとした反感から口を滑らせた、聞き覚えのいい正論。
ネタバレ(文字白色):いずれ「変わって欲しくないもの」を手に入れて、そして失ってしまったときに、この言葉は自分自身に跳ね返ってくることになる。
ちなみに、アニメでは地の文の「………。」の箇所で、朋也が視線を落とし、次のシーンで朋也の顔が隠れることで反発を表現している。
母を亡くしたショックでだろうか…残された父は堕落していった。
アルコールを絶やすことなく飲み続け、賭け事で暇を潰す生活。
少年時代の俺の暮らしは、そんな父との言い争いにより埋め尽くされた。
けど、ある事件をきっかけにその関係も変わってしまった。
俺に暴力を振るい、怪我を負わせたのだ。
その日以来、父親は感情を表に出さないようになった。
そして、俺の名を昔のように呼び捨てではなく、『朋也くん』とくん付けで呼び、言動に他人行儀を感じさせるようになった。
それはまさしく、他人同士になっていく過程だった。
まるで殻に閉じこもっていくように。
今と過去との接点を断ち切るように。
突き放すならまだ、よかったのに。
傷つけてくれるなら、まだ救われたのに。
怪我についての描写はアニメではまだ無かった。
うちの学校は特に部活動に力を入れているため、地方から入学してくる生徒も多い。
そんな生徒たちは親元を離れて、ここで三年間を過ごすことになるのだ。
関わり合いになることもなかったが、こんな場所にあいつ…春原は住んでいるのだ。
春原は元サッカー部で、この学校にも、スポーツ推薦で入学してきた人間だ。
しかし一年生の時に他校の生徒と大喧嘩をやらかし停学処分を受け、レギュラーから外された。
そして新人戦が終わる頃には、あいつの居場所は部にはなかった。
退部するしかなかったのだ。
【春原】「はい、ここ、僕たちの席ねーっ」
【春原】「とりあえず学食いったら、誰かいるだろうからさ、ジュースでもおごらせようぜ」
【朋也】「そんなのばっかだな、おまえは…」
【春原】「よし、じゃ、いこう」
やることもなかったから、ついていくことにする。
【春原】「ねぇねぇ、ジュースおごってよ」
春原が後輩を捕まえて、そうせびっていた。
【春原】「百円じゃなくて、二百円」
【春原】「ふたりぶんだから。あっちの人も」
【春原】「うん、君、いい奴だねぇ。なんかあったら、僕たちに言っておいでよね」
【春原】「僕たち、学校の外ではぶいぶい言わせてるからさっ」
他の男子も、何事かと窓際に集まり始めていた。
…鬱陶しいこと、この上ない。
あの中にいたら、むかついて誰か(主に春原)を殴っていただろう…。
暇つぶしには最適。
一日の授業を終え、放課後に。
春原の奴は最後までこなかった。
結局、今日俺が話をしたのは、朝に出会った女生徒だけだった。
【朋也】「好きにしてくれ」
見捨てて、ひとり坂を登り始める。
ただ…
そんな不良に見えなかったから、話しかけてしまっただけだ。
それだけだ。
【女の子】「あっ、待ってください」
どうしたものだろうか…。
遠慮なく、話を聞きすぎたような気がする。
気にならないといったら、嘘になるが…
気にしないよう、務めよう。
これからは、あいつ一人で頑張るしかないことだった。
三年で、ここに来ているのは俺たちふたりだけだった。(智代登場のシーンふたりは春原・朋也)
【朋也】「友達、作ればいいじゃないか、また新しく」
【女の子】「時期が時期ですから、みんなそういう雰囲気じゃないです」
【朋也】「三年生だったか…」
三年といったら、もうクラブも引退寸前なのに…
それをこれから頑張ろうなんて…他人の目にはどう映ってしまうんだろうか…。
新入部員だと言っても、三年生だと知れば、部員たちの反応は当惑に変わるだろう。
ひとりでも知り合いがいれば良かったのだろうけど…。
アニメでは代わりに、同級生が朋也と春原の事を噂している描写と、委員長が不良生徒に話しかける珍しい事態に周りの生徒が注目している描写が入る。
【女生徒】「見て、あの子」
【女生徒】「ほら、あそこ」
窓際にいた女生徒が窓の外を指さして、隣の連れに話しかけていた。
【女生徒】「ひとりで、パン食べてる。なんか、一生懸命で可愛い」
【女生徒】「どこのクラスの子だろ。あんまり見ない子だね」
【女の子】「頭の手は…なんですか?」
【朋也】「いや、別に」
【女の子】「そうですか…」
【朋也】「ああ」
しばらく彼女は呆然と、俺はその後ろで彼女の頭に手を置いて、ふたり立ち尽くしていた。
端から見れば、おかしなふたりだっただろう。
【朋也】「俺はD組の岡崎朋也」
【朋也】「あんたは?」
【朋也】「よろしく」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
遅すぎる自己紹介。
ふたりだけは、出会いの日の中にあった。
【古河】「………」
【古河】「それで…」
【朋也】「よろしく」
【古河】「………」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
【古河】「………」
【朋也】「よろしく」
【古河】「はい、よろしくお願いします」
【朋也】「よろしく」
【朋也】「ひとりで帰れるか?」
【古河】「はい、もちろんです」
【朋也】「ハンバーグでも食って、元気つけろよ」
【古河】「え?」
この箇所は原作でも印象的なシーンであり、電撃G'sマガジンで連載中のCLANNADの第一話も、ここをクライマックスにしていたため、この描写が抜かれたことに違和感を感じる人は多いようだ。
ただ尺の問題上「お連れしましょうか」のシーンを第一話のクライマックスにする事に決めたとしたら、
といった理由で、かなり難しいのではないか、と思う。
こんなところに来て、俺はどうしようというのだろう…
どうしたくて、ここまで歩いてきたのだろう…
懐かしい感じがした。
ずっと昔、知った優しさ。
そんなもの…俺は知らないはずなのに。
それでも、懐かしいと感じていた。
今さっきまで、すぐそばでそれを見ていた。
それをもどかしいばかりに、感じていたんだ。
………。
「もし、よろしければ…」
代わりに、電灯のついた部屋を見上げる。
一面、白い世界…
………
雪…
そう、雪だ。
今なお、それは降り続け、僕の体を白く覆っていく。
ああ…
僕はこんなところで何をしているのだろう…。
いつからこんなところに、ひとりぼっちで居るのだろう…。
………。
雪に埋もれた…僕の手。
それが、何かを掴んでいた。
引き上げる。
真っ白な手。
女の子の手だった。
ああ、そうだった…。
僕はひとりきりじゃなかった。
彼女の顔を覆う雪を払う。
穏やかに眠る横顔が、現れた。
そう…
この子とふたりで…ずっと居たのだ。
この世界で。
この、誰もいない、もの悲しい世界で。
完全なネタバレ(麻枝准の他作品のネタバレも含む)なのでここから文字を白色に(匿名ダイアリーは続きを読む記法が使えないようだ。キーワードリンクも消せない。)
ゲームでは、開始時点は幻 想 世 界編であり、そこから始まる本編は長い回想のようなものだと解釈できる。
(もっとも幻 想 世 界では時間が意 味がなさないので『回想』という表現は相応しくないかもしれない。)
麻枝准が自ら企画した作品は最初のシーンに後から繋がる、戻ってくる、という話が多い。
- ONEという物 語の構 造は主人 公が、幼い頃の悲しい出来 事が原 因で思い描いた「えいえんのせかい」から始まり、そこで各ヒ ロ インとの学園でのエピソードを回想することによって、元の世 界に戻る動機 付けを見い出して回 帰する話である。学園エピソードの前半ではそれが回想だと気付かない作りになっている。(より正確に書くと,メ タな位置にいるはずのプレイ ヤにとってはリアルタイムの出来事が、作品中の主人 公にとっては回想になっている、という捻れた構造になっている。)
- AIRのゲーム版では、OPムー ビーの最後から繋がるシーンで、ラス トシーンの少 年が呟く「さようなら」という言 葉を国崎行人が夢うつ つに聴いている。(この時点では何のことが分からない。)これはアニメ版では抜け落ちてしまったが、代わりにアニ メではEDの少 年に「昔の事を思い出していた」という台詞を言わせている。A I Rのプロローグ「我が子よ、良くお聞きなさい。これから話すことは大切な事、これから・・・」のシーンも、クライマ ックスで再び使われている(これはアニメ版でも一緒)。このシーンはプロローグで使われたときは国崎行人と,その母 親を想起させる( 注:「力」を持つ者に課せられた、はるか遠い約束,というフレー ズに基づく)が、クライマッ クスで使われたときは「最初の翼 人」が自らの子 供に語りかけた台詞になっている。
- 智代アフターが回想なのは自明なので省略。
アニメ版ではプロローグを省いているため同じような仕掛けはやらないつもりなのかもしれない。
(仮に、アニメでも本編が回想である、という前提に立てば、アバンの『二人が出会った瞬間「光が揺らめ」いて彩度の上がる演出』は
朋也の思い入れ(「今思えばあの頃から俺は・・」的な)の反映とも解釈できる。)
しかし回想は積極的に使われていて、視聴者は、作中人物である朋也の主観的な時間軸を行ったり戻ったりする。
(書きかけ)
メモ: CLANNADがMAD的である理由 静止画MADムービー(静止画とテクストの断片と、音楽のシンクロ)、葉鍵系MAD全盛期(訴訟警告前)、動ポモのMADムービーに関する記述(トレンド:パロディ→原作の感動の再現) 音楽とキャラクターが、世界の連続性を担保しているー断片の羅列が世界を表現する 麻枝准の執筆方(音楽のイメージが無いとシナリオが書けずCDを延々と探している)、「ゲームの音楽は1/3」という麻枝の発言 「キャラ」が連続性を担保している(テヅカイズデッド) ADV形式ゲームの記号性(動ポモ) CLANNADのシナリオに対する二つのアプローチ:エクセルによる時間管理(監督:石原達也) 全エピソードのカード化と、パズルのような組み合わせ(脚本家:志茂文彦) ハルヒの成功がもたらしたもの: キャラクターのメタ物語性の確認:SFもミステリーもギャグもロマンスも同じキャラクターで可能である。(昔から。フルメタだってギャグとリアルだし、FFのようなRPGだって、(何故日本の作品にはシリアスな作品にもギャグがあるのか(ask john)),麻枝准は何故シリアスエピソードで笑いを入れるのか(ONEのバニ山バニ夫、Kanon舞エピソードのウサ耳、CLANNADアフターの風子参上、リトバス最終エピソードの丁寧に伏線まではってある筋肉大増殖) 時間軸を各自の脳内で再構築できる視聴者層が、商業的に成立する規模(DVDの売り上げがトップクラスになる程度には)はいた事の発見 「仕掛け」れば見つけてくれる視聴者と、その情報が直ぐに広まるネットワーク。 キャラ紹介の波線の演出は智代アフターだよね、白地の背景で「朋也の後を渚が・・」ってとこも智代アフターのOPかも? EDのウサギはONEのバニ山バニ夫。EDのだんご大家族の映像がNHKっぽいのは、当然だんご三兄弟のパロディだから シーンのトランジションがワイプなのはゲームのADVのパロディ? 猫。幽霊。 智代登場シーン。不良サングラスにギャラリーが映り、顔から汗がたらたら流れる→闘いたいわけじゃないけど、ギャラリーがいるから後に引けなくなってるのかな。不良が持ってる武器がフライパンってことは、ゆきねえの取り巻きかな、みたいな解釈話も含めて
http://anond.hatelabo.jp/20070830162852
昔と比べて、大家族が減ったからじゃないのかな。
たとえば兄弟同士や、祖父や祖母といった「1個の擬似社会」の中で、生きる術の学習や人生の理不尽を味わう事で、実社会に出る前にある程度のトレーニングが積めてた部分はある。
今は核家族、そして子供は保育園や幼稚園・大学生は上京・高齢者は老人ホームと、みんなバラバラ。
一番大切な「家族・近隣で助け合う」って部分が、どっかに飛んでる。
だからみんなで“苦しみを分かち合う”という体験ができなくなってるし、それが『孤独死』などの発生を引き起こしてる。
ほんの少しのプライバシーの獲得と引き換えに、大きな「人と人との助け合い=互助」というシステムが壊れてしまっているのが、先進国の共通して抱えている問題。
そりゃそんな仲のいい大家族だったらいいけど、嫁とか婿とかそういう血のつながりのない人が入ってる時点でそんなにうまくいかんと思う。だからこそもめるんしょ。そんなにいいことずくめだったら皆やってるよ。
ふつうに親と同居でいいんじゃないかと思うんだけど、どうなのよ?
日本人にとって、核家族は害ばっかりで利益なんかないと思うんだけど、みんなばらばらに住みたがるんだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20070612070000
追記。
二世帯住宅立てるなら、孫やひ孫が死ぬまで住めるような堅牢な家を建てればいいのにと思うんだけどね。
ずっと住みたくなるような家。
どうもよくわからない。
さらに追記。
俺自身、世代がいろいろな10人もいる大家族で生活したことがあって、いまは孤独な生活をしているからこんな風に思うんだろうな。
10人もいれば、そのうち半分ぐらいが金を稼いでくれば、家族全員が食っていける。
日本は子育てする環境も、子育てしながら働く環境もかなり遅れてるよね。
遅れてるっていうか、家族の構成や働き方が変わってきてるのに、
ベビーシッターを雇うなんて一般家庭では考えられんし、それに対する支援もまったくない。
保育園でさえ、へたすると月に5万を越える場合だってある。
共働きして保育園に預けていると、保育園に行かせるために働いてるみたいでバカバカしいなんて話も聞く。
変な公共事業や公共施設増やすくらいなら、国や自治体でベビーシッター資格を作り、雇って、
ちゃんと支援されてるのは医療くらい。子を「育てる」ということに関してはほんとだめ。
で、人が怒りを感じるときって何が理由かっていうと、まあ『大家族!! ○○家』みたいな貧民窟レベルで育った可愛そうな子は全部『なんかムカツク』で済んでしまうのだが、そこそこまともな生き方をしてきた人は感覚的に分かる通り、そこに絶対的なルールがあるからイラつくのですね。
で、世の中には天使のような存在がいて、他人にはイライラしないけど自分には厳しいという非常にまともな人生を送っている、見てて羨ましいなあ、というようなひとは必ずあなたの身近にもいると思うんですが、そういう人の何が我々と違うかというと、自分の中に厳格なルールがいくつかあるんだけど、それを他人に強要すべきだとは露とも思ってないというのに尽きるんですね。
だからオレたちがどうすればイラつかないで幸せにすごせるかというと、『誰も彼もかくあるべし』というルールみたいなのをもたないのが一番なんじゃないかと思います。つーか、自分がそうあるべきだって思ってることを他人に強要しないようにすれば幸せに生きていけると思う。
を読んで。
結論としては「親が努力する」ということで、まあ正論ではあるんだけど、どうも実現可能性は低そうな気がする。共働きで核家族、というのが昔に比べてすごく増えたし、そうなると物理的時間という意味でも「親が子に何かを教える機会」というのは昔に比べて激減しているわけだ。そういう事情があるから親も学校に期待・依存する傾向にあるわけだし、もうちょっと「子供と真剣に向き合う」ことの具体例を出して欲しかった。
週末は家族みんなで食事、なんていっても普段接点が少ないと話すこともあまりないし、急に父親に「最近学校はどうだ?」なんて言われてももはや白々しい。子供にはゲーム機を持たせるべきなのか、携帯電話を持たせても良いのか、パソコンはどうか、などなど育児における現代的課題は従来の価値観では対応しきれなくなってきているのもありましょう。
また、大家族で祖父母が同居したとしても、それはそれでたとえばアレルギーや病気にに無知・無理解であったり、嫁姑の苦労があったりと、昔のほうが良かったとも一概には言えない。
親友の恋人の母親の身体の具合があまりよくないらしい。と親友から聞いた。
親友の恋人自身とも自分は知り合いなので、身体の調子が悪いことは簡単に説明されてたのだが、癌が身体中に転移している状態でもう何年か経つらしい。
自分の未だ元気な母親のことや、親友の恋人やその家族、親友の恋人の母親、親友の気持ちや、そういうことが一編に頭の中に流れ込んできて思わず泣いてしまった。大家族の彼らに最近あるかなきかの可愛らしい爪を持った新しい顔ぶれが加わって、幸せムードで一杯なことも私は親友づてに聞いて知っていたから。
消え行く命もあれば、新しい命もある。命は周り巡っていく。
そんなことは判っているつもりだった。だからこそ命は尊い。
ああ駄目だ、何いいたいかよく判らなくなってきた。また涙出てきちゃったよ。何でだ。
増田テーマソング(死人の箱には15人♪)
2007年春、ひとりエクスタシーサミットin増田アンコールラスト
[替え歌]HACK STAR / THE GREASE MONKEY
ニヒルなあいつにROCK’ON 〜秩序なんてぶちこわそうよ!!!〜
匿名ダイアリーは初めてなので、うまく使えているかどうかは不明なのですが。
http://anond.hatelabo.jp/20070109212547
自分は35才、専業主婦の嫁さんと子供が一人いる男性なので、かなりわかってもらいにくい立場であることは承知していますが、あえて書きます。
でも、正直自分も結婚する前特に学生時代の子供の時は、結婚そのものが自分の自由を束縛するような気がして、そのことをうまく受け入れらなかった。なので、違うかもしれないけど、女性でそれなりに能力もあって、子供を持ちたいという自然な感覚の持ち主であれば、タイトル先さんや、さらにその元ネタさんのような感覚になるのもわかる気がします。なんかこう、理念的に人権で守られているはずの、大いなる自分の可能性が損なわれる。。みたいな感じがあって。
それで、実際に損なわれています。専業主婦の嫁さんですが、私自身家事は嫌いではなくそれなりに分担するし、子供の面倒も見なければいけないし。その点で男性だから結婚してもそういう可能性が損なわれないということはありません。もちろん女性が働くことと比べると、程度はずいぶん違いますが。
それなりに年齢を重ねてきて、自分の体力や能力が若い頃ほどではなかった事を実感し出すと、少しづついろいろ考えが変わってくることに気がつきます。特に子供を持つようになると、当たり前のことですがこの世に生を受けた誰もが、二人の男女から産み落とされ、そして少なくない努力が払われていたのだなあという事実を私は強く意識するようになりました。そして、自分と同等、(あるいはもっと(一世代)若さを持ったという点で)自分以上に価値がある生命を生み育てることのすばらしさを痛感しました。
率直に言えば、同時に子供が生まれてしばらく経ち、自分自身の部分的な死を少し意識しました。それは、損なわれている自分の生活の部分が死んだなと思ったのです。もし一人だったら、いろいろやりたいことはある。けど、自分が大人になるために、両親がしてくれたことを考えると、子供にも同じ事をしてやらなければいけないなあと言う気持ちが、自分の一部分を殺すのです。そして、徐々に人間は死んでいくんだなあと思いました。でも、いずれ死にゆくわけですから、そのときに自分が親としていくつかの生命を遺していけるというのは、それなりに価値がある事だなと思います。
産業化社会が生み出した核家族というバランスの悪い制度によって、今の若い女性に掛かる負担は想像を絶する大変さがあることは間違いありません。ですが、だからといって、子供を産み、育てると言うことを簡単に放棄して欲しくないと思います。丸2年、仕事から遠ざかることは確かに仕事上は不利益になるかもしれません。でも、でもね、子供を持つと言うことは2年ぐらいのキャリアと比較にならないののが率直な感想です。少なくとも私にとっては。いろいろ方策はあると思います。両親に頼ることも、少し前々での大家族制の中では当たり前でした。今現実にそういう人が増えているというニュースを聞きました。率直に言って、私の同年代の女性で、子育ての機会から遠ざかっている人の中で、そのことを後悔している人は少なくありません。そして、客観的に見て、女性が子育てする時期、あるいはそれを円滑に仕事と両立できるような優れた配偶者を選択できるのはそれほど長い期間のことではありません。
もしリンク先の皆さんがもっと若くて体力もあり、子育てに適した年代の女性だとすれば、私の雑駁な感想が少しでも参考になれば幸いです。あるいは、とっても気遣いが必要な問題なので、気の触るような事を言ったかもしれません。その場合はごめんなさい。
#一部文意がつながらないところを修正しました。