はてなキーワード: 命題とは
偏らない見方だから、中立。先に観念を入れないから、無心。
あたりじゃないのか。
正しい、間違ってる、というのは、
ある問いを立てた時の答え、という意味しか無いんじゃないかな。
その答えを「正答」とするか「誤答」とするかは、常に系に寄るし。
そして、系はその系自身では、無矛盾性を証明できないし、証明できない命題が常に存在する。
だから、「正答」も「誤答」も、単にその系の中でのみ通用する「答え」にすぎないってことだろ。
異なる公理系に同じ問いを与えても、「正しい答え」は公理系の数だけある。
違う系の人と話してるときに、正しさについて議論しても無駄なのは、その辺に答えがあるんだと思うな。
視点が低すぎるよ、もっと抽象的に考えてみようよ。
この命題は簡単に覆せるよ。
「たとえ宇宙が滅亡しても、地球という星に生まれた人類が何処かで存続し続け、繁栄し続ける世界を創造すればいい」
だけのことじゃん。
宇宙どーのこーのに限らず、何でもそうだよ。
そういうモチベーションや目標を持った人々が人類を次の進化に導いていくよ。
一代で何かを成し遂げるわけじゃなく、その子孫やビジョンを継いだ人々がさらに進化していくはずさ。
自分が80年しか生きられなくてもいいじゃない。自分の夢を誰かに託せばいいんだよ。
人類が生きるって事はそういう事でしょ。
共産主義的な論調の事を言っている、ってのは分かるけど、実際の共産主義と、国は人の集合体であって協力しあわなくてはならいって話には大きな差がある。
実際の共産主義は、そういう協力のし合いをシステムとして組み込んで絶対にしてしまって、ある種の自由さを失う代わりに、個人の負担を出来るだけ適切なものにしましょう、という事だ。これには自由競争ができない等の様々な弊害があって、個人的な価値観を重視し、自己責任で自分の行動を選ぶ事が一般的となってる日本じゃ、馴染まないだろう。
「国は人の集合体として協力し合わなければならない」って命題は、全ての集合体に関して言える。そういった考えが極端に共産主義的な考えなんじゃなく、民主主義でも「協力しあわなきゃやっていけない」って前提は同じなんだ。
そして今現在の日本の現実を見直してみれば分かるけど、実際に今の日本は現に「劣っているほうに足並みをそろえる」社会になっている。しかもそれだけじゃない、社会の随所に労働に見合わない賃金を得ている人たちが山ほどいる。
何故日本にホームレスがいるのか?ホームレスなんて本当は野垂れ死にしててもおかしくないのに。
何故生活保護があるのか?まったく働かないで生活できるなんておかしいはずなのに。
両方が「誰かに支えられる」事で成り立ってる。
今の日本が飢餓に苦しんで死ぬような事がない国なのは、そういう負担がどこか特定の人にのしかかって、支えられてきたからであって、そういった適当なシステムが最近になっていよいよ本格的に崩れてきた。
「努力すべきだ」って言い分はわかるし、正しい、道徳的な考え方だと思うよ。だけど、それに見合わない現実が、今の日本には多すぎる。国の経済を動かすのは、働かず金を作れる大金持ちの権力者と徒党を組んでる小金持ちとか、そういう人たち。
本来は労働のための賃金であって、賃金のための労働ではないはず。ここを履き違えて後者の理屈を選んでしまったから、労働の価値がどんどん安くなって、働いても働いても苦労する社会になってしまった。
人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。
http://anond.hatelabo.jp/20090116090907
100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。
何をしたところで、100億年してしまえば、宇宙自体が消滅してしまう。
その時には、自分がいたことを、覚えている人もいない(いなくなってしまう)し、自分が残したすべての足跡は、すべて、跡形もなく消えてしまう。
なのに、勉強するだとか、人を助けるとか、必死に生きるとか、そういう、世の中で「意味がある」とみなされていることに、何の意味があるのだろうか?
「100億年すれば、宇宙は消滅してしまう」
これから出兵wする若者達の胸に釘を打ち付けるようなことを言うんじゃないよ。 応援には聞こえないぞ?
試験の結果がだめだからといって、そこまでの過程を大学側が無価値とみなすわけないじゃないか。
努力が無価値であるかどうかは、自分で決めること、大学というのは、まだまだ社会に出て行く過程なわけで、そんなまだ下っ端の段階の努力が無価値だなんて言われたら立つ瀬もないよなぁ。
じゃぁ元増田の「無価値な努力は存在するか?」という命題にこたえると、無価値とか無意味な努力ってのは存在する。
それは目的に対して方法を誤っていて、それに気づかないときだね。
受験勉強や大学に行くことじたいは、これから何か目的ができたとして、そのための方法をいろいろ習う過程なので、そこは無価値でも無意味でもないと思うな。 どうかな?
>「100億年すれば、宇宙は消滅してしまう」
で、これを主張するメンタリティはなに?
優越感や気取りが臭いすぎてクサイ。
ニヒリストなんてものは、いかにも人間らしい(現代人らしい)スタンスの一つにしか過ぎない。すなわち、ニヒリストのスタンスは無意味どころかあまりに人間的で有意味。
また、本当に「宇宙消滅するからすべては無意味」という虚無感に陥っているなら、もっと鬱っぽいスタンスになる。
「哲学」とかいう格好いい言葉を持ち出したいのなら、色即是空とか唱えている仏教的スタンスでものをいうとか、いろいろあるだろうに。
幼すぎるメンタリティにギップリャ!!!
さっき、家から帰ってみたら、俺の日記に100件以上、ブクマが付いて、吹いてしまった。
http://anond.hatelabo.jp/20090116090907
この日記って、今朝、どれだけの人間が反応するかと思って、ネタで書いたもの。
構想から、執筆までわずか、5分。
しかも、初増田。
それが、100ブクマを達成してしまうとは……
俺が、自分自身のブログサイトに、どれだけ、熱心に論考を書いても、ブクマは、数件しかついたことがない。
それが、5分即席文章に100件だと!
それはさておき、話題になっている、自分の日記について、詳しく書いてみる。
まず、「人生に意味がない」というこの文章は、仏教の空観を根底に置いて書いたものだ。以後、仏教思想と絡ませて、話を進めていくことになる。
次に、ここで使われている「意味」という言葉の用法が、あいまいだと書かれているようなので、補足しておく。自分が「意味がない」といったのは、「(人生において、不変で、確実な価値を追い求めても、人間は、少なくとも100億年で消滅してしまうのだから)まったく意味はない。」というつもりで書いたのだ。要するに、ここでは、仏教の空観を述べている。
また、俺はさっき、この日記を「ネタ」で書いたと述べた。しかし、「生きていることに意味がない」という命題を、俺は、正しいと確信している。
俺のエントリーに対する、コメントとして、「こいつ厨二じゃんwww」というコメントを多く見かけた。確かに、「人生は無意味」なんて文章を本気で書いて、人生に絶望する人間は、真性の厨二だろう。だが、俺の日記を笑っている奴らは、俺の言っている、「自分の存在の痕跡は、百億年で消え、さらに、少なくとも100年以内に、自分自身の存在が消える」ということを、本当に理解しているのだろうか。そのことに対する自覚が伴っていないと、無常である金やら、物やら、女やらへの欲望に振り回されて、生涯、苦の輪廻を循環するように思えてならない。
そこで、俺が「人生に意味がない」と信じているのなら、「増田は、人生に絶望を抱いているのか」という、当然の疑問が起こるだろう。答えはNoである。
確かに人生に意味はない。しかし、その命題が、生きている時に味わう、この感動、この感覚、この心の震え、この悲しみ、そういった物の存在を否定することはできない。人生に意味がなくても、生きている「この」存在そのものを打ち消すことはできないのだ。(このことは仏教で仮観と呼ばれている)
俺が言いたいのは、「人生に意味はない」という空観と、「人生の喜怒哀楽それ自体の存在は否定できない」という仮観、これらを両立させ、その両方のバランスを取る必要があるということだ。(ちなみに、このことを仏教では「中観」と呼ぶ。)
俺は、中観の境地を目指そうとしているが、なかなか、できそうにない。仮観に偏って、ネトゲー三昧の毎日を送ったかと思うと、空観に偏って、人生を悲観視することの繰り返しだ。もしかしたら、中観へ至ることが、俺の人生の意味といっていいかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20090116090907
何をしたところで、100億年してしまえば、宇宙自体が消滅してしまう。
その時には、自分がいたことを、覚えている人もいない(いなくなってしまう)し、自分が残したすべての足跡は、すべて、跡形もなく消えてしまう。
なのに、勉強するだとか、人を助けるとか、必死に生きるとか、そういう、世の中で「意味がある」とみなされていることに、何の意味があるのだろうか?
「100億年すれば、宇宙は消滅してしまう」
人生に、目的だとか、意味だとか、そんなものはないと思うかもしれない。
大抵のことをしたところで、100年してしまえば、自分を知ってる人自体が消滅してしまう。
でもその時に、自分がいたことを、覚えている人がいるくらいの足跡を残せていたらどうだろう。
だからこそ、勉強するだとか、人を助けるとか、必死に生きるとか、そういう、世の中で「意味がある」とみなされていることを必死でする。
「100年すれば、自分は消滅してしまう。でも、残したものは消えない」
追記
この間、殆どかかわりの無い人に対して飲み物を持ってきてくれただけで、「いい人だ」とときめきました。
つまり、「いい人」はよっぽど例外的な事情がない限り恋愛対象にならないということだろ。
「いい人」は基本的に恋愛対象外で、恋愛対象になるのは極めて特殊な場合のみという意見は、
一見「いい人」を擁護しているようだが結果的に「いい人はモテない」という命題を補強していることになる。
この恋愛至上主義社会において、根源的に恋愛対象外とされるのは死刑宣告にも等しいが
それが現実なのだから仕方ない。
現実は受け入れるべきだ。
にもかかわらず、なぜ「いい人」を擁護するような馬鹿が絶えないのだろう。
「増田くんって頭良いよね」
「いいや、そうでもないよ」
「うーん、なんというか謙遜じゃなくて自分では本当に良いとは思っていないよ。もし頭が良いのだと仮定すれば、それは僕の中で極めて限定的なものでしかなくて、それ以外はいたって凡庸だと思っている」
「……?」
「多分ひどく退屈な話になると思うけど聞きたいかい?」
「……うん。(迷った挙句の肯定)」
「うん分かった。ではまず結論から言ってみると、僕が頭が良いと仮定するならば、それは思索の過程を細切れに細分化する能力に於いて秀でている、ということなのだと思う。これが多分僕が頭が良く見える理由で、実際に客観的に見た僕の特筆すべき点なのではないかな。そして、それ以外は僕は極めて凡庸であると認識しているよ。つまり僕は、細かく分析的に物事を捉える、という特性以外には特に何の変哲もない平凡な人間で言うならばただのはったり人間なんだ。物事に対して妙な説得力を付加することはできると思うけど、それ至る過程を除いては極めて凡庸な発想しかできない凡人でしかない。
考えることを考える、と言ったら腑に落ちるかな。だから人は僕のその過程の精密さを見て、頭が良いと勘違いをする。もしかすると、それは本当に頭が良いことなのかもしれないけど、それを自らの結論を以って自分で肯定できるほどには僕は頭が良くない。
では何故、僕は自らの結論を以って頭が良いと肯定できないのか。
それは僕が結論を前提に考えを張り巡らせるから。結論を考えるために思索に耽るのではないのか、と言われれば勿論そうなのかもしれないのだけど、多分僕はこの思索に耽る、という過程自体を楽しんでいるのだと思う。その喜びにおいて、思索に耽るという行為自体はその拠り所がないと無限ループに陥ってしまうんだよね。だから、思索に耽るために必要なものが結論なんだ。その結論を元にその間で抜け落ちた事象を推測し、道中を補完する。それ故にこの思索は結論自体を導く発想とはなんの脈略ももたない。いわば、結論を肯定するだけの存在。
だから僕の秀でているのは、この『結論を肯定するだけの存在』である『思索の過程』のみであり、故に僕は本当に頭の良い人間ではない。飛躍した発想で結論を導き出す天才には成り得ないのだ。
ここで天才の定義とは何なのかを考えてみる。だけど僕は天才じゃないから僕の主観を元にした推測でしかないのだけど、あまり風呂敷を広げられないから手短にまとめてみるよ。
僕が考える中での天才とは、途中の論理を飛躍して結論をえり得る頭の回転力と、それを確実に導くことのできる能力のこと。
だから天才の十分条件として確実に導くことのできる能力――いわば目に見える成果――があってはじめて天才は評価されるものなのだと思う。
そして、もう一つの能力。この途中の論理を飛躍して結論を得るという行為を言い換えるならば、その人のみに適応できる『個人の論理』というものが確実に存在しているのだけど、その過程を凡人には追うことが出来ないからこそ異端で尊いんじゃないかな。そして、その能力自体を肯定できる確かな実績がある。だから天才は、天才として評価される。この過程を経る中で、では天才的な回転を見せながらも実績がない故に評価されない『天才かもしれない人間』はどうすればいいんだという話が出てきそうだけど、これは今の論点においてはあまり関係のないことだと思うから今回は問わないね。
――というわけで、先ほどの論旨に戻ると。僕の秀でているかもしれない『思索の過程』は、このどちらも満たしていない。あるいは人は僕のこの『思索の過程』自体を『個人の論理』と捉えるかもだけど、どちみち最初の条件である成果に結びつかないのだ。だから、僕は、『思索の過程』という極めて限定的な条件でしか秀でていないのだと思う。
これを言い換えると、僕は極めて限定的な面に於いて、頭が良い。
いわば、最初に結論として掲げた命題の逆をとっただけ、なんだよね。故に僕の『思索の過程』は命題を肯定するだけのはったり。
結論を先に掲げて、改めて命題の逆が真になることが前提の事象を述べているだけ。これが僕の頭の良さの正体。
――どう、スッキリした?」
自分で出すべき証拠を相手に出させようとして相手の負担を増やすせこい論法ということ。もちろん相手にどう思われようがかまわない、相手を黙らせて勝った気分になればそれでいいということなら勝手だが。
見えないものは存在しないなんて主張してない。例えば空気とか見えなくても存在してると思ってるよ。
定量化出来なくても大小関係は比べられる。
わざわざモノサシで測らなくてもどっちの人が背が高いか分かるだろう?
それを君は思いこみだと言うのかい?
実際にすることとできることは別。実際に物差しで計ってなくても物差しで図ることが可能ならやはり定量化可能であることに変わりはない。量を測ることが不可能なものを持ち出して大小関係を尋ねるのがナンセンスということ。もし可能というなら方法を示してほしい。
関数ポインタで、例示された5つを実現するのはバッドノウハウじゃないの?
「関数ポインタを使ってプログラミングしましょう」というプログラミングスタイルは、正統派ではないと思う、んだけれども。
帰省中で手元にはK&Rしかないけど、関数ポインタを使って何かを成そうってのは載ってないよ。関数ポインタがあること、それを使うとどんなことが出来そうかは判るけれども。
なんちゃら抽象が一般的かどうかと、C言語はなんちゃら抽象を使えるかどうかと、C言語はなんちゃら抽象を使うことが前提となる言語である、というのはそれぞれ違う命題だと思うけれども。なんちゃら抽象をC言語で実現しようとすると関数ポインタで素直に表現できるということと、それがバッドノウハウかどうかも独立の命題だと思うよ。(美しい設計、どういう設計の言語仕様が良いかというのは、さらにまた別の問題では)
http://anond.hatelabo.jp/20081219045204
「理系は論理性に適正を持ったり好む傾向がある」という統計的な問題(少数の反例は全体の傾向に対して無意味)に対して、
論理的な反駁(「命題に対して反例があるならば、その命題は誤りである」ことが前提)を試みる行為が(個人的なイメージであるところの)文系っぽいと思った。
こういった問題の性質の違いやデータの有効性に対して無頓着な傾向がある(データはない。主観)人を、文系っぽいなと感じる。(根拠はない)
ああ、もちろんあなたは違うかも知れませんよ。
それだけにもったいない気がしてなりません。以下、順を追ってご説明します。
「思われてならない」「思う」のように主観的な記述に終始しており、事実に基づいた客観性を充分に有していません。すでにブックマークコメントでも指摘があるとおり、
と主張するのであれば、「増田内での何月何日のどの記事にこのような記述があるが……」と引用することで、記述された内容に基づいた、より客観的な記述が可能になります。逆にこれを怠ると、「この人は自分の主観――悪く言えば思い込み――でものを言っている」と看做され、あなたの主張の「通じやすさ」を著しく損なう恐れがあります(事実と意見の区別がついていないよりは、ずっとよいのですが)
この言説が、
「ニセ化学批判者は現代科学こそがすべてであると思っているが、現代科学は万能ではない」
という言説に酷似しているように思います。特に、ならばどのようなものが妥当であるのか、を具体的に示していないという点で。「数学的論理性のみが論理性ではない」という命題は、数学的論理性以外の論理性が一つでも例証されれば真となりますから、論証それ自体にかかるコストは大きくないはずです。それさえも行っていないことが、あなたの主張の根拠を弱めてしまっています。
立派な科学者先生がトンデモを堂々と主張できるんだから、トンデモを信じることと論理性になじみがあるかは、あまり関係がないんだろう。
記号論理学がお好きだそうですから、ここで一つ三段論法を使ってみましょう。先の引用を前提と結論に分けますと、
……あ、あれ? もう一回やってみますね。
うーん、やっぱり欠けているような気がします。そもそも前提が一つでは三段論法になりません。つまり、明示されなかった前提(アサンプション)があるわけですね。こういうことです。
さて、ではこのアサンプション、真と言えるでしょうか?
実は反証があります。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081127/p1
この記事曰く、
たぶん、科学者は科学者というぐらいなんだから、科学的思考を扱う能力は必須だろうと考える人が多いと思う。でも、現実はそうでもない*2。
研究にはある程度の決まりきった手順がある*3。それに従うと、科学的思考なんてのをあまり意識しないでまともな結果を出せたりする。
この「科学的思考」の中に論理性も包含されるとすれば、「立派な科学者は(全員)論理性になじみがある」というアサンプションは、かなり怪しくなります。平たく言うと、
「立派な科学者がトンデモを信じてるって、そりゃその科学者が論理性ないだけなんじゃないの?」
と指摘することができる、というわけです。
確かに、自分が論理に慣れていると過信するのは危険なことです。これは自分が文系であるか理系であるかオイラー系であるかなどという自己認識とは無関係です。であるからこそ、自らの主張の論理性を常に疑い、兜の緒を締めてゆくことが必要なのではないでしょうか。これは、自らが疑似科学的な誤謬に陥らないためでもあるはずです。
ああ、そう捉えたのか。すまないな
俺は排斥せよといいたいわけじゃなく、別に未成熟な人間がいてもいいと思うんだ(何を以って成熟かしらんけど)
ただな、未成熟だと周囲との足並み揃えにくいだろ? 周りが大人で自分だけ子供って感じで取り残されているようなのは嫌なんだよ
あくまで俺個人が嫌って話なだけだ。お前さんに強いるつもりはない。他の人にも強いるつもりはない
けど、空気の読み方は空気を読むことが得意な奴に近寄れば分かるかなとは思うんだな。すまんけど
だが、俺は以前経験があったけど結局分からなかった。分析と過去の解決結果をあら捜しして途方に暮れて疲れて荒れた
だったらどうしたら経験を生かして熟成可能なのか
もうひとつは代替手段がないのか? あるならばどのように生かして熟成可能か
排斥されるなんて考えじゃないよ。排斥されるなら俺はもう死んでるし。許容されるから生きていけるし、今後もそうあるべきだよ
ただ、同性も異性も足引っ張りたくないし、その場だけでも悪い気がなく出会って過ごして別れたいだけだ
だから、まあ、一種の命題みたいなもんだ。何より圧迫感がたまらない。俺もな、話の合う奴だけと過ごしたいんだよ
シミュレーターというビデオゲームという媒体に課せられた最大の使命に忠実であるあまり、その内部に「物語」を他のどのゲームより性急に孕まなければいけなくなった…それが「RPG」というシステムの不幸な生い立ちではないでしょうか?
もう一度考えてみましょう。
我々はなぜ「RPG」にここまで惹かれるのでしょうか?
小説、映画、コミック、そしてアニメーション…これらの媒体を通して語られるありとあらゆる「物語」は学校、そして家庭…どれほど身近な舞台装置をもってしても、我々にとって既に<遠すぎる>ものです。
しかしこの「RPG」だけが、主人公に自らの姓名を入力することによって、画面上の主人公の言動を意のままに操ることによって、我々に、小説や映画がとうに失ってしまったある種の「一体感」をもたらしてくれるのです。
「東京ラブストーリー」よりも「北斗の拳」よりも、そして村上春樹も小説よりも…「ドラゴンクエスト」に、そして「ファイナルファンタジー」に胸を躍らせた少年時代を過ごした方も多いでしょう。
「しかし」です。
はたしてそれは「ゲーム」にとって幸せなことだったのでしょうか?
無論、ここで言う「ゲーム」とは「ゲーム業界」のことでも、いわゆる「ゲーマー」のみなさんのことでもありません、あくまで「ビデオゲーム」という一つのシステムのことです。
<物語>は諸刃の凶器です。どれほど卓越したシステムを内包していようとも、ゲーム中の<物語>がユーザーに与える快・不快はその印象を残酷なまでに左右してしまいます。
この事実は我々にまたしても不幸な命題を突きつけることでしょう…我々が、そして「あなたがた」が求めているものは果たして「知的刺激」を求めるべき<ゲーム>なのか、それとも感情移入によって現実世界では決して得られないカタルシスを得るために求められる<物語>なのか…?
無論、その双方を同時に満たすのが総合芸術としてのビデオゲームではないか…確かにその通り。しかしこの問いを<物語>の側から照射するとどうなるでしょうか? …純粋に<物語>の器として、「ゲーム」は果たして構造的に耐え得るのか、と…。「誰でも勇者になれてしまう」「誰でも<勇者である><主人公である>と規定されてしまう「RPG」は果たしてそれ自体単独で<作品>たりえる<物語>は語りえるのか…?
我々にとって、そして「あなたがた」にとって「RPG」は最後の砦だったのかもしれません。TVドラマに憧れれば現実の立ち位置に愕然とし、少年漫画に没頭すれば逃避であると罵られる現在、「RPG」は我々に残された唯一の<物語への道>だったのかもしれません。
しかし…いや、「だからこそ」我々はこの「RPG」をめぐる不幸な環境について自覚的であるべきでしょう。残酷なことかもしれませんが<あなた>は主人公ではない。
二次元と三次元の優劣を議論し、吹き上がっている人々を時々見かけるが、これはいかがなものか。
古来より「我思う、ゆえに二次あり」という言葉もあるように、思考する事によって二次の良さが成立しているとも言える。また、三次は三次でそれはそれはめくるめくように気持ちよかったりもする。大事な事は、二次元であろうと、三次元であろうとどうやって自分の脳を刺激し脳に快感をもたらす物質を発生させる事が出来るかという事である。そのポイントさえ抑えていれば、四次元であろうが五次元であろうが構わない。
『いかにして自分の脳を快感に導けるか』という事を命題として考察した場合、「三次はファンタジーが足りない」「二次は得られる情報が限られている」などと、二次元派、三次元派の双方が揚げ足取りのように罵りあっていても、不毛でしかない。それぞれの派閥は、それぞれの派閥にあった形で、確固たる快感へのプロセスを持っていて、それが自分の脳を最も興奮させうるのである。相手に自分の派閥の素晴らしさを伝えようと頭ごなしに罵倒しても、それは相手の態度を硬化させるだけだ。相手の派閥の偶像を罵って貶める行為はさらに愚劣であると言える。
ならば、どうすれば良いのか。その答えはシンプルで明確だ。自分がいかにして二次元なり三次元で脳を快感に導いているかという事を訥々と語れば良いのである。まさに太陽と北風作戦だ。北風のように相手を罵倒しても相手は何も聞き入れはしない。「二次の素晴らしさはね、まずはここからこういう感じで入って行くんだよ。ここでこのキャラがこういうシチュエーションでこんな感じになっちゃったら、果たしてどうかな?」と自分の快感を導くノウハウを語ってみるのである。相手が「むう。それは!」とでも言おうものならもうほとんど陥落しかかっている。二次元派の布教活動はめでたく成就するわけである。立場が変わって三次元派が二次元派を説得する場合も同様である。
相手をこのように説得できるようになれば、それまで2chや増田で『二次厨』と疎まれてきた方も、たちどころに『二次の導師(グル)』とあがめられる事、請け合いである。三次元派の場合も同様である。
ただ、いかんせん向き不向きという物がある。いかに太陽と北風作戦を実行しようとしても、説得すべき相手の脳内が、すでに完成されたダイヤモンドのようにピュアな二次元脳であったりすれば、三次元派の説得工作は徒労に終わる場合も多分にして存在する。もう三次元のいかなる刺激でも、一ナノグラムの脳内快楽物質が分泌されないのだ。これは訓練や教育でどうなるものでもない。もちろん議論などおこなっても無駄中の無駄である。触れてはいけない世界というのも世の中にはあるものだ。これは、アマゾンの奥地に残る最後の秘境のように、そっとしておこうね。
二次元派、三次元派はそれぞれ説得が行えそうな人々に対し、有意義な説得を行うべきである。説得に応じる人が増えれば、その派閥のコンテンツは繁栄していくのである。