はてなキーワード: 光市とは
自分のブログに書くには、考えがまとまらないので、メモ的に増田で。
もしこの事件が1年後に起きていたら、この事件の裁判の第1審は裁判員によるものになっていた、
たぶん色々な観点、切り口があるんだろうけど、こうした事件に関する限りで言えば、
光市の事件などと違って、このような事件については判決が死刑となることについてはほぼ確実であること。
模擬裁判で一番裁判員が悩むのは「有罪か無罪か」「有罪だとして刑をどのように科すか」とされているから、
それが大きな焦点とならないであろう事件については、それこそ市民的観点から事件そのものに
ついて考えることができることが期待されるであろうこと。
わたしは裁判員制度については反対の立場であるけれど、こうした種類の事件であれば、
その裁判に一般市民が立ち会うことについては相応の意味がありそうだ。
この程度の考えしかできないのだけど、たぶんこのテーマはもっと発展させることができて、そういうことを
http://www.asahi.com/business/update/0423/OSK200804230044.html
この記事って朝日新聞が初出なのね。
日本電産の永守重信社長は23日、記者会見で「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」と持論を展開。10年間で売上高が6倍超という成長の原動力が社員の「ハードワーク」にあることを強調した。
ん?
「休みたいならやめればいい」なんていってなくね?
まあ、ハードワークをプッシュしているのはよくわかるけど、タイトルのようなことを言った訳じゃない。朝日新聞の記者が勝手に作っただけ。まさにアサヒった、ねつ造した。
もし言っているというならこの記者会見の全文のソースを提示してほしい。言っていたら信用する。
これに対して2ちゃんねるでは「また朝日か」というおなじみの書き込みであふれると思ったら、
「休みたいなら辞めろ」発言は言語道断! 日本労働組合総連合会の会長、日本電産社長を批判
http://koerarenaikabe.livedoor.biz/archives/51181739.html
「朝日新聞が書いた『休みたいなら辞めろ』発言などしてない!」・・日本電産社長が反論
http://koerarenaikabe.livedoor.biz/archives/51182360.html
を読んでもらえれば分かる通り、朝日新聞を全面支持。
誰も発言の信頼性に疑問を抱かず、批判しまくり。
中国や左寄りの発言でねつ造したときには「また朝日か」というくせにwwwwww
つまりは、別に2ちゃんねるの一部のユーザー(このくくりが正しい訳じゃないのは分かるけど)は「ねつ造が悪い」とかいう正義感にかられて「アサヒる」という造語を生み出した訳じゃなくて、自分が信じる主義主張に即しているか即していないかだけでしか判断してないってことになる。即していればねつ造しようが何しようがおk、グッジョブということになる。
そしてこのニュース。
http://www.j-cast.com/2008/04/28019573.html
「書き方は悪かったと反省しておりますが、私は幼児を0.5と数えたわけではありません」
とも釈明した。「証拠」としてブログの「コピー」を示したが、その部分が書き換えられていたため、「反省してない」としてネットユーザーのあいだで騒動がさらに拡大した。
つーか、ソースすらねつ造してバッシングの対象にしているしwwwww
ちゃねらーって自分が正義だと思っていれば何したってありだと思っているんですかね。
こういう事件が起こるたびにジョージ・オーウェルの「動物農場」という小説で(読んでいることを前提に話を進めるから知らない人は500円払って買って)、人間を農場から追い出したブタの指導者を支持して「四本脚はよい、二本脚は悪い」と言っていた羊たちが、ブタが独裁者となり、ついには人間のように二本足で歩き出すようになると「四本脚はよい、二本脚はもっとよい」と転向したことを思い出すんですよ。2ちゃんねらーもこの弱い羊と何ら変わらない、強いものの提灯を持っているだけにすぎなかったりするってことがわかる。マジで2ちゃんねらーは「動物農場」読んだ方がいいよ。
上記二つの事件に何かしらの問題性があることは認めるけど、事実をねじ曲げてまでバッシングすることは別問題。それを言っていたことを忘れてバッシングする側に回ろうとするなら、賢い為政者がその気になればどんな社会だって作れそうだよね。ナチズムも太平洋戦争も国民の圧倒的な支持によって成り立っていたものだし。なかなか賢い国民って生まれてこないんだな。
ちなみに自分は今のところ幸いにも犯罪被害者でも加害者でもないから、現在の立ち位置から感じることを少し。被害者の人権を、という話をするときに、「加害者の人権を擁護しなければならないから○○はできません」という話に頭に来ることもあるのだろう。本村氏の話なんかを聞くに、犯人についてのちょっとした情報の開示とかそういう部分での公的機関の対応に頭に来てるところもあるんだろうと思う。でも冷静になった方がいいんじゃないか。
たとえば
■「光市事件、実はヤスティー軍団大勝利説」を唱えてみる( http://anond.hatelabo.jp/20080423011332)
これとか読んで、「まあ餅付け」と思う。だってここであげられてる内容って、どれも加害者と利益対立してない。警察の横柄な対応は別に加害者を守るために横柄にしてるわけじゃない。裁判所の呼び出しが被害者の生活に配慮しないからといって、それで加害者が得するわけではない(むしろ相手の感情を悪化させて損するかもしれないくらい)。被害者給付金の給付が遅いのは公務員と政治家が怠慢だからであって、支払いを送らせてその分の利益が加害者に入るからではない。被害者の家を片づけないからといっても、別にそれは加害者に片づけさせろって話じゃない(まあ金くらい出せとは思うだろうけど全ての犯罪者にその金があるとは思えない以上、それはそもそも制度でなんとかすべき問題)。
だから、今回の件で加害者側弁護士が「犯罪被害者の話」から話をそらしたって、別に彼らが得するわけでもなんでもない。彼らは「自分たちの裁判に直接関係ない話をしたくない」だけだろうと思う。その意味では「被害者のために加害者に厳罰を」みたいな論調に持って行ったマスコミやそれを喜んで眺めてた日本全体が悪の根源であって、で、その「日本全体」こそが犯罪被害者に冷たい=そのために税金使うのはまっぴら、と思ってる利害関係主体そのものじゃないのか?
本当に責めるべきはそこであって、弁護団を責めてなんの意味があるの? つーか、それはミスリードしかならねーだろ、と思う。
この国は犯罪被害者に冷たい。それは多分、少し前まではその部分を「地域社会」が補償していたからだろう。犯罪被害者だからみんな温かく接して、家の片づけも近所のみんなで手伝って、残された子の養育を申し出る地元の金持ちとかもいて……みたいな。それに、それ以外にもっとひどい社会矛盾や格差がやまほどあったから、問題にもならなかった。だからその上で制度があぐらをかいて何もしなくてもよかった。けど、もうそんな時代じゃない。そんな土地日本のどこを探しても無くなってしまった(たぶん)。だから、そこを制度が急いで埋めなきゃいけなくなってきているんだと思うよ。
日本は、基本的には何を言っても良い国だと教わっている。
ニコニコで、光市母子殺害事件の死刑判決に納得出来ないと書いた人のブログ記事が晒された。
効果的に音楽も付け加えられ、死刑判決が正しいに決まってる。と思わせる動画に仕上がってた。(コメも結果的に加担。)
ブログの作者は、それなりの大学のそれなりに偉い人だった。だから、晒されたのだろう。
何を言っても良い国で、自分の言いたい事を書き世に公表した。それが世間一般から見たら異端であった。
わざわざ大衆の目に付く所に晒された。記事に対する多くの批判的な意見が、やがて彼女の人間性に対する批判になった。
擁護するつもりは全く無いが、このような社会は少々怖いものがあると思った。
横だけど、ほんと不思議な話だ。
この事件に限ったことじゃないし、被害者遺族が悪いわけではまったくないのだが
「被害者」と「被害者遺族」を混同したような表現には常々イラッとさせられている。
光市の事件の被害者は2人だけだよ、どこまで「被害者」という概念を広げるつもりだよ、と。
自分だけだろうか。
あと俺イナゴぶくまーだから、ダイアリに書いても読んでもらえない。
だから増田に書いた。後悔はしていない。
理由は、犯罪被害者保護/権利擁護について、全然もりあがってないから。
そのじつ、正気を失って顔を真っ赤にしてることに気付かない。
被害者問題からフレームをずらそうとする、左派のオモ坪ですから。
被害者権利が拡充されたら、容疑者さまが不利益をこうむられるから、
本村さんや世間を挑発してる。
本村さんは、哀しいまでの冷静さで、その挑発を振り切ったけど、
世間や保守論壇は、みごとに釣られてしまった。
制度的に切り捨てられている被害者たちに目を向けさせまいとする、
ヤスティー軍団のもくろみはまんまと成功し、
上告してホニャホニャしても、支援集会なんかで世間を煽り、
Fの死刑が執行されるクライマックスまで盛り上げて盛り上げて・・・・
・
・
・
おまえらそれじゃ困るんだよ。
世の被害者たちは、少年Fいいなーって思ってると思うよ(パラドクスじゃなくてマジで)。
たとえ党派性の権化だとしても、あんだけぞろぞろ守ってくれる人がいて、いいなーって。
それくらい、被害者って孤立してる。
たとえば、はい犯罪にあいました。
ショック受けたまま、取り調べ。
これ、めちゃんこツラい。
お巡りは、少しでもディティールを聞き出そうとする。
同じ質問を、何回も何回も。(それが仕事とは言え、最低限の配慮すらない奴大杉)
少しでも回答にブレがあったら、また何度も何度も。
この段階ですでにサポートの人間が付き添ってくれる国もあるのに、
被害直後からお巡りとサシでアンケ拷問ってそれどうよ。
で、仕事は休まなきゃならないかもしれない。
ケガがあったら通院、ヘタしたら入院かも。
最悪、被害者の老親がいきなり遺児の保育費ださなきゃとか、
申請しても、1年くらい待たないと支給されない。
すぐ入り用なのに工面できないひとは、どうすればいいのさ。
(つーか額面じたい、一律でない部分の幅をふやしてほしい)
被害者サポートセンター経由で、グループカンセリングとか参加して、
被害者同士しか分かり合えない傷をなめあって
ようやっと立ち直りへの道を探している頃に、
(PTSDって、イラク三馬鹿でイメージ悪いけど、ホントしんどいよ)
ほいでやってくる裁判に、心の準備をしていると、
検事務がきて「なんか直接言いたいことあるですか?」
「え…、はあ…」「じゃ○月○日に意見陳述」「!!!」
──○月○日
おれ「え、は、はい…」
うわあ、courtの中あったかいナリ・・・って、俺なんの法知識もないし
つーかおめえら、検察資料なんも見せてくれねえじゃんw
今までだって、犯人のケツ眺めて、法律用語でいろどられたキャッチボール聞いてただけ。
「ブン屋にリークしたから記事でディティール追え」っておまwww
(地方面ベタ記事にすらならない事件だと、被害者はさらに置いてけぼりになる)
当たり障りなく「被告の真摯な更正を望みたいと思います」なんて。
内心ぶっちゃけ、応報チャクラ殺意の波動が燃えたぎってるんだけどね。
でまあ、傍聴おわると、ブン屋がコメ獲りに囲んで来る。
あれ、数が多いと、裁判所から追い出されるのな。
他のかたのご迷惑って、おれがお招きしたお客でもないし、
そもそもこいつらが来た理由自体も、俺に直接由来じゃないんだがw
(こういう時は基本警察も検察も弁護士会も場所を貸してくれない
特別視はできないんだそうだ。アホか)
正直、ブン屋が傍聴席にいたりカメラが待ってるの見るだけで、
心臓に鉛つっこまれてグッと掴まれたような気がして
裁判所から出られなくなることも。
傍聴だってさ、今は優先権があるけど、昔はなかったから、
被害者サポセン職員や親戚に頼んで並んで貰って抽選確率増やして、
ってもう泣けてくる。ほんとに。今は優先権があるけど。
俺自身特定されたらやだからやめる。
でも、ここまで書いてきた被害者って、
みんな不幸になってるのに、制度的に、
加害者より軽んじられてるのは否めないと思うからなんとかして欲しい。
でも昼間どこかのテレビ(キー局)の解説者が、
なんてのたくってたのベッドで思い出して
くわしい人とかには当たり前のことだったかもしれないけど、
当事者的に知ってることだけ書いてみました。
ここまで読んでくれた人、ありがとうね。
これとかもっと報道されるべき。
http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/e/afb4fb2b74625c50c51e489f7369ebb4
が4月22日に出る。
誤った情報が出回っているのを見たので走り書きながら解説。時間が欲しい。
最高裁によって高裁に差し戻された場合、高裁では最高裁の論理に拘束されて判決を書く(裁判所法4条)。
最高裁では「この事実関係なら死刑にすべきだろ常識的に考えて。死刑を酌量すべき事情をもっと審理しる。」という判決だった。
したがって、特に死刑を酌量すべき事情がない限りは死刑にすべき、という点で拘束される。
なもんで弁護側の主張も、この特に酌量すべき事情についての点のみに集中していたわけ(ドラえもんがどうとか)。
すると、判決中にあの数々のアホらしい主張についての判断が載ることになる。これは読みたい。
著名事件の場合、最高裁のHPに行けば判決文を判決当日から読めるっぽい(11日の住居侵入の上告審の判決文がもう出てる)ので、
ドキドキしながら待つと良いと思う。
んで、判決が出ても2週間は上告期間があるので確定しない。2週間過ぎれば確定。
まあ死刑なら弁護側が、死刑じゃなかったら検察官が上告するんだろう。
差し戻された場合でも、もちろん通常通り上告することは出来ちゃう。のでまだまだ本村さんの苦悩は続く。
複雑な事案だと、3回目の上告審、なんてのもあったりする。
実際、政治がらみで事件の評価が変わる面は大きそうだね。
光市事件の犯人が「英会話学校の勧誘を装った米兵」だったりしたら、「事件は事件、安保は安保」みたいな論調が出てきたかもしれない。
週刊ポストの記事でこういうのがあるみたい。電車の広告で見ただけだから内容はしらないんだけどね。
で、このタイトルにある「メディア規制」ってなんだろうなぁと検索かけたんだけどなんか具体的には出てないんだよね。細かくいろいろ分散してるというか。
だからまぁ、今回書くのは裁判員制度で言われているメディア規制ではなく一般用語としてのメディア規制として読んでほしい。
で、俺が思うことなんだけど、メディアの規制は必要だと思うんだ。よくある誘拐事件での報道自粛とかではなく、ある犯罪者が出てきたときの犯罪者のプライバシーについて。
大体、その犯罪者のプライバシーを暴いてなんになるというんだろうか?その犯罪者が別の犯罪を犯していたというならば、それはそれで報道の理由があると思う。罪を暴くという意味で。
しかし、プライバシーって暴く必要はまったくないと思うんだ。A犯罪者は昔○○もしていた!みたいな、ほとんどの場合ネガティブな報道。犯罪犯す奴は過去にもこんな悪いことしてたんだ!ひどいねーっていうことを出してるだけで、それ以上の意味はない記事。いったい何がしたいんだ。これが「国民の知る権利」なのか。
知りたいのか、国民は。
知りたいんだろうな。記事にして売れるから記事にするんだし。
本当に報道の自由なり知る権利とかを行使するなら「A犯罪者は雨の日に出会った捨て猫に傘を差す優しい人!」とか過去にあったいいこと悪いことすべて調べ上げて記事にしろよ、なんで悪いことだけ記事にするんだよ。
まったく意味がねえよ、逮捕されていない犯罪者の情報を出して早期解決の糸口になるならまだしも、全然意味がないんだよ、なんで記事にするんだよ、つぅかそういう記事が掲載されてる雑誌を買うんだよ。
そんなに下世話が大好きか、大好きなんだろうな。
こういうものに対する規制は大歓迎!めちゃくちゃガチガチに規制してくれ!もちろんネット上でも規制してくれ。
ある犯罪者の過去を書いたらその時点でそいつも逮捕で犯罪者。でもそれで逮捕されてもその人の情報は守られるから安全。
というかむしろなんでこういう類のバカ情報を規制しないのかが不思議。バカ記事で飯を食ってる人以外に
困る人がいるのか?困る理由あるのか?
イメぴた、ケータイデバイドくさいね(追記:IE6でみれました)
一応DoCoMo偽装してみたんだけど、PCとみなされるみたい(IPアドレスで判断してるんじゃねーの)
しかも見えないからと1回リロードかけたら「PCから画像ページへの連続したアクセスは制限されております。」(原文でカナと読点は半角)とか言われる
元増田の顔が確認できないのは残念なんだが書いてる内容を読む限り素直ないい子っぽい。
光市の事件の被告側の言い分を一瞬連想してやめたのは事実だが内緒だ。私も好きな人にこれっくらい露骨に甘えられたらなぁ。
追記:Firefox 2.0.0.8、会社串経由、UserAgent Switcher で DoCoMo/1.0 を偽装して駄目だった。
さらに追記:XP SP2 の IE6 だと見れた。うむ、悪くないね
「深夜の電車の中でピストル型ライターを使って遊んでいたガキを酔った警官が注意。警官逮捕」⇒警官が絶賛され、激励多数⇒実は注意する必要はなかった。酔っ払いの一方的暴力
光市事件。弁護士や被告が何か言うたびに袋叩き⇒一部(?)は誤解に基づくもの
こういった話はメディア・リテラシーの欠如、マスコミによる煽動の結果として語られる。みんなもっと読めと。が、後を絶たない。というか、間違っていたからといって反省する人は少ないように感じる。
「どんなことがあっても暴力はよくない」
はいはいそうですね。でも、もううんざり。
はいはいそうですね。でも、もううんざり。
馬鹿な行いや、人殺しをしてもすぐに殺されない福祉国家を支えてやっているのは、日々をまっとうに生きている国民なのだ。そのまっとうに生きている国民ばかりがバカを見る。付け上がったガキどもに不愉快な思いをさせられる。犯罪者に人生をめちゃめちゃにされる。もういい。うんざりだ。
「全部さっさと殺してしまえ」という声を「メディア・リテラシーが低いんですね」と棒読みで片付けるのはさぞかし気分がいいだろう。しかし、そんなあれこれを読むたびに、何ともいえないもやもやが、少しずつ澱のようにたまっていく。
国民感情によって存置しているということと、民主主義的に決まったということは違う。
国民の多くがそれを望み、それを民主主義的な手続きによって決定すれば、社会学的にどうかはわからないが、法的には十分に正当なものとなる。
ちなみに、日本においては、というより世界的に死刑制度は民主主義より先に存在した。
そして、国民の感情で決まることと(どんなふうに?って話だが、)、民主主義的に決まることは違う。
「国民の大多数が思っているから」とかいう理由で物事を決めるのは、日本の民主主義ではない。
光市母子殺害事件で取り上げられるにいつも出てくるのはこの言葉だ。
しかし被告人の反省の努力を表明しつつ検察・裁判官への敵意を隠さない態度を見ると
彼には遺族である本村氏の存在が強烈すぎて遺族を納得させることしか眼中にないように見える。
しかし(彼をかつて騙していたとしても)検察の質問に誠実に答えなければ
罪への反省の努力をしている事にしているとこにならないと思う。
仮に二人に身寄りがなかったら人々が怒りを覚えることはなかったのだろうか?
そんなことはないだろう。
マスコミ、世論、そして被告人に反省させようと試みている弁護団も遺族の事を意識しすぎだと思う。
罪無き母子を無残に殺した罪そのものを事の中心におかないと。
↓
弁護士「被告は現実と妄想が区別できず、精神鑑定を必要と…云々」
↓
裁判長期化、なんてコンボが頻発するようになってしまうのではないか?
ってこんなの絶対誰か指摘してるよな。
ほとんどみんな、光市母子殺害事件という一つの具体的事件についてのみ語ってるよね。抽象的に語ってるように見える増田も、よく見るとやっぱりこの事件が頭の大部分を占めてるようだし。
賛成論者が個別的な犯罪の悪性を突いて主張するのは分かるが、なんで反対論者までそれに引きずられてるんだろう。「そこだけ見てどうする」って反論すべきなんじゃないの?
死刑制度の是非は法制度としての在り方だから、個別事件だけ見てどうこう言うのは間違ってると思うんだよな。「死ぬべき犯罪者がいる」ってことと、「死刑制度は存続すべきだ」ってことは直接結びつけちゃダメだと思うんだ。
生命は人権として絶対不可侵な部分だから死刑制度は国家の刑罰権の範囲外だとか、冤罪で死ぬ可能性が1%でもあるなら廃止すべきだとか、死刑による重大犯罪抑止効果云々とか、死刑廃止論は全て犯罪一般に関して展開するものであって、個別事件の犯人について「死ぬべきでない」と主張するものではないだろう。死刑廃止論者だって処罰感情が他と違うとは思えないから、その多くはやっぱり「こいつは死んでいい」と思ってると思う。それでも制度全体の正義を貫くためには死刑とすべきでない、というのがあるべき形のはずだ。
逆に、死刑存置論者も、「死ぬべき犯罪者がいるから」を理由にしてはいけないと思う。もちろんそれが大前提であり出発点だけど、死刑廃止論が「死ぬべき犯罪者がいるとしても」という留保の上に成立するものである以上、制度全体を見渡した上で是非を主張すべきだろう。
極論を言うと、遺族の処罰感情なんて死刑制度の是非に関してはどうでもいいことだ。どっち側もそれは認めてるんだから。
まあそうは言っても、事件がないと考えられないのが人間か。しかもその内容によって考えが変わったりもしちゃうんだよね。普段何も考えてない俺は、グリーンマイル見れば「死刑はダメかな」って思っちゃうよ。
トラバをしなかったり、「いいとも悪いとも言うつもりはない」と書いたりするだけでは、同じ光市の事件の話題ではあるけれどもそれまでの増田での文脈とは関係ない話だということは伝わらないってことですね。勉強になりました。
・・・あるいは増田の文脈を無視して紛らわしい話をするなってことですかね? まあどちらでもいいです。
わし、学校教員なんだけど、光市の例の主張とか全然突飛でも何でもないんだが。
こんなこと仕事上では常に考えなければならないから。
まあ、それが真実かどうかについては何も言わないけれど。個人的には半分嘘で半分本当なんじゃないかと。
最近の斧少女事件や5月くらいの母親首切り事件も、メディアではアニメだの漫画だのうるさいけれど、わしら教員の間では光市の加害者主張を笑えないような解釈している。
いじめ、犯罪、様々な過ちに行きつく子どもの精神構造を分析する機会は度々ある。そうでなければ当事者とコミュニケーションできないし。
「儀式」なんてキーワードは当たり前のように飛び交う。もちろん物語コードとしてだけど。他の学校でも同じような議論があると聞いた。
子どものストレスがどんな風に具現化し、どんな解消法を求めたのか。
科学的かどうか、なんてことは知らないけれど、わしらがやれるのはこれだけだし。
いや、光市の加害者を弁護しているのではなくて、例の主張が非現実的過ぎてバカげていると訴える人々もいるので、そんなことはないと言いたかっただけ。