はてなキーワード: 光市とは
自分の意思で相手を滅多刺しにして殺した殺人犯に対して懲役二十年、ってけして重いとは思わない。
一審は別に発達障害への差別には思えない(健常者でも同じ判決だったと思う)
それどころか二審の方が中年女性に対する差別だよなあ。46歳の女性の命の価値なんてそんなものだって言ってるように思う。
親なら産んだ責任、育てた責任がまだあるかもしれないが、姉に何ら責任はないだろう。それなのに殺された後でも殺した側を庇う声が多数って酷過ぎる。
引き籠りの兄弟持ちというハンデを背負いながらも結婚して子供を産んだのにこんな形で人生終了なんて。
兄弟におかしなやつがいたら本人がまともでも人生終了?その姉の人権はどうなるんだよ。
もし殺されたのが二十代の若い女性だったらもっと大騒ぎされてたし死刑にだってなったんじゃないだろうか。
光市事件のように。
自分にも引きこもりのきょうだいがいるけど、もし将来殺されてもこんな扱いになるのか…と絶望する。
数カ月前の発達障害者による殺人事件の判決について、今更の疑問。
http://www.47news.jp/CN/201207/CN2012073001002297.html
既に多くの方がご存知の通り、この判決のうち、特に「社会の受け皿が~」のくだりについて、そんなん被告人の責任じゃねーだろとか、差別に繋がりかねないといった声が少なからずあり、また福祉に対する挑戦という見方をする人も。
思うんだけどさ、これ単純に「遺族の感情を重く見て」って判決理由じゃダメなの?
「社会の受け皿」とか余計なこと書くから、患者や支援者をはじめとする多方面からツッコまれるわけで。
裁判員の間でどんな議論があったかは知らないけど、少なくとも判決を取りまとめた裁判官は、この判決文に対する世間の反応を予測できないようなバカじゃないと思うので、何故こんな判決理由にしたのか理解に苦しむ。
そりゃ刑罰は遺族や世間の人々の溜飲を下げるためだけにあるもんじゃないのは分かるけどさ、現に光市の事件では遺族や世論の声に押されて、より重い判決(死刑)が出たわけでしょ?
光市母子殺人事件の被告の死刑が確定して、喜んでいる人が大半だと思うが、ただバンザイしてそれで終わりにしちゃいけない。
本村洋さんが会見で語っていたように、洋さんが被告に望んでいることは「ただ殺されること」ではなく、彼が自らが犯した罪と向き合う強さを持ち、真摯にその事実を受け入れて刑に望むことだ。
彼がその境地に至るまで、周囲も世間も見守り、その成長を促すように働きかけなくてはいけない。
そして、なぜこのような残酷な事件が起こってしまったのか分析する必要も有るわけだ。
そもそもいきなり他人の家に押し入って女性を殺害して犯し、しかも殺す必然性のない赤ちゃんまでわざわざ絞め殺すという異常な行為を何故しでかしたのか、
彼の中でその異常性が芽生えていった背景や成長過程も詳しく知っておいて、そのような環境は極力改善していかなくちゃいけない。
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20120220/1329742220
あの事件を調べていて痛切に感じたのは「ないがしろにされる被告人」だった。
正直な感想をいえば、差し戻し控訴審まで、そのような「直球の」弁護が行われていたとは
資料を読む限り、とてもそうは思えない。
この経緯説明は間違いですよ。
こりゃちょっと、一審二審までの弁護士への、事実と異なる中傷じゃないんですか?
一審二審の弁護士は無能どころか、無期懲役を勝ち取ってたんです。
安田弁護士達スター軍団による「直球の弁護」が行われ始めてからが連戦連敗で、ついに死刑まで行っちゃった。
というのが実際の経緯です。
(また、ブログの書き手の口振りだと
「直球の弁護」が初期から行われていれば世論は今のようでは無く、判決も違った。
…と言いたいようですが、その根拠は何なのでしょう?)
もう1パターンの誤解、
この書き手とは逆、
「あの弁護団がアホな弁護しなきゃ無期だったのに」
どうも経緯を理解してない人が想像以上に多いのかな?
元々は「反省してま~す」作戦で一審二審と無期を勝ちとってました。
けれど当時の被告が書いた
『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』
という友人宛の手紙が晒された事で流れが一気に逆転、
これが事実。
この大ピンチに弁護を買って出たのが安田弁護士達21人のスター軍団。
替わった時点で既に「反省してます」作戦が通用しない状況になっていたから、
「ドラえもん」云々の作戦に路線変更したのは戦略的かつ当然の判断。
要するに誤解2パターンとも、
「反省作戦は通用しなくなったよ、どうしたい?」と状況を説明して、
クライアントから出てきた希望・アイデアを元に弁護をしただけ。
(一審二審の弁護士だって同じようにプロの仕事をしてるわけで、
してなかったと勝手に推測して断言するブログ筆者の根拠があまりにも謎。)
一人目の誤解者、ブログ筆者が絶賛する「直球の弁護」は
(だから逆の「安田が変な路線変更したせいで死刑になった」も間違い。)
「直球の弁護」は
一審二審を担当した弁護士が控訴審以降も継続して弁護していたら
やはり類似の路線変更を余儀なくされただろうし、
やはり「反省」を前面に押し立てて戦ったと思われる。
クライアントの意思でもあった筈。
「直球の弁護」を褒めるなら、
光市母子殺害事件の死刑確定判決に関連する加害者報道の備忘録 - 法華狼の日記
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20120221/1329772134
光市事件の判決についておもうこと補足 - 土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20120220/1329742220
日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:犯行時少年に対する死刑判決に関する会長声明
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120220.html
光市母子殺害事件:元少年の死刑確定は放射能汚染に不安を抱く母子に対するガス抜き - カナダde日本語
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-3237.html
http://ruhiginoue.exblog.jp/17220328/
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20120220/1329732758
-----------------------------------------------------------------
はてブを集めている記事で、死刑廃止派の記事の多くが、被害者遺族のことに僅かでも言及してるのが少なかったので、ちょいと恐ろしさを感じてみたり。死刑廃止派なら、だからこそ被害者遺族の立場に深く寄り添う必要があると思うのだが。
(曖昧な表現に終始して、明確に死刑反対を表明してないブログもあるけど、普通に読めば少なくとも死刑賛成では無いのは読み取れるかとは思う)
死刑云々を語るのは個人の自由だし、それ自体に文句はないのだけど、死刑反対を表明してるブログの多くが、被害者遺族の事を一顧だにしていない点が恐ろしい。個人的には死刑は廃止すべきと考えてるんだけど、こういうのがいる限り、死刑廃止が日本の世論で主流になることはないだろうな。
死刑廃止派(というより、政治的な活動をしてる人は多かれ少なかれ、左右問わずにそういう傾向はあるけど)は「自分は正義! 反対する奴は全部悪者」みたいに二元論でモノを見て、自分と、自分に好意を持つ意見しか見ない傾向が強いと思う。例え被害者遺族であっても、死刑廃止に協力的でない限り、敵と見なしているような気がする。だから言及してない。世論を巻き込んで盛り上げようと思ってない。少なくとも、そういう視点は欠けてる。まあ、あくまで印象であって、きちんと統計をとってみたら、「二元論」とは全く別の傾向が浮かび上がるのかもしれんけど。
suterukami 事件, 司法
殺せ殺せの大合唱に負けた司法。此の件は事件の中身よりも司法側の方針の方が優先され過ぎている気がずっとしてる。そしてそのとおりの結果になった。2012/02/20
なあに、誰も証明責任なんか追及して来ませんよ。適当な気分で叫んどきましょう。」
sink_kanpf 不適切なブックマークを通報する 事件, 司法
結局、法で決したというより、多数決で決したという感じの裁判だったという感想。世論的には「理屈とか手続きとかどーでもいいからとにかく吊るせ」一色だったし。 2012/02/20
上記ソリューションのおさらいです!
「裁判制度について無知なアホのコメントみたいに見えるですって?
『印象』とか『感想』とかイノセントを装う言葉を選んでおきましょう。」
sillyfish 光市母子殺害事件, 司法, 死刑, 一部ブコメがひどい
人をくびり殺すことを「法相は"仕事"しろ」なんて表現する感性と"犬の交尾"がどれほど違うのか、私にはわからない。殺し屋モノか何かのつもりなの?/法相と刑務官にはサボタージュを呼びかけたい 2012/02/20
敵側が合法だったり適正だったりして言いがかりをつけにくい場合は
→とりあえず情感たっぷりに言い変えてみる。
→ばかばかしいと思うなかれ、なんでもやるだけやってみるのさ。
ex.
切断した死体の肉を噛み裂き血を啜る行為を「食事」なんて表現する感性、私にはわからない。
"犬の交尾"
(※突然「交尾」とか何の話してるのかわからない人のために解説すると
>犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか
のこと。
被告人の死刑が確定したわけだが、この事件、幸せな家庭の母子が殺害され
残された遺族の悲劇が報道され、事件の残忍さも相まって死刑になるのは
やむを得なかった思う。
ただし同じ母子殺害、一家惨殺レベルですら死刑になっていないケースがかなりある。
それが納得できない部分だ。
多くは無理心中と身内の殺害だ
それら事件に対し厳罰を求める声は小さい。
今回の事件の残された遺族の夫と自分を重ね合わせて死刑は当たり前と
してる人はどこで線引きしてるのだろうか。
非親族間の殺しなら厳罰になるのか。親族間の殺しなら寛容になるのか。
・中津川一家6人殺傷事件
有名なのはこのあたりかな。事件内容は光市のそれと同等かそれ以上だと思うが、死刑は
回避している。奇妙なのは被告人関係者が罪一等を減ずる陳情をする事が多い事だ。
橋本徹氏がテレビで光市事件の弁護団を批判して「世間の常識であんなのが通用するのか」
とキレてたが、殺人を犯しても世間は減刑を求める嘆願書を出す。
被害者が障害児や乳児の場合、殺害した親には執行猶予が付く場合すらある。
まあそれでいいならいいんだけどね。なんだかねぇ
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011640985?fr=rcmd_chie_detail
岡村氏を悪く言ってはいけません。
人間は、自分がその立場に追い込まれて初めて、遺族の辛さを理解するものなんです。
以下引用。
元日弁連副会長の岡村勲弁護士(七一)の自宅で、夫人の真苗さん=当時(六三)=が訪れた男に殺された。
犯人(六六)は山一証券との株取引で損をし、そのうらみから同証券での交渉相手だった岡村弁護士宅を訪ね、応対に出た夫人を用意したナイフで刺し殺した。
岡村弁護士は犯罪の被害者になって初めて「司法と被害者の距離を実感した」という。
男が捕まって裁判にかけられても、その言い逃れに被害者の岡村弁護士は一言も反論できず、「じっと唇をかんで」黙っているだけだった。「なぜ、ここまで被害者が捨て置かれるのか」
やっと法廷で証言する機会を得た岡村氏は「(犯人を)極刑にしていただきたい」と訴えた。被害者としては当然の思いだった。
そして昨年夏、東京地裁で判決が下された。「主文、被告人を無期懲役に処す」
彼の証言は聞き流された。というか、日本の法廷には長年積み上げられたパターンがあって、それに外れる、例えば被害者の声を反映するといったことはマニュアルにはなかった。
どういうパターンかというと、「一人殺しただけでは死刑にはしない」「判決は求刑の八掛け」「相手が少年ならうんと減刑して『更生して罪を償うように』と付け加える」「刑罰を厳しくしても犯罪は減らないというせりふも折に触れて挿入する」等々だ。
教養もいらない、常識もいらない。ただ司法試験をパスするだけで裁判官になれる日本の法曹界では、はっきりいって頭を使う判決は無理がある。
だから、こういう事件はこう、ああいうのはどうというパターンにはめこむ方式が最も無難な方策として取られてきた。
この判決も「一人殺しただけでは死刑にしない」慣例と、「判決は求刑の八掛け」に従った模範主文で、締めの言葉も何度も使われた「自分の犯した罪に向き合って生きるように」だった。「被害者の気持ち」を斟酌するパターンはもともとなかったのだ。
岡村氏は怒り、それは大きな波紋を呼んだ。なぜなら彼は一般人ではなく同じ司法試験を通った身内で、なにより人権に一番うるさい日弁連の元副会長だった。
これは過去にはなかった例で、それで裁判所も検察庁も考え直した。まず検察庁。求刑の八掛けで無期なら慣例通りだが、あえて控訴した。「身内が被害者の場合、一人殺しても死刑にしようではないか」というわけだ。
裁判所も思い直した。岡村弁護士の、殺された妻の遺影の法廷持ち込みを認めようじゃないか。
たとえばこの三月、山口県光市で起きた母子殺害事件の判決公判では、一般市民である夫が殺された二人の遺影を持ち込みたいというのを「被告に心理的な圧迫をかけるから」と禁止していた。日弁連の人権派弁護士の要求に沿ったしきたりによるものだ。
それが身内の弁護士が被害者になったとたん、コペルニクス的転換を示したわけだ。ブレイディと同じに、ヒトはその痛みが分かれば大きく変わるものである。
岡村弁護士は東京高裁での初公判で被告に向け遺影を高々と掲げた。そのおかげで光市の母子殺害事件控訴審でも、夫に「被告に見えないように」という条件で遺影を持ち込むことが認められた。大いなる進歩である。
この本の作者である増田美智子が、心底嫌いになりました。
知らないし、聞いたこともないし、会ったこともありませんが。
大嫌い。
この本は、光市母子殺害事件の加害者である人物と、その家族や関わりを持つ人物を取材したもの。
本を読んで、ここまで嫌悪感を持ったのは初めて。
それくらい不快でした。
小学校4年生の何も知らない子に、「お前の義兄は殺人者だ」と気付かせるような行動を起こし、それを非難する父親(小4の父でもあり、加害者の父でもある)を上から目線で眺める行為。
高次脳機能障害を患っていると知りつつ、A君(加害者の拘置所仲間)の心を顧みることのない取材。
君は取材を受けたことにより、病気を悪化させ、奇行を起こした。
その奇行についても詳しく書いている。彼の名誉など、考えないだろうか。
そして、奇行を起こした原因となった最悪の取材であるにも関わらず。
この行為を「反省している」と書きながらも、症状を悪化させる原因となった取材や手紙の全てを書籍化し、公に晒すという行為。
この作者、おかしい。
言いたいことは、いっぱいあります。
今訴えられているような、元少年の実名を出すことが悪いとは思いませんし、正直読みたくてたまりませんでした。
光市殺害について取材を繰り返し、ここまでのものに仕上げた。それは素晴らしいと思います。
しかし作者は、人の気持ちを考えてなさすぎます。
増田美智子という人物は、人の気持ちを汲むことが出来ないのでしょうか。
そう思ってしまうほど、配慮のない取材や偏りのある記述が多く、
彼女が「悪人」として扱っている人物に同情すら覚えることが、いくつもありました。
彼女が「悪人」として扱っている人物、という部分については、書籍を読むとわかるかと思います。
作者は作者自身の思い込みから、登場人物をすべて「善悪」で振り分けている。
確定していないことや、又聞き程度の話題も多いだろうに、、
それにも関わらず自身の感覚だけで、人を「善悪」で振り分けるとは。どこまで傲慢なのだろう。
そして、それを恥ずかしげもなく書く。質問内容も、回答も。
最初は驚きました。
誤植、あるいは表現方法を誤ったのかな、なんて思っていました。
最後まで読み終えましたが、違ったようです。
作者の神経を、疑います。
1.俺はこう思う
2.右に対する俺の偏見
3.左に対する俺の偏見
こう自分でいろいろと書いてみたけど、たぶん、俺は右なんだろうな。
ところで、リベラルって何?
追記
11/3:死刑制度を追記
廃止派は論理や実証や論文で死刑がいかに無益かを訴えるが、存置派の「感情」に負けてしまう。
圧倒的な、そう国民の8割という「死刑賛成」の「感情」に負けてしまう。
立法、行政、司法の3権ともに厳罰化・迅速な死刑の実施に動いている。
これではどうしようもない。
オウム、光市事件、池田小、秋葉原と、どんどん死刑賛成は加速するばかりだ。
正直、途方に暮れている。
「死刑反対」と口に出すだけで非国民、いや、非人間扱いされるこの状況に、途方に暮れている。
ただ、一介の廃止論者としては「遺族の気持ちになれ」というのは間違っている気がする。
遺族が「死刑にしろ!」と言うことはしょうがないと思う。
ただ、まったく関係のない人間が遺族の気持ちになって、「死刑にしろ!」これは違うと思う。
まったく関係のない人間には、まったく関係のない人間なりの「第三者」としての役割がある。
そのへんに、なんとか糸口がないかと思っている。
「404 Blog Not Found:「被害者帝国主義に絶望した!」? - 書評 - 「心の傷」は言ったもん勝ち」
自称鬱のひとたちよりも、光市のことや拉致被害者のこと、この前天窓で遊んで死んだ子供のことなどが思い浮かぶ。光市の事件を見ているとそのうち被害者重視というかけ声のもと、過失で人一人殺してしまっただけでも死刑になりそうで怖い。拉致問題なんて被害者のせいで外交が拉致偏重になり、より重要な核問題が軽視されている気がする。天窓から落ちて死んだ子供の事件だって過去に何回か起こっているだけで年間にすれば1件起こるか起こらないかの事件なのに、学校側の管理責任が追及されるなんてあほらしすぎる。これで責任が追及されるなら過度に規制せざるをえない。それをやったのが、貸金規制や建築規制なんか。そのせいで経済活動が縮小、「被害者」保護の名目でほとんどの人が規制強化に賛成してたはずなのに、なぜか「官製不況」といわれる。こういう「被害者救済」「被害者保護」の「美名」のもと、非合理的な政策が選択されることこそ被害者帝国主義という言葉にふさわしい。