2007-09-21

増田死刑論争を見てて思うんだが

ほとんどみんな、光市母子殺害事件という一つの具体的事件についてのみ語ってるよね。抽象的に語ってるように見える増田も、よく見るとやっぱりこの事件が頭の大部分を占めてるようだし。

賛成論者が個別的な犯罪の悪性を突いて主張するのは分かるが、なんで反対論者までそれに引きずられてるんだろう。「そこだけ見てどうする」って反論すべきなんじゃないの?

死刑制度の是非は法制度としての在り方だから、個別事件だけ見てどうこう言うのは間違ってると思うんだよな。「死ぬべき犯罪者がいる」ってことと、「死刑制度は存続すべきだ」ってことは直接結びつけちゃダメだと思うんだ。

生命は人権として絶対不可侵な部分だから死刑制度は国家の刑罰権の範囲外だとか、冤罪で死ぬ可能性が1%でもあるなら廃止すべきだとか、死刑による重大犯罪抑止効果云々とか、死刑廃止論は全て犯罪一般に関して展開するものであって、個別事件の犯人について「死ぬべきでない」と主張するものではないだろう。死刑廃止論者だって処罰感情が他と違うとは思えないから、その多くはやっぱり「こいつは死んでいい」と思ってると思う。それでも制度全体の正義を貫くためには死刑とすべきでない、というのがあるべき形のはずだ。

逆に、死刑存置論者も、「死ぬべき犯罪者がいるから」を理由にしてはいけないと思う。もちろんそれが大前提であり出発点だけど、死刑廃止論が「死ぬべき犯罪者がいるとしても」という留保の上に成立するものである以上、制度全体を見渡した上で是非を主張すべきだろう。

極論を言うと、遺族の処罰感情なんて死刑制度の是非に関してはどうでもいいことだ。どっち側もそれは認めてるんだから。

まあそうは言っても、事件がないと考えられないのが人間か。しかもその内容によって考えが変わったりもしちゃうんだよね。普段何も考えてない俺は、グリーンマイル見れば「死刑ダメかな」って思っちゃうよ。

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