はてなキーワード: ボードリヤールとは
>推しって言っとけば、自分が無能無産の消費者じゃない立場にでもなれると勘違いしているからだ。
しかし記事タイトルにあるような、それは日本のゆとり教育がもたらした、という態度はおそらく違って。
というのも、世界的な社会哲学の中でその現象には名前がついているからだ。
「消費社会」という。
ボードリヤールが言いだし、後続の学者も概念を使っていろいろ分析している。
何を消費しているかが自己表現となり、何を消費しているかで社会階級が決定するような社会のことだ。
ロックを生きるならば尾崎を聞かねばならないし、ジョックになるならゲーム漫画ばかり消費してはならない。
ハリウッドセレブになるにはドレスを買わねばならないし、家を消費できないものはホームレスとして社会不適合者扱いされる。
それを覆す、ということはなかなか難しい。
覆す必要が本当にあるのかを確定するのもだ。
「『死ぬ・死ぬ』という人は本当は自殺しない」っていうのはウソ。っていうのも正しいと思うけど、
ほんとに自殺するときは、どうしようもないくらい自殺したいときなんじゃないかな。
どうしょもない状態を数日待つことなんてできないし、うつ傾向の人も分裂症傾向の人も気分の上下は激しいわけで、ちょうど予告日に絶望的状態になるって予告することはできないと思う。
予告自殺が成立するとしたら、死に対する意識が変わってきたということだと思う。近代は「生」を絶対善として「死」を遠ざけてきた時代だったけど、この状態が変わったんだとしたら、予告自殺が成立しうると思う。今の中学生の気持ちはわからないけど、たぶん変わってないと思う。
おそらく全ての予告は本人に意図があろうがなかろうが「政治的なもの」なんじゃないのかな。
ボードリヤールが言ってたことを思い出した。
ちょっと難しいけど引用します。
社会や個人は、こんな事態を終わらせるためには、自分自身を破壊するまでつきすすむだろう。それが唯一の絶対的武器であり、それによって集団的脅威を与えるだけで権力を崩壊させることができる。この象徴的「脅迫」(六八年のバリケード、人質作戦)に直面するだけで、権力は解体する。権力は私の緩慢なる死で生きているのだから、私は権力に対して私の暴力的な死を対置するのだ。われわれは緩慢なる死を生きているがゆえにこそ、われわれは暴力的な死を夢見る。この夢こそ権力にとっては耐え難いものなのだ。