研究を仕事に選んだ人間は、その「研究内容を伝えるプロ」ではないのだから、研究内容が生徒の役に立つという期待は余りできない。それは当然。だがそれでも彼らには存在意義がある。それは、いわゆる「隠れたカリキュラム」の効果である。
具体的には「苦行的でない勉強観」の呈示。現在の教育現場で、教師が「学ぶ喜び」を生徒に伝え切れているか…というと難しい。『「学ぶ喜び」を感じない人間に教師たる資格はない』と厳しい意見もあるだろうが、現実問題として自分の専門分野の研究を続けている教師、最新の研究に目を通している教師がどれほどいるだろうか?
子どもにとって「人生のモデル」は必要で、大抵の場合自分の親(的存在)が提示する「人生モデル」を見て育つわけだが、より豊かに人生を生きる際に「親とは別の大人」「異なる人生モデル」が有益であったりする。いわゆる「叔父、叔母」が果たす機能。
「教科特別講師」に期待されるのは、一つにはそのような「異なる勉強モデル」である。教師とは異なる「勉強観」を持つ「きちんとした大人」の存在を身近に感じることで、生徒は豊かな刺激を受けることが期待できる。
同意。 「まともな大人」が少なすぎるよなあ。 小学校教師なんてイジメを隠蔽することなかれ主義の無能だらけだった。俺のとこは。 大学院の指導教官に会うまで「こいつはすげえ」...
うちの学校にはいじめを隠蔽するどころか本人がいじめに参加してる教師が複数いたぞ。
現状、どう考えても、一部の例外を除いて優秀な人間が教師になるインセンティブ皆無なのが問題だと思う。 大学の同期を見ても、「就職活動とかめんどくせーし、安定してそうだし、...
そうだねえ。「えっ、あいつが?」ってことはある。 「一生懸命やろうとすればこれほど大変な仕事はないが、楽をしようと思えばこれほど楽な仕事もない」って話をどこかで読んだな...
ご指摘の点、以下のような効果を期待するものであります。 ◎教育現場の風通しが良くなる 「教師」でなく、かつ「生徒の実態」を踏まえてまともに発言できる人が増える。教育現場...