2021-10-19

好きな人好きな人自分じゃなかった

自分でも薄々勘づいてはいた。

私は自分に都合よく相手言動解釈することで、心が折れてしまわないようにする癖があるようだ。

他にも、今回のことで自分について色々なことがはっきりしたように思う。

例えば、私は素敵な人を見つけると、自分想像(妄想)の登場人物にして、頭の中で勝手理想的未来像を拵える。もちろん、私自身が都合よく頭で拵えた虚構なので、その通りに現実が推移してくれるなんてことはまずない。よって、一時妄想に浸って麻薬のようなうっとりした時間を過ごした後、厳しい現実を突きつけられて激しく落ち込む。それはもう生きているのが苦痛なほどに。それが今。

そもそも普段自分を騙し、努めて感じないようにしてはいるが、私にとって生きていることは辛いのだろう。好きになった人にこれだけ入れ込んでしまうのは、言ってみれば他に打ち込みたいもの人生にないからだ。一種依存だと思う。少し寂しそうで、心に傷を負っているような人を好きになるのも、こんな自分でも役に立てるような気がするからだろう。私もきっと心の底では、自分自身が生きる意味とかなんとかを求めているんだ。

私はあの人の役に少しは立てた、とは思う。でもあの人には、私以外にも大事な人がいて、頼れる人もいて、打ち込みたいものもあって、あの人を救うんだと宣っている私なんかよりもずっとずっと強い人だった。

ちゃん自分境遇を受け止めて、それでも出来ることを探して、必要な行動がなんなのかを見極めて、辛くても一歩ずつ前に進める人だった。

私のように、他人の不幸を心の奥底で歓迎しながら、優しいふりをして自尊心を満たそうとしたり、自分のやるべきことや自分自身から目を逸らして、動かない理由だけを理論武装して、余裕があるように振舞っている小心者の卑怯者とは器からして違っていた。私はなんと人間として小さく、甘えたで、未熟なんだろう。

10代の頃の方が、もう少し大人だったように思う。少なくともやるべきことはやれていた。「学校に行って授業に出席してテストでそこそこの点を取る」という行為は、幼少期から習慣化されていたおかげで、朝はとても辛いけれど、親の叱責や学校はサボってもいいという発想がなかったこから、なんとかやれていた。それが普通だと信じていたし、普通をやることに今ほど抵抗もなかったから。

言語化してみて思ったことだが、やはり10代の頃の方が大人だったというのは誤りなんだろう。あの頃も私は自分勝手で、やりたいことなんてなかった。ただ普通の生徒をやれていたし、成績は悪くなかったから、自分にそれほど不満がなかったのだろう。やりたいことなんて、ない方が普通だった。部活ゲームをして本を読んで塾に通っていれば人生にそこそこの点数がついたのだ。「人生に点数をつける」という行為の是非は置いておいて、要は他人自分心配しないですむような人生は送れていた、という意味で。

長い。人に読んで欲しいならこんなつらつらと書きたいだけ書きなぐるような文章はおよそ適していないけど、まあいい。読んで欲しいわけじゃないといえば嘘だけど、自分気持ちの整理のためだ。

そういえば、さっき猫に餌をやりながらミルクティーを飲んでいたら、少し心が満たされた。あの人はもう、私に餌を求めてはこないとわかってしまたから。

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