弱者男性が丁寧な暮らしをした、という増田についているブクマの内容に対して書き散らしたいと思ったので書きます。
日本に住んでいる一人暮らしの若中年男性について、金銭的な面で多少の余裕がある(少なくとも、数万円程度の余暇を使う)ことは貧困ではない、という観点はそれほどおかしいとは思わない。
もちろん社会関係資本が多少なりとも存在するからこそ、現在の生活が維持出来ているということはあるだろうか、それが今後も継続する、という期待を持ってはいないのではないか。
仕事、健康、それらの資本が一つでも崩れれば、一気に崩壊するだろうことが明白な生活だからこそ、それに金銭資本を投下して向上させるというモチベーションよりも、今後に備え可能な限り貯蓄する、あるいは娯楽に逃避するために散財するという選択に追いやられたのではなかったのだろうか。
まぁ、孤独な人間が孤独に死んでいくことは誰も気にすることじゃないから、適当なことを言っておけばいいって、自分の生活に支障はないから、そうしているのだろうけれど。
社会関係資本の欠落はそれ自体の増加を妨げることにもつながる、なんてことはまぁ、一般的な資本主義の様相を見てもらってもだいたい分かることだと思うのだけれども。
一度他人と関わる伝手を失うと、そのまま転げ落ちるか藁を掴んで金すら失うかのどちらかに陥ることが多い(もちろんそうではない幸せな結果に至ることもあるのだろうが、それはおそらく多数側ではないだろう)。
一度お金を失えば、生活に投資できなくなり余計にお金がかかるようになるのと同じで、家族や知人と呼ぶべき資本を最初から欠落している人間は、コミュニティへの参画が極めて困難に陥りやすい。
特に、社会的な弱者を取り囲もうとする罠というのは、面白いくらいにあちこちに散らばっていて、しかし資本に富んだ人たちは「あんなものにひっかかるなんて、なんて馬鹿なんだろう」と嗤って楽しんでいる。