(大前提として、大ヒット漫画はいずれも漫画としての技量やキャラクターの魅力は全く文句の付けようなく、
そもそも毎週や毎月決まった原稿を仕上げる作者の並々ならぬ努力と実力に対し、自分は常々感服していることを申し添えます)
敵に絡めてバトルで解決しようとするから、味方にも犠牲が出ざるを得ない。
バトルは非現実的だから、いざ現実での解決の糸口は提示されないし、
重い敵に対するバトルだから、みんなの推しがじゃんじゃん死ぬ。
これでは、つらい現実の再生産になってしまっているのではないのだろうか。
一方で、「つらい現実の痛みを忘れる別の痛み」が求められており、その役目を見事に果たしているのも事実。
だから、つらいのに、そういう作品は事実として大大大ヒットしている。
そしてまた、そういう作品をつくることに情熱を傾ける作者が現れるだろう。商業的にはまさに「正しい」のだから。
この悪循環は、悲しい。
一人ひとりは全く誰も悪くない(漫画のような黒幕などいない)から、なればこそ一層に悲しい。
話は広がってしまうが、
俗にいう「なろう系」もまた、つらさを痛みでなく逃避(転生)や攻撃(ざまあ)でまぎらわせるタイプが圧倒的主流であり、
方向性は逆に近いにしろ、いずれも創作物がつらさへの対応を主として求められている傾向だ。
商業的なヒット作の多様性は、薄れている傾向があるのではないだろうか。
作者も読者も自由意志で、その先で需要と供給が嚙み合っているので「問題ない」で片付ける意見も重々承知だが、
「再生産」とは怖いもので、現代日本を覆う沢山の問題も、特定の悪性によるというよりは、
個々は善良な人々が、和を乱す変革を先延ばしにした果てに、「再生産」が「悪循環」に化けた故のものばかりだと思う。
どんな漫画も、それが愛好されることも、個々では全く問題ないのだが、
その背景となっているつらい社会に、なんとか変わって欲しい。
こんなきれいごとも世の中ににあっていいし、あればいいと思わせてくれるような、
お前が描けばいい
つらい現実を忘れるための劇中の痛み、という指摘は一定の納得がある。 他人の悲劇を鑑賞して感じる痛みは、ジェットコースターに乗ったときに感じる恐怖感と同じく、自分の安全が...