140字以内ではなく、1000字以上書かなければならないという方向にするべきなのだ。
短文投稿を許可するから、ただ単に荒らすだけの、それでいて荒らす目的だけには有効な文章が混入してしまって、意味のある議論ができなくなるのだ。
基本的に、長文を書くことと短文を書くことを比較すれば、長文を書くほうが時間がかかるし知的能力も必要である。
もちろん文字数を稼ぐためだけの文章を書くことも可能だが、そういった文章は読んでいるうちに内容がないことに気づくし、論理の破綻もわかりやすい。
しかし、人間の感情に訴えかける短文には論理の破綻がないし、解釈の幅が広くなるので、その文章自体の間違いを指摘することも困難になる。
これは蛇足だが、このように考えると「言いたいことはわかるがもっと短く」といった要求が必ずしも正しくないことがわかる。
もしも、実りのある議論が活発に行われるSNSなどというものをつくるとするなら文字数制限は設けるべきだし、それは何文字以内ではなく、何文字以上とするべきだ。
という意見は今までは有効性が多少なりともあった主張かもしれない。
しかし、今やAIが紡ぎ出した文章を人間が読んでも機械が書いたと喝破されない時代に突入している。
時代が進むごとにAIが論理的には破綻していない文章というものを人間以上にうまく書ける存在になることは間違いない。
そうすると議論をより複雑化して、それでいて自説に有利な展開に持ち込むようにAIを調整するといった、ある種のコンピュータゲームのようなものへと、その長文SNSは変化していくことになっていくのだろう。
そうなったときに人間は考えるという行為を機械に負託することになる。
ある議論を、肯定する、否定する、中立的におさめる、などといった感じで何種類もの論文を機械に書かせて、それを人間が読んでもっとも正しいと感じる文章を選択することになる。
おそらく、機械は無限に近い文章を構成することができるだろう。
それを読んで、人は人では考え出すことが出来ない新たな知見を発見することになる。
そういった学問というのが成立するのではないだろうか。
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