GoToトラベルキャンペーンが東京発着を対象外とする(当時)ことが発表されたとき、Twitterのトレンド欄に「東京差別」という言葉が上がっていた。当時東京からはるか1,200km離れた九州に住む自分はそれを外国のニュースを見てるような気持ちで見ていた。
1カ月くらい前、仕事で東京の企業の人と会う機会があった。朝上司の運転する社用車で駅まで迎えに行き、3か所で説明会を行い、夕方に駅で解散。その間はすべて一緒の車で移動することになる。
密閉空間である車の中でその人が大きな咳をしたとき、思わず身構えてしまった。そしてそのあと、「東京差別」とはきっとこのことなんだろうな、と思った。普段職場で上司が咳をしても、気を遣えよとは思うがその時ほどは警戒心はめばえていない。別に今住んでる土地にもコロナ患者は出ているわけで、警戒度に差が出るのは本来はおかしいことなのである。車の中で少し反省をした。
ただ、結局警戒心は完全には解けず、そこから2週間は毎日cocoaの通知が来ないかびくびくしてしまった。結局1カ月通知はこなかったし、自分自身は毎日ピンピンしている。本当にその人はコロナではなかったのだろう。
SNSではいろんな差別の話が流れてきて、自分は差別には反対の立場でいるつもりだったけれど、それは自分がその問題に対して部外者に近い存在だからかもしれない。(もちろん根本的に自分に無関係な問題などないのだけど、少なくとも身近ではない問題も多い。)その問題が「自分事」になったとき、自分がどう感じるのか、差別に反対し続けるにしても当事者のそういう感情を一方的に否定するだけでなく対処法も考えるべきではないか、そんなことを考えた。
今更何寝ボケたこと言ってやがるんだ 今までお前が糾弾してきた他人の差別だって、理由や事情ぐらいあったんだぞ でもそういう他人の事情に今まで一切配慮せず、一方的に反差別を押...