2018-03-18

かつて僕らは廃人であることがアイデンティティだった

その戦いのステージは小さな教室の中、放課後の部室、行きつけのゲーセン

相手となるのはせいぜいが数十人や数百人程度で、そのうちの数十人や数百人はそもそもそんな争いには最初から興味がなく、せいぜい10人程度を相手取るだけでよかった。

どんなに負けても10位や50位ぐらいの二桁台には居座れた。

だけどインターネット世界を包みだしてルールが変わった。

天網恢恢疎にして漏らさずネット世界をこれでもかとつなぎ無数の蛸壺を作りながらもその蛸壺同士すら繋いでしまった。

いまや扉をガッチリと閉めたシェルターにでも潜りでもしなければ、六次の隔たりを超えて世界中にいる無数のライバルと競い合う運命がどこからでも待ち構えているのだ。

今や廃人である事に求められるのは数万や数十万を相手取ることだ。

エントリーも予選も終わって、その上で数万、数十万のアカウントが己の廃人っぷりをアピールしあう中で生き延びなければならんのだ。

恐ろしいことだ。

その中で二桁台、三桁台に立つ連中の化物っぷりときたら……。

流行りのyoutuberの中にはネットゲームにどっぷり浸りすぎて、廃人でない人生の部分が生きるのにギリギリ最低限必要な分だけ残されているのかすら怪しい連中がウヨウヨいる。

そんな奴らでさえ、このインターネッツで繰り広げられる黙示録蠱毒ファイナルバトルロイヤル)の中では四桁台に食らいつくだけでも必死なのではなかろうか。

恐ろしい時代だ。

負け組廃人人生オワタといった類のネガティブアイデンティティすら容易にクライシスされていく時代が来た。

この世界で、アイデンティティを維持するためにある分野で他人より優れようとするのは凡人にとっては狂気の沙汰にしかなりえない。

ならばどのようにして己の存在価値を守るのか。

その方法に一つだけ心当たりがある。

遠い昔に風のうわさに聞いた程度なのだが、どうやら自分人生ありのままに受け入れて、今そこでその人生を生きている事を拠り所に出来るらしい。

そのためには、自分の両親を肯定し、周りにいる人間との縁を大切にし、自分今日まで生きてきた日々は嘘偽りなく自分人生のものだったと認めればいいようだ。

しろそれが本来アイデンティティだとも聞いたことがある。

嘘か真か、人より優れ何らかの形で己が役に立つか目立つかすることによってアイデンティティを得るのは裏技だとすら言いはる人間にもあったことがある。

にわかには信じられないが、凡人である我々が己の凡人性を認めざるを得なくなった以上は、この俗説を信じるしか無いのやも知れぬ。

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