僕の家庭は親がカトリックだったから、自然と洗礼を受け、教義自体に違和感とか感じることはあったけど、十年間以上教会に通っているし、それを当たり前のことだと思っていた。
でもある時、サークルの予定や友達との約束が尽く教会の礼拝やイベントの日程と被り、全部潰れた時があった。社会にとって日曜日なんて土曜日と変わらないんだから、そういうことは昔からよくあったし、普通だと思っていた。でもなぜかその時はこういう考えが浮かんできた。「なぜ僕は自分のやりたいことを捨ててまで教会に行ってるんだろう」と。その行為を信者たちは「神への犠牲」として尊ぶ。でも犠牲にして何かあるの?色んなこと要求されるけど、そもそもカトリックの信者やってて良いことあったの?そこから僕は自分が宗教を信仰する意味を考え直すようになった。
確かに僕の倫理観はカトリックの教義によって培われたものかもしれない。でも宗教持ってなくても素晴らしくて尊敬できる人はたくさんいるし、むしろ神父なのにクソみたいな性格の奴だっている。正直聖書の言葉なんか一度も心に響いたことないし、それよりも自分が人生の中で生み出してきた言葉のほうが自分をよく支えている。神を信じないと地獄に堕ちるって言われても、死後のことなんて知ったこっちゃないし、ほらっ、宗教が無くても十分幸せに生きられるじゃないか。結局宗教の主な役割ってコミュニティの形成だし、僕が信者を辞めないのも、家族や今まで教会で培った人たちとの関係を壊したくないからなんだろうなと思う。多分海外で一人暮らししたら教会行かなくなるよ。
まあこんなことを言うと、「神父様や他の信者さんに相談してみなさい」って案の定言われるんだろうけど、神父や“熱狂的な”信者ってやつは、普通の人が到底納得できない「神の言葉」を延々と振りかざすだけで、何の解決にならない。多分神の言葉を万能だと思ってるんだろうな。本当に絶望している人には神の言葉なんてこれっぽっちも届かないけど、まあ彼らは絶望したことがないから分からないんだろう。
そもそも信者たちはこういうことを考えること自体を「神に背くこと」として忌避する。まあそれでもいいけど、そんな思考停止状態じゃ普通の人たちに神の言葉なんか伝わるはずないし、教会の先細りは決まってるようなもんだよね。