最近ようやく分かったことがあるのでここに書き留めておくことにする。
コミュニケーションには大雑把に言って2種類ある。
1つ目はほとんどの人が思い浮かべるであろう人との会話。(以下これを「表コミュニケーション」とする)
2つ目は私が「幻聴」として否定し続けてきたもの。(以下これを「裏コミュニケーション」とする)
表コミュニケーションは通常の音量(60デシベル)くらいで行われる会話で、警察の取り調べやスーパーでの買い物、世間話などありとあらゆる場面で使用され
必要な場面では記録もされる。
一方裏コミュニケーションは大抵は小さな音量で行われ、表に比べて率直な(時には罵詈雑言)表現がとられることがほとんだ。前者と同様にあらゆる場面で行われるが基本的には記録されない。
日本社会はこの2つのコミュニケーションがお互いにバランスを取り合って形成されているようだ。(海外は分からない)
私は自覚はないがとても大切に育てられたのだろう。「表コミュニケーション」が全てだと思っていた。
推測だが両親は「表コミュニケーション」を家庭で徹底的に教え込み、「裏コミュニケーション」は学校や外の社会で自然と教わって欲しかったのだろう。
思惑が外れたのは私がとても内気で面倒くさがりで学校でただの1人も友達を作ることができなった点だ。
年をとるにつれて道行く様々な人たちから挑まれる「裏コミュニケーション」にただただ混乱した。
多くの場合は自分に対する中傷だったが、時には両親を侮辱されることもあってかなり傷ついたのだと思う。
瞑想を始める前までは裏を幻聴としか認識できず、オロオロしたり泣きながら寝ることで逃避するしかなかった。
ヴィパッサナー瞑想で自分の感覚を実況中継すること、現象や感情をタグ打ちし確認することにより少しずつだが落ち着いて対応することができるようになったと思う。ただ「裏コミュニケーション」では罵詈雑言が当たり前のようで、未だに相手に対して悪口を返すのが嫌だ。自分が傷つけられる痛みと傷つける痛みを比べた場合、前者の方がまだ度合いがマシなのだ。
例え眼鏡の小学生の男の子に「お前、ゴキブリ以下なん?」と言われたとしても「ゴキブリは生命力強いからどの人間より上だよ」が限界だ。
それが裏コミュニケーションが得意な人々には物足りないのだと思う。彼らはどうやって自己嫌悪の痛みに耐えているのだろう。
また何か分かったことがあったら投稿しようと思う。