「やりたいことがない。」
そういう人が居るのは事実であり、その悩みもなんとなくは分かる。
だが自分の悩みは少々ずれる。
「やりたいことはある、でも成し遂げる前に挫折する」
そう、やりたいこと自体は色々浮かんでくる。
しかし行動に対して成長速度が思わしくない。
停滞も失敗も大事な経験として価値があるのは認めるが、何回も味わってくると断念したくなる。
他者と比較したり、短期的な期待を持ちすぎなのかも知れないが、出来ない自分を見ていて楽しめるほど強くもない。
出来ないという表現に指摘されるのは、「調べればわかる」「ググれ」のようなものがある。
検索すれば、ありあまるほど手に負えないほどの情報を得る事が出来る。
ただ、情報があったところで成長に直結しない事を痛感する部分でもある。
例えば自転車に乗る為に、「自転車の乗り方」を学んでも乗れるようになるわけではない。
自転車に乗る為には、自分の筋肉をコントロールする感覚が必要なためだから。
ペダル外して蹴り続ければ早く乗れるとか理屈を学んだり、練習していれば「いつか」は乗れるようになるだろう。
模範解答をそのまま書き写すだけで正解・成長というなら、情報あふれる現代は素晴らしい答案閲覧時代だ。
ここは教科書にも載っていない、自分で経験しないといけない部分。
言語化できない感覚的内容を、脳にたたき込めるようになれば問題ないのだけども。
情報を入手したものの、この段階で整理が出来ずに成長が繋がらない。
「成功者は辛い過程の中でも諦めなかった者だ。」みたいな言葉を聞いたりする。
しかし当事者として、先が見えない現状を継続する執念が持てるか?と言われたら心はゆらぐ。
「これを続けるべきなのか、やめるべきなのか。」
場合によって不向きであり、諦める方が賢明な場合もあるわけで。
その結果、現状よりも興味を抱いたものに移る。
この繰り返しに自分は迷い込んでいる。
「やりたいことがない」という言葉は、「実際やりたいことはあるけど、必死になれるほど執念を持てない」という気持ちなのかもしれない。
そして執念を持つにしても、自身の行動をどこまで信じたらいいのか、諦めたら良いのか。
ただ信じるだけじゃなかなか目標を達成できないよな。 ノートにやるべきことや気合の入った目標を書いて自分を奮い立たせてもなかなか長く続かない。 自分の部屋にいても、図書館に...