真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
私一人でルールを決められない以上、月並みなことしか言えないが、まあそれで構わないのなら答えよう。
交通機関は移動が目的なわけで、それを阻害する行為でないのだから、ヘッドホンの音漏れがダメなことに合理的な理由はないといえる。
だが、それでもいけないことだと認知されているのは、有り体に言えば「多くの人が不愉快だと感じる」からだ。
そう思う人間が一つの環境に一定数いるのならば、それをいけないことだとしてルール化される。
こうして、電車内は「大半の人にとって最高ではないけれど、それなりには快適な場所」へと近づいていくわけだ。
……どうした、そんな理由では不服か?
生憎だが、ここで君個人の「気になる」、「気にならない」にさして意味はないぞ。
「気にするな」で済む事柄ならそれは結構なことだが、「それでも気にする人間」が一定数いるからルール化されるんだ。
君が快、不快で物事の是非を判断した経験がない、というのならば不服の申し出に説得力が出てくるだろうけれど。
まあ合理的な理由があるのならば、それはそれで結構なことだとは思う。
でも、皆が皆ルールにある合理性を理解して運用しているかといえばNOだよな。
そのような側面も出てくるということだが、むしろそういう層でも運用できるようにするためにルールがあると考えるといい。
つまり、合理性があるかどうかと、それをルールとして運用するかに必ずしも関わりはないんだ。
教え子たちに説明するときは、「皆が嫌がることを出来る限り失くすことが社会を回しやすくする」とかなり噛み砕いた言い方をする。
まあ、当然その中には「その『皆』の中に含まれない人もいますよね」と聞く子もいるが。
そのときは、「『皆』が嫌がることを分かっていて、それでもしなければいけない理由がその『含まれない人』たちにあるのなら、『皆』も分かってくれるだろうし、そのルールもなくなるだろう」と答えている。