2016-05-14

[]よくある質問

真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。

Q.マナーなどのルールとはどのように決まっていくのでしょうか。

私一人でルールを決められない以上、月並みなことしか言えないが、まあそれで構わないのなら答えよう。

それを必要とする集団の総意で決まる。

このとき合理性の皆無は重要ではない。

例えば電車内でヘッドホン音漏れとかがあるだろ?

交通機関は移動が目的なわけで、それを阻害する行為でないのだからヘッドホン音漏れダメなことに合理的理由はないといえる。

だが、それでもいけないことだと認知されているのは、有り体に言えば「多くの人が不愉快だと感じる」からだ。

そう思う人間が一つの環境一定数いるのならば、それをいけないことだとしてルール化される。

これは社会を回すために大事なことだ。

こうして、電車内は「大半の人にとって最高ではないけれど、それなりには快適な場所」へと近づいていくわけだ。

ベスト」より、「ベター」さ。

……どうした、そんな理由では不服か?

生憎だが、ここで君個人の「気になる」、「気にならない」にさして意味はないぞ。

「気にするな」で済む事柄ならそれは結構なことだが、「それでも気にする人間」が一定いるかルール化されるんだ。

君が快、不快物事の是非を判断した経験がない、というのならば不服の申し出に説得力が出てくるだろうけれど。

まあ合理的理由があるのならば、それはそれで結構なことだとは思う。

でも、皆が皆ルールにある合理性理解して運用しているかといえばNOだよな。

そのような側面も出てくるということだが、むしろそういう層でも運用できるようにするためにルールがあると考えるといい。

まり合理性があるかどうかと、それをルールとして運用するかに必ずしも関わりはないんだ。

陳腐な言い方をすれば「ダメものダメ」といったところさ。

教え子たちに説明するときは、「皆が嫌がることを出来る限り失くすことが社会を回しやすくする」とかなり噛み砕いた言い方をする。

まあ、当然その中には「その『皆』の中に含まれない人もいますよね」と聞く子もいるが。

そのときは、「『皆』が嫌がることを分かっていて、それでもしなければいけない理由がその『含まれない人』たちにあるのなら、『皆』も分かってくれるだろうし、そのルールもなくなるだろう」と答えている。

まあ、ルールのもの必要性と、それを教え子に納得させるための理屈しかないが。

ルールは悲しくも不公平だが、その必要性と是非は社会が決めることだね。

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