前々からウォーキングという行為とこれを勧める人間を軽蔑しているのだが、
ではウォーキングと水泳という二つにおいてこの心象を分け隔てる要因はなにか。
それはウォーキングに比べて水泳は、目的意識を保持しやすい行動だからだ。
まるっきり経験のない状態から初めたなら、100mどころか5m泳げるかどうかも定かでなく、
時間をかけてそれなりの距離を泳ぐというだけでも、技術や経験値が必要になる。
そして人間の欲深さからなのか、練習してようやく泳げるようになれば新たな目標が生まれる。
なのでだと思うが、マロリーから「そこに山があるから」という名言を引き出した問いのような
無粋な雑念が頭から離れなくてもあまりぶれることなく僕は続けられている。
うまくおだてられさえすれば4〜5歳の子どもでも完遂できるウォーキングとはそこが違う。
ウォーキングは手軽さから、僕からすればどうしても慣例的なものになっていくような気がしてならないのだ。
その感覚は速く読むことにこだわる故に、
小説を読む時でさえ持ち前の速読術を駆使してしまう人を見た時と似ている。
とりあえず何にでもこれを当てはめようとしているような大味さとでもいうのか。
何も僕はウォーキングという行為自体が嫌いなわけではないのかもしれない。
歩くという行為に魅力を感じて楽しんでやっているならいいが、
「健康に良さそう」だとか「頭がすっきりする」という効果に期待を寄せるばかりで
内実ウォーキングという行動そのものにはさして興味がないのではないかと思わせる態度に
どうしても違和感を感じざるえないということなのかもしれない。
これまでものの勢いで何回か
ウォーキングを推奨する輩は間抜けくさいという趣旨のめちゃくちゃな投稿を行い
その大体は「ケチをつけるな」、
「御託を並べず自らもやってみたらどうか」というものばかりで
どうもウォーキングという行為自体の楽しさをそこから読み取ることはできなかった。
兎に角やってみてその魅力に気がつくことはあるかもしれない、
しかしウォーキング自体の魅力を発見することを無視した動機のうえでやれというのなら、