http://sololife.jp/article/1141
これを読んで思ったこと、思い出したこと。
僕は完璧な無邪気さの記憶を持っている。僕が邪気を身につけたのは5歳くらいの頃。
それまでの僕は序列という概念を欠いていて、他者と自分を比較することを知らず、自分の位置づけを把握することも知らなかった。
もしかしたら他者と自分の区別すら怪しいということになるだろうか。そういう無邪気の源泉、無垢さだったと思う。
おそらく大抵の場合では、5人子どもがいれば5人ともウルトラマンになりたがるもので、
それでは成立しないから誰かが怪獣役になるわけだけど、僕はそこに対して何の違和感を感じることなく怪獣役をやっていたらしい。
怪獣役をやらされたとか、本当はウルトラマンになりたかったという記憶は全くないので、おそらく怪獣役が惨めであってウルトラマンが偉い等とは思わなかったんだろう。
きっと自分の立ち位置を思う視点に欠いていて、ウルトラマンごっこをウルトラマンごっことして楽しんでいたんだと思う。
皆がやりたがらない怪獣役をやった(またはやらされた)僕という立ち位置を把握したのは、そこから数年後のこと。
幼稚園の途中で地方に引っ越した時に皆が書いてくれた寄せ書きを読み返した時のことだ。
幼稚園児の汚い文字で「ウルトラマンごっこでかいじゆうになってくれてありがとう」と書かれていたものを読んでからだ。
これを読んだ時に初めて「そうか僕は怪獣役をやっていたんだっけか」と思った。
別な話。
同じ幼稚園の運動会で、網をくぐって平均台の上を走るだけの障害物競争に出た時の話。
最初の網の下で皆がモタモタと絡まっている中、僕は軽快に網をくぐってぶっちぎりの一位で平均台にさしかかった。
ふと振り返ると、一緒にくるはずの皆が来ない。
「止まっちゃダメ!はやくはやく!」などと観客の声は聞いた。しかし皆が来ないのになぜ僕だけが走り去らなきゃならないのかと思った。
競争の意味をまったく理解しておらず、皆が来るのを待ち、次々と平均台の上を走る園児全員を見送って最後に平均台を渡った。
ゴールにたどり着く順序がそんなに重大なものであるとはつゆとも思わなかった。
運動会の後、母親に「せっかく一番だったのにどうして止まっちゃったの?」と聞かれたが、何を聞かれているのかすら
全く理解が出来なかった。失策をしたらしいが、何が悪かったのか、その時は見当もつかなかった。
そのあたりの無垢さを失ったのは、地方に引っ越した先で入った幼稚園でのこと。
方言のきつい地域だったせいで、まず同じ園児が何を言っているか半分くらいしか理解できなかった。
同じ言葉を話せないことで僕は明らかに異質な存在として浮いてしまった。
たぶんからかわれたことも悲しかったのだけど、それよりも人と人には違いや優劣があって、しかも
あの時なぜ泣いたか、今ならこうやって表現出来るのだけど、あの時は自分がなぜ泣いているのかも
僕の邪気の起源を思い返すことでこういう話にたどり着いた。
他人との比較を知らないような、そんな無垢さを失うことは仕方のない事で、
大人になった今となっては無垢な部分など残っていてはむしろ邪魔であるとすら思う。
以下、飛躍したまとめ。
まあ待てよ 怪獣はかっこいいだろ? ジオン軍のMSに肩入れする奴より怪獣好きの方が好感度高い