最近ますます増えていると話題のハイスペ風アカウント。スラッシュでそれらしいキーワードを並べてみるものの、書いてる内容は田舎の女子大生の妄想したような成金ライフ。今夜のクローズアップ現代はハイスペ風アカウントの心の闇に迫ります。
時々見かけるbioが英語で書かれているアカウント。しかしツイートを追いかけると日本語のツイートのみしかなく、一体何のために英語で書かれているのか意味が分からないと指摘されています。今夜のクローズアップ現代はそのbioは誰に向けてのものなのか、英語bioの謎を追いかけます。
「最終のご案内いただきましたが他社の選考と被ってしまったため辞退させていただきました。とても良い企業だったので残念です。」とか書き込む奴は絶対オナニーばかりしている(偏見)
女性と食事に行ったら本当に食事だけで終わった件と非モテコミットについて - 傾向 http://udon-zuruzuru.hatenablog.com/entry/2015/07/24/163012 …
このブログの人は相互フォローなので、なかなかコメントし辛いんだけど、読んでて思うのは、他者を鏡にした自己評価が行動基準になってるんだなぁという点。真に相手の事を思ってるのか、好かれたいという欲望によるのかの前に、相手の感情を自分と切り離して推察するのが欠けてる気がする。 >RT
他者との関係性に他者が存在せずに全て自己完結してしまう人は時々いますよね。
他者にどう思われてもいいやと開き直れる訳でもなく、然りとて相手の気持ちを推察するのは面倒くさい、でも好印象を持ってもらいたい、みたいなアンビバレントな思考になると、生きにくさのハードルが上がるんだろうな。
「これを言われたらキレるしかない、というポイントを持ってたほうが人間的に厚みが出る気がするし、舐められないで快適にすごせる(ただし絶対嫌われたくない人にはキレない)」というような理由でキレ地点を設定する「ファッション地雷人間」を目にするたびに、弥勒菩薩半跏思惟像みたいな顔になる。
本質的な質問は彼らが知っていたのか知らなかったのかではなく、ひとは知らないからといって無実だと言えるのか、玉座にのっている愚か者は、ただ愚か者というだけで、あらゆる責任を免除されるのかということだ《存在の耐えられない軽さ》