近年コミュ障を患う不幸な人間が多いと聞く。本来人間にできて当たり前のことが日常生活に支障をきたすほど貧相なのだとすると、ひとえに訓練が足りていないのが原因だといえる。その訓練とは、家族との会話の他にない。
健全な家族の会話があれば、コミュ障など起こりえないことがわかるだろう。大体問題を抱えるのは、子供が思春期にさしかかり口数が減ってからと相場が決まっている。そこをいかに乗り越え気まずくない家庭を築けるかは親のコミュニケーション能力にかかっているので、その後子が社会でまともにしゃべることもできないような欠陥人間となってしまうなら、それは親の過失であるといいたい。
世の中にはどうしようもない親が大量にいるけど、ここで問題なのは、コミュニケーション能力の無い親、もしくは人間的魅力の無い親。こんなのが結婚して子供を育てようものなら当然子供は不幸になる。だから俺は、一昔前のお見合い、現在でいう紹介所を通した婚活、のようなものが害悪なんだと考える。なぜならそういうものに頼る人間は、恋愛する能力に欠けた奴らだから。
恋愛というコミュニケーション能力が最も試される課程を経て結婚に至り子供を生んで、そこではじめて子供を育てるに最低限必要な力があると認められようものなのに、そういう正当な手続きを経ずして、ただ結婚とかいうものをしたいが為に相手を拾って一緒に住むという形だけを取った結果、形ばかりの子供が出来上がるのは至極当然の顛末ではなかろうか。
親のせいばかりにせず子の自発的行動にもっと追及しろという意見があるかもしれないが、青年にとって、何の魅力も無い人間との会話は苦痛でしかなく、そのように最も身近で安心感のある訓練の場(=家庭)でまともな練習台がいないことが、やはり問題なのだと思う。
お見合い結婚する人間が全てダメな人間だとはいわない。(ここでは現代日本の都市部という前提で話を進めている。)けど相手を見つけ関係を進展させていく能力があるなら、お見合いだとか婚活だとかいう制度に頼らないでほしい。機会がなくて結婚できないなら、できなくていいじゃないか。(そもそも「出会いがない」というのも言い訳に過ぎなくて、本当に望むなら、ところ構わずアピールすればいいだけなのに。)結婚しなければ、という強迫観念があるとすれば、それこそクソだ。もうそんな時代じゃない。
歪んだ形で結婚なんかされると不幸な人間が増えるだけだ。百歩譲って、どうしてもパートナーが欲しいというのであれば、結婚なり何なりすればいい。けど子孫を残そうとはするな。静かに死んでくれ。不幸な人間を増やさないために。
コミュ障の俺ですが子供作りました。
こどもがかわいそう
君のご両親も、さぞかし…