ごっちゃになっているようだけれど、以下の2つは分けなければいけない。
・原発問題の解決を目的として、天皇陛下に手紙を渡したことの評価
「天皇陛下に手紙を渡したこと」は、失礼とかマナー違反とか言う意見はいろいろあるかもしれないけれど、少なくともおおっぴらに批判できるようなことではない。なぜなら、日本国憲法下で、天皇に手紙を送ってはいけないという結論は導き出されないから。むしろ、この行為に対して懲罰を与えてしまうと、日本国憲法の矛盾や、天皇制の矛盾とかそんな話をあぶりだすことになってしまう。右翼的な思考の人たちは、「そんな失礼なことをする人間は国会議員の資格なし」と言いたいところだろうが、「アホだな」ということでスルーするのが良い。というか、現状の天皇制の維持を前提に考えるなら、それ以外に選択肢はないはずだ。
一方、「原発問題の解決を目的として、天皇陛下に手紙を渡したこと」については、意味がないとか、天皇の政治的立場に対する配慮がないという批判も成り立つだろう。そこら辺の見識のなさについては批判されるのは当然かと思う。ただ、これを「政治利用」というのはちょっと違うのではないか。なぜなら、「利用」というのであれば、利用する側にもそれなりの権力、あるいは実行力を伴うことが必要であって、単に手紙を渡したことを政治利用というのは難しい。言えるのはせいぜい、「政治利用の意図が込められている」くらいだろう。
むしろ、具体的な政策は立法や行政の役割だと認識した上で、それを超える超越的な力を天皇に求めていたとしたら、それは「政治利用」だろうか?実質的な意味を持たない「利用」であれば、それは批判されるべき「政治利用」ではなく、むしろ、「思想・信条の自由」の範囲ではないかという見方さえできる。政治利用という批判は、、「天皇には実質的な力などないと割りきった上で、政治に利用する」自民党の政治家たちに向けられるべきで、山本太郎に向けられる言葉ではないだろう
こうして「超越的な力を天皇に求めているように見受けられること」は、自分が山本太郎の行動に同意できない最大の理由でもある。有権者と、政治家という関係で言ったら全く支持できない。しかし、それは同時に、山本太郎の行動は、政治家が個人的に靖国神社に参拝することが「思想・信条の自由」として肯定されるべきであると思うのと同じ意味で、肯定されて良いということを意味している。ここで「肯定されて良い」というのは、あくまで懲罰の対象とするべき問題ではないし、無条件に袋叩きにされるような性質のものではないという意味においての「肯定」だ。「俺はお前の言うことに同意できないが、俺はお前がその発言をする権利を命がけで守る」のと同じ意味での「肯定」と言ったら分かりやすいだろうか。
山本太郎の行動が、いろんなところで批判されていること自体はもっともだし、もっとやれば良いと思う。ただ、批判の方法を間違えないように。「天皇に手紙を渡すなんて失礼」という人間と、山本太郎と、どちらが、天皇の偉大な力を信じているか・・・、そんな非生産的な議論に首を突っ込むのはゴメンだ。
馬鹿すぎるだろ。 まず、彼があそこに入れたのは国会議員だからであり、また、あの場にはそのような行為を行わないことを前提で招かれている。 「そのようなこと」とは「園遊会を...
どうでもいいけど山本陣営も最悪逮捕されるくらい想定してやったことだろうから そのへん喚いてもあんまり意味無いと思うがね もしおまえの主張が通っている未来が存在しても、状況...