2012-04-15

鬱になって、自分を振り返り再構築する作業の一環として。


思い出せる最も古い過去は、保育園の最年長で4月に挨拶をしている場面だ。

みんなと同じものを手にしていたので、そのころは何も考える必要はなかった。


小学校低学年では学童保育に通っていた。

学童保育が終わってからと土日の遊びでは違いを認識させられた.ファミコンはなかった、自転車はなかった、お菓子は買い置きされてなかった。

お小遣いは2週間で100円ぐらいだったと思う。お年玉はなかった。親戚もくれなかった。でも金銭的な違いは決定的ではなかった。


高学年になると学童保育がなくなり違いを思い知らされるようになった。

新しい遊びが流行るたびに寂しい思いをした。新しいおもちゃゲーセンでのゲーム、買い食い。すべて見てるだけだった。

金銭的な違いを認識するようになった。

友達は新しい遊びを覚え成長をしていった。私は成長してはいけない感覚に縛られていた。成長するにはお金がかかるがお金がなかったから。


中学校入学した。息をするのが生きていることだと思うようになった。

友達と同じ活動をできないのが辛かった。

部活時間は、違いをあまり意識させられなかったが、服装、道具に差がついていた。あきらめていた。

オタクの知人とスーファミをしているときけが同じと思えた。


高校に入学した。意見を持つのをやめた。考えるのをやめた。

ただ授業を受けるだけだった。郵便局バイトしてゲームを買うだけだった。

このころまでに同級生と共有できる過去現在がまったくなくなっていた。

流行音楽趣味カラオケ、帰り道の買い食い、ファッション


大学入学した。過去にあった事をすべてを忘れるようにした。

このとき出会った友人は衝撃的だった。彼女がいて、休み旅行に行って、おしゃれな服を買い、自分の意思で自分の行動を決めていた。

そのころの私にはもはや意思がなかった。行動がなかった。


就職し何年かがたち、私が出会う人はどんな人でも自分で判断し、行動しているように思えた。

自分が情けなく感じるが、どうすればいいかからなかった。

時間が流れるままなるようになると思って生きてきた。

嫌なこと良かったことすべて忘れて生きていけると思ってたのに!!!

鬱になった。

で、人生を振り返って幼少時のハンディはもうないと、

自分で納得いくまで思い出して認識を変える努力をしている。

頭が痛く辛いぜ。

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