はてなキーワード: 内務省とは
http://d.hatena.ne.jp/Tez/20080928/p1
事前交渉どころか説明すら存在せず、補償内容まで未定の状態で計画が発表されたとしても、それに反対するのは「公共の精神」に欠ける振る舞いだと信じているなら、中山大臣の「公共」という言葉は、おそらく現代日本のいかなる辞書にもその典拠を求めることができない概念である。
ここにはまったく同意なんだけど、最初こじれるのはともかく、説明や補償の問題なら、そんなにいつまでもこじれてる必要はないでしょ。苦労して開墾した土地なら愛着もあるだろうけど、その分ちょっと色つけた補償で本来はケリがつく話じゃないんですかね。
ちょっと探して見つけた徳保さんのコメント(転載しちゃいますが、ほとんど徳保さんのコメントなので構わないでしょ)。
http://bewaad.sakura.ne.jp/20060712.html
◆ 徳保隆夫 (2006-07-12 13:31)
現在も成田に本籍地を置いている者としては、kumakuma1967 さんの発言には異論あり。常に市議会は圧倒的多数が空港建設推進派だったのです。つまり地元の強い要望があって建設された空港だった。70年安保に敗れた左翼過激派が成田を最終決戦の場に選んだ不幸はありましたが、土地の強制収用に国民の大多数が NO といったことが全てでした。本来なら、4000mと3000mの滑走路2本(+横風用1本)を擁する空港を安定した地盤の上に安価に作れたはずなのですが。東京-成田間は本来、新幹線を通すはずだったのですし。計画段階では、そう悪い空港じゃなかったと思う。
◆ kumakuma1967 (2006-07-12 15:44)
富里と霞ヶ浦で用地取得が困難になる前は候補地ですらなかったのでは?>成田
◆ 徳保隆夫 (2006-07-12 17:51)
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa40/ind110303/004.html
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa41/ind110302/002.html
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa42/ind110401/003.html
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa43/ind110401/003.html
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa44/ind100401/003.html
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa45/ind100301/003.html
成田と富里は隣接しており、地形的にも連続しています(北総台地)。富里村付近が最もよい、という答申に沿って現実的に検討を重ねた結果と私は認識しています。運輸白書の記述もぜひ参照してください。大半の住人が空港建設に協力し、またそうなることが期待される地域として成田が選ばれた事実が理解されると思います。
◆ kumakuma1967 (2006-07-12 19:17)
この場合何が現実的に不可能だったかというと用地買収と地元自治体の同意ですよね。土木的検討まで済んだ後で「候補地でなかった」成田に決定したのは、千葉県が「県有地と国有地がほとんどになるような場所」として推薦したからです。
また、三里塚が近代的開墾地で、経営面積が大きく地権者数が少ない事も重視されていたかもしれません。
個人的には地権者がごくごく少数派である地元自治体が、地権者を無視して諸手を上げて賛成した事こそが、地権者の孤立感を深め、左翼過激派の介入を招き、開業までの金利負担をふくらませ、「内務省がまだあったらもっとうまくやっただろうに」なんていわれちゃった一因のような気がしますよ。
もちろん、私がその時意思決定可能な立場にあったら「より不幸でない選択」ができたなんて思うほど自信過剰ではありません。参考にすべきところはあるということです。
◆ 徳保隆夫 (2006-07-12 19:59)
成田の地権者の大半は空港建設に協力的な集まりを結成して、早期に交渉妥結しています。孤立感を深めた一部地権者が過激派の介入を招いたとのことですが、過激派が最初は甘言を弄して入り込み、間もなく「裏切りは許さない」と脅迫して運動を乗っ取ったというのが実情に近い。反対闘争のトップに祭り上げられた人々は本気で過激派に共感してたそうだけど、多くの反対農家は、まさかこんな闘争になるとは思っていなかった。絶対反対は不要、条件闘争で十分だったのです。
行政に失敗はあったけれど、何より一番悪いのは過激派だと思う。そして脅迫下の反対農家が「空港建設絶対反対」というしかないことを伝えず、強制収用を非難したマスコミも許し難いです。強制収用は多くの反対農家を過激派の支配から救う手段でもあったのに。内務省云々は、そうした事情を指していった言葉でしょう。
元一坪地主の小川國彦前成田市長が、過激派から脅迫されながらも空港建設を推進していった、その過程から真実が読み取れるものと私は思っています。過激派が展開した成田闘争こそ(多くの)地権者を無視したものだったのだ、と。
http://anond.hatelabo.jp/20080104152338
そりゃそうだろ。攻める側はとりあえず目標達成したし、攻められた側もとりあえず戦闘は終わったし。
ほっとするのが自然だろ。
十分には知らなかったろうけど、少なくとも自らに不利な言説は取り締まっていたよ。
1937年7月13日、内務省警保局図書課通牒「時局に関する記事取扱に関する件」
・「反戦又は反軍的言説を為し、或いは軍民離間を招来せしむるが如き事項」
・「我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事、或いは我が国の対外国策を侵略主義的なるが如き疑惑を生ぜしむる虞ある事項」
・「外国新聞、特に支那新聞等の論調を紹介するに当り、殊更に我が国を誹謗し、又は我が国に不利なる記事を転載し、或いは之等を容認又は肯定するが如き言説を為し、延て一般国民の事変に対する判断を誤まらしむる虞ある事項」
2番目が大きいよね。
これではそりゃあ、そういう記事しか載せられないと思うよ。
読み:にほんのかんりょう
日本において行政の中枢をになう中央省庁なかでも上位の役職にある人々を指す。通常、国家I種をパスし、キャリアとして入省した人々である。彼らは出世競争により一部が高級官僚となり、最終的に一人の事務次官を生む。さらに、その経験者から各分野のトップが生まれる。基本的に東大法卒である。
内閣官房副長官(事務担当)は各省庁の官僚トップが出席する事務次官等会議を主催する、官僚の頂点の一つである。慣例的に旧内務省系の事務次官経験者から任命される。
司法を司る国の機関は三権分立の精神により独立性が高い独自の体系を持ち、法層界の頂点を形成する。
他省庁と違い他国にて活動する外交官にはさまざまな特権が与えられ、また、国内の政治力もおよびにくい。さらに、大国の大使ともなれば政治家に勝る発言力が生ずる。
独特の地位をもつ。
著作権関連調べて昔驚いた話。
JASRACのビジネスモデルはドイツ人詐欺師から学んだものだった!
1931年に、旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが、主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立した。そして放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。
日本は1899年にベルヌ条約に加盟し、著作権法も施行されていたが楽曲を演奏(いわゆる生演奏の他に録音媒体の再生も含む)するたびに使用料を支払うという概念は皆無であった。プラーゲの要求する使用料が当時の常識では法外であったことや、その態度が法的手段を含む強硬なものであったことから、事実上海外の楽曲が使用しづらい事態に陥った。日本放送協会は契約交渉が不調に終わったことから1年以上にわたって海外の楽曲を放送できなくなった。
一方でプラーゲは、日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができず、日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。
この事態を打開するため、1939年に「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)が施行された。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るというもので、同年 JASRAC 設立、翌年1940年に業務が開始された。これに伴いプラーゲは著作権管理業務から排除され、同法違反で罰金刑を受けて1941年離日した。
これら一連の事件は「プラーゲ旋風」と呼ばれ、日本における著作権の集中管理のきっかけとなった。
こうした経緯から、文化庁は JASRAC をはじめ4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めなかったので、音楽著作権の仲介は JASRAC の独占業務となった。
ドイツ人の先輩からタカリのシノギを奪い取ったとかそんな感じの話。