プロアマ問わず、日本の野球経験者は現役引退後の生活でも、野球に固執する例が多い気がする。固執と言っても全く過言ではない。プロ野球や甲子園に注目したり、草野球を続けたり、あるいは部活動や少年野球のコーチになったりする人らが、野球経験者中で数でも意識の上でも優位に立っているような。現にわたしが野球の呪縛から逃れられていない。なお、ここでの野球とは日本での野球を指して、アメリカその他の国々における野球ではない。またここで示す見解は、裏取りや検証を全くしていない、一人の想像であり譫言の域を出ない。
振り返ると、野球競技従事者には「一筋に打ち込む」ことの正義が支配的で、プレーヤーには「生活中では野球第一を是とする」思想を植え付ける傾向にあった。それが上達には必須であるからと。
全体練習中にサボるのは良かったが、部活を休むのは悪だった。授業中に寝るのは良かった(むしろ褒められる視線を受けた)が、移動教室の廊下で対面する監督や先輩に立ち止まって挨拶しないのは絶対悪だった。ああこれは全体主義だ……。
それを自覚しなかったから、引退後もずっと頭が野球から抜け出せない。野球に限らず他のスポーツ、延いては人が従事するあらゆる対象でこの現象はあり得、対象にのめり込む程その色は濃くなりやすいだろう。しかし野球は特別、競技の科学的分析とは別個に、コミュニティ内の人間関係において、個人的意思(≠個人主義。日本にあって、最終的な辞める辞めないの自由はあったので、個人主義を許容していないとは言えなかった。ここではコミュニティ内で意思を表明するフェイズにおいて、個人的な意思の芽は摘まれていたことを指摘したかった。)や相対化を拒む文化が根差していて、否定は罪な風土があった。同期は仲間であり、後輩は慕い、先輩と監督とコーチは畏敬する人間であるとの認識が正常とされている。
その文化の洗礼を受けた頭が無意識に後進を指導するので、界隈が全体主義的に規定され、その影響下にわたしもあったのだとすれば、このふとした拘束感に合点がいく。
この仮説が正しければ、宗教的意識に無頓着である点でこの野球教は悪である。
一つ厄介事があるとすれば、それは野球を競技的に極めようとすると、この全体主義的思想は有効であると証明されている点である。事実、日本の野球の強さは世界屈指ではあり(競技国や競技人口が少ないので正しさの更新を望めていない問題はあるが)、世界的名選手すら輩出している誇りがある。
しかし国内の競技人口は減少し、またSNSの隆興や欧米発の自由主義的な価値観の流入などで、指導方法のアップデートが強要されている今日、これまでの正義が変容の岐路に立たされているのは間違いない。