はてなキーワード: ほのかとは
先日「テレ東旅の日」で太川陽介のバス旅を見ていたら前編のゲストが村井美樹だった
もう一人のゲストはこの人アフガンハウンドにそっくりだなと常々思っている長髪の関西ジャニーズの人で、
その人の言葉につられたのか村井さんが普段の標準語とは違うばりばりの関西弁を話していて初めて村井さんが関西の出身だということを知った
太川さんには標準語で受け答えしていて、そういう使い分けのできる人でもつい顔を出してしまう生まれて育った場所の言葉の強さを感じた
私は北海道札幌市に生まれて今まで住んでいるが、錦鯉の長谷川雅紀が東京に長く住んだのちの今ですら朴訥な北海道弁のイントネーションで変わらず楽しそうに喋っていることへの好感がほのかにある
GERAなんかを聴いていても○○でないの、○○っしょー!って本当に自然に出るんだねあの人は
かなり年齢を重ねてから上京したからだろうか、方言があまりにも自然すぎてあたりまえすぎて標準語の上書きをされてもその下からくっきり浮かび上がって、結局それがそのまま表面になっているという感じだ
こういった場面を見るにつけヤーレンズ楢原の異質さが浮かび上がるような気がする
ネタや上京の理由に直結する部分だから、言葉に対しての覚悟や強固さがよりあるのかもしれない
コンビのインタビューでそのあたりについて語られたりはするけれど、ネタや動画の中ではそのあたりをあまり感じさせない飄々さとやのらりくらりとした感じもいいなと思う
これ気になってドラッグストアーで件のポテチを、ローソンで無印てんさい糖ビスケットを買ってきて実際にやってみたけどおいしかったわ
てんさい糖ビスケットのほのかな甘みにバターっぽい香りの独特の甘さと塩気と油が加わってパンチのある味になったし食感もポテチの固め厚め+ビスケットのサクサクの軽さの違いで食べごたえ出る感じ
ビスケットプレーンとココアとあるけど、プレーンのに合わせる方がおいしいよね
山登りやめてずいぶん経つけど、これ自分でミックスして作る行動食にするとかなりよさそうだなと思った
焦って受け止めたが、非力のためずるずると2人とも床にへたり込む。私がクッションになったから、女性は頭は打ってはいないはず。顔は真っ青、話しかけても反応薄い。
近くの乗客が緊急停止ボタン押そうとしたから、駅の途中で止まると逆に時間食うからこのまま次の駅で降ろして救護呼んだ方がいい、駅に着いたら降ろすのを手伝え駅員を呼べと叫んだ。
女性が落としたスマホを本人の鞄の奥に押し込んで、後はもうすぐ着くから大丈夫だ!と肩を抱いて背中をトントンした。ちょい頷いてるようにも見えてたから意識はあったのかな。
駅に着いたら、近くのおっちゃん達がパッと集まって力を貸してくれて、みんなで抱えてホームのベンチに座らせた。
他の女性客が自分はこの駅で降りるし、救護への引き継ぎやりますと声をかけてくれたので、甘えてあとはお願いしますと車内に戻った。そのまま電車はすぐに出発。
この対応でよかったのかな。
追記:地味に興奮して寝付けないのです。
人が倒れるなんてあんまないことで驚いたし、
私は女だけど、若い女の人を抱きしめるなんてそうないシチュエーション。私のコートにほのかにうつり香がついて、そっきにもドキドキしている。
コロッケのタネをつまみ食いしながら、ふとこれはパン粉をつけて揚げる必要があるのだろうかと思った。
熱々の衣にザクリと歯を立ててかき分けた先にあるものは、揚げたとてあんまり変わらない気はする。
ただでさえ糖質の塊だというのに、それを更に揚げる事で上乗せされる不健康度と満足度の上昇度合いが釣り合っていないのではないか。
それではコロッケではなくただの挽肉入りマッシュポテトではないかとも思ったが、おれにとって衣のサクサク感や油っこさはコロッケの美味しさにとってさほど重要な部分を占めない。タネと衣が口の中で混ざりあった時の食感と味わいに重きを置いている訳でもない。
唐揚げなら揚げるしかないだろうという無二の存在感があるけれど、コロッケにそれがあるだろうか。実はおれはコロッケではなくマッシュポテトが好きだったのではないか。ジャガイモと玉ねぎの甘みとほのかな塩味、時折感じる挽肉の風味。それだけではややまったりとしすぎる所にソースの刺激を与えればもう完璧だ。
まあでもソースドバっとかけて飯のアテにするには、確かにハッシュポテトよりコロッケの方がしっくりくる。
こち亀で読んだ、ソースをかけまくって平たく潰し、チビチビ食いつつ飯を沢山かき込むという両さん流の食い方になんとなく憧れを感じて未だに真似している。あそこまでは潰さないが。
しかし餃子と同じでコロッケもおかずというよりは単品で完結している料理な気もするし、わざわざ飯と合わせなくとも良いのではないかという気がしなくもない。まあそんな擦られまくったような話をする奴は死んだ方がいいのであまり気にはしない。お好み焼きでもシチューでも合わせたきゃ合わせればいい。
手もとが寒いのでカイロを握りしめて救えなかったものの儚さをお風呂でのバブのように消えてしまうような温かさです。
寒さより一層増してきてやっぱり室温が15℃を下回ると寒いわ!
つーか手がかじかんでキーボードが打てない方が支障きたすので、
手が冷たい方が私は嫌だわー。
それでさー
給湯室のポットのお湯!
使ったらなくなって減ってきたら水を補充してくれる人がいなくて、
私がだいたいいつも貧乏くじを当てまくりまくりまくりすてぃーで
いつも水補充係!
補充してもすぐにお湯にはならないから
本当は補充したあとの次の人が本当の貧乏くじかも知れないわ。
お湯じゃなくて水が出てくるんだもん。
大きなポットのお湯運用4リットルとかもっと大きなポットにしておけば良かったと思うのよね。
でね、
前言ったかも知れないけど
言ってなかったら初めて言うけど
この今使ってるポット空焚きしちゃって1台こわしちゃったのよね!
こわれかけのなんとかよりもタチの悪い本当に壊してしまって。
これはさすがに自分で買い直したけれど、
その時はそんなにお湯使う人がそんなにいなかったシーズンだったので
同じ2リットルクラスの容量のポットでいいかなーって思ってそれ買ったのがケチったのが間違いだったわね。
この際大きな容量のどーんと買っておけば良かったと思う後の祭り。
ポット空焚き注意!って心に決めたその時のことを忘れないように!って戒めのためにも大きな容量のものを勝っておけばよかったわー。
やっぱりさー
お湯ソリューションってあるわよね。
家は瞬間湧かすティファールとかのやつはあるんだけど、
あれ保温が出来ないしお湯が沸くまでそばに付いておかなくちゃいけないじゃない。
大量にもお湯が沸かせないし、
かと言って
ヤカンや鍋で大量にお湯を沸かすと言えども
となると私がゲーム中なり家事中なり出掛けてお買い物に言っている最中でも
安全にお湯を沸かしてくれてキープしてくれる温度を保ってくれるのは
電気ポットかなーって。
そのお湯が沸いている時間を付きっきりでコンロの前にいる時間ももったいないほど時間を無駄にしたくないそれは日々のゲームに費やす時間として捻出したいわけでもあるのよね。
そうなるとさー
そう考えるとお湯を沸かしている時間を積み立てて考えるとポット買った方が有効に時間が使える様な気がして、
あーポット欲しいなーって大容量のやつって思うのよ。
お湯があれば冬が幸せに暮らせるヒントがあると思うし、
お湯があったらあったで
いろんな使い道ができると思うのでクオリティーオブライフが上がるとも思うのよねー。
たとえ1ミリでもって思うし。
うーんここのところずーっとポットを欲しがっているので、
考えちゃうわね。
でも大きなポットは憧れるわ!
ポットだけにぽっとどこから出てこないわよねー
うふふ。
温めてウインナーがプリンプリンといい音を立てて弾けてじゅわっと肉汁が広がって
それをパンが受け止めて
さらに美味しいピリリと効いたマスタードが良い仕事しているのよね!
ボリュームこそは無いけれど
食べ応えは十分あるし、
かと言って少なく感じることもない
甘み入らないので
ちなみにホッツ白湯ウォーラーはティファールで湧かしているわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
若い頃、陰キャおじさん(30~40代)とばかり付き合ってきた。※30~40代は当時の私にはおじさんだった。
なぜなら同年代の男の子と付き合うと別れた時にダメージ食らうから。おじさんとゲーム感覚で恋愛したほうが楽しくない?と当時思ってた。
私の元カレに限った話なので、これを読んでいる方は自分に重ねる必要はないよ!
出会いは覚えてないけどキャバクラでバイトしてた時の客だったはず
基本的にキャバクラの客に対しては、どんな変な人だろうが 金払って女と酒飲む場所にわざわざ来てる人だし、いちいち特別な感情を持つことは少ない。
ただ、このおじに関しては指名してくれて数回飲みにきてくれて、オタク趣味も合ったし、ぬいぐるみみたいな感じの人だし、男って感じしなくて安全そう!という印象だった。
今でこそ「ぬいペニ」という言葉があるけど、逆に「ぬいぐるみがどうやって射精するのwwwギャグだろwww」という興味から惹かれていった。
ずいぶん昔のことなので、名前すら覚えていないが、たしか30後~40代だった。 ずんぐりむっくりでかなり太ってた。油ぎってるけど肌が乾燥で荒れている。小売店勤務。
身長おそらく150~160cmくらい。
私と付き合ってすぐに オンラインの友達に「俺、19才の彼女ができたんやでぇ、俺は27才(嘘)なのに19歳の彼女かわいいでぇ」と自慢していた。
私は「うわぁ・・・・・彼女自慢したいからって、相手探してまで、年齢偽ってまで言いふらしてるんだ・・・・
わざわざ10代のグループ探してskypeで接点持つところも気持ち悪い!
でも、この人、友達がいないんだァ・・・・・!!!かわいそうな人だァ・・・・・!!!どうしてかわいそうな人になっていったのだろう?」と、ドン引きしつつ探究心が湧いた。
このおじはニコニコ動画の生配信を見るのがとーっても好き。休みの日はほとんどそうして過ごしているそう。
ときどき配信もしていたようだった。私はあまり興味なかったが、おじは一緒にニコニコにハマってほしいみたいだった。
ニコニコをノートパソコンで表示させて、私に画面を見せてきて、「エロい目で見てるわけじゃないんや、この子とかめっちゃ面白いんやで」と、中学生の生活配信を見ていた。
驚くのが、私だったら、そういうプライベートな趣味は隠すけど、このおじは私に紹介してきて、
この趣味に理解をしてほしいようだった。なんなら、そういう配信活動をしてくれない?そしたら絶対伸びるからさ。ちょっとセクシー系のアイコンにしたら、すぐ人気出るよ。と打診された。
当時19才の私にニコ生の配信を勧めるおじ・・・・。今ならキモいと思うのかな?でも当時は「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」って思ったね。イカレてるほど面白いと思った、※ただし、安心して見下せる範囲内に限る
このおじは、パソコンを買い替える時に私にお古のパソコンをくれたんだけど
「俺のPCの中身気になるでしょ?特にやましいものはないから、そのままあげるで。」と、データ消さずにくれた。
「写真とかあるから見ていいでぇ。全部見たら、俺が今まで彼女いなかったってわかると思うでぇ」と言ってた。※私が「◯◯くんって、彼女ほんとにいないの??話しが面白いよね、モテそうだよね。私のこと、遊びでしょ?」って度々言ってた前提があっての上記のおじの発言です
わたしと同じ2ch専ブラ使ってたので、書き込み履歴見たら履歴が消してあった。でもファイルを探したらログが残ってて、JK配信者の2chスレでパンツ白いとか太ももがいいとか書き込みしてた。くぅ~~~~~~!これがやりたかったんだ!
このエセ関西弁おじ、わたしがあまりに好き好きアピールしちゃったもんで、「なんで俺に若い女が近づいてくるんや!?」と警戒しており、5回くらいセックスした後に思うところがあったのか
コンビニの駐車場で「これ、俺のキャッシュカード。暗証番号は1234。俺の代わりに三万円おろしといてや」とカードを手渡され、「・・・・?もー、めんどくさがりだなー」って思いながら、三万円おろしてきてあげたら
おじ、めっっちゃドヤ顔してる。勝利宣言!いかにも、これから勝利宣言します!って感じだった。
このおじは私のことを◯◯タンと呼んでいたのだが、
「これでわかったやろ?◯◯タン、俺の財産を狙おうったって無駄や!」 「俺の預金残高見たか!?」 「金ないんやで俺は」 「ほんとは金目当てで近づいてきたんやろ?がっかりしたか?・・・もう会うのはこれが最後?」ってヘラヘラ言ってた。
ギャグでやってんのか本気でやってんのか測りかねていた私が、??????ってなってると
このおじはドヤ顔から ちいかわみたいな顔に変わっていった。「・・・・・・そう」って言いながら、もぬけの殻状態だった。
この時までは結構好きだったのに、この試し行為?で私のほのかな恋心が興ざめして、「こいつから搾り取ってやるぜ」とハンターモードに変わった。※実際は搾り取ってないよ!
ちなみに、銀行の残高は80万円だった。
私がコンドームつけるように言ったら「ゴムつけるのはええで。でもなんでそんなに妊娠を警戒するんや? もしかして堕ろしたことがあるん?」と言ってきた。
その時に 「いや、ゴムつけるのが普通でしょ。むしろそっちが警戒してるよね・・・?」と言ったら謎にしどろもどろしてたので、話を聞いていくと、
この関西弁おじは過去に人妻と不倫していて、その人妻が妊娠しちゃって、内密におろしたことがあるそうだった。
「もし私が今妊娠したらどうすんの?」って言ったら
「いや・・・なんか・・・妊娠するつもりがない気持ちでセックスしてたら・・・妊娠しないって思ってた・・・」ってしどろもどろしてた。
このおじはミニペニだったので、確かに射程は短い感じではある。そういえば、同じようにゴムつけなかったミニミニペニおじが過去にもいたな・・・。ミニペニおじってそういう思考になるもんなのか・・・?
このエセ関西弁おじ、高卒で入社した会社に勤め続けていて、はじめ地方店舗勤務だったけど、昇進し本部に配属になったそう。でも2年で降格させられて地方勤務に戻されていた。
その降格辞令メールを読んだエセ関西弁おじは「降格になったよぉおおおおおうわぁぁぁぁぁあああああああん」って私の膝枕でガチ泣きしていた。
私は内心(架空の出張でっちあげてサボって観光とかしてたじゃん・・・一生懸命やってなくても、泣くものなのか)
(しかもその観光地の動画をニコ動にアップしてたじゃん・・・毎回それやってたじゃん・・・)と思っていた。
他のおじと並行して付き合ってるのに勘づいたようで自然消滅した
試し行為がひどかった。初セックスする前から あんた痩せたら?とか、頭悪いね、等の暴言を吐いてきた。
本人は悪気がないらしく、「いつもデートすると途中で相手が泣き始める。俺はなんか障害があるんだと思う・・・(しょんぼり)」と言っていたけど、
「俺は努力しても人に嫌われるんだ・・・(しょんぼり)」といつも自分が被害者ぶってる感じだった。
いま考えたら、付き合いを通してけっこうひどいこと言われたので、当時の私を不憫に感じる。当時の私に会ったら、さっさと離れな!と言いたい。
でも、当時は なぜか、離脱したらゲームオーバーのような気がして、惚れされるためにムキになってしまっていた。
どうセックスに持っていったかというと、居酒屋で酒飲んで、私から抱きついて、犬捨ておじさんのお部屋に行きたいですぅ~って言った。
そしたらおじは「まいったな、同じ会社の新人に手を出したなんて思われたくないし、今日のところは大人しく、俺をオカズにしてオナニーしてください」とか言ってきた。
私1(きも~~~~~!!!!!なんでかわかんないけどきもい! ゲーム感覚でやってるだけで、そこまで好きではないよ! お前でオナニーなんかできるわけねーだろ!!!)
私2(・・・・最★高!!!! こいつ客観性がまるでない! もっとありのままの性格を見せてくれ!!!もっとみっともない姿を見たい!!)
内なる二人の私がマジでうるさかった。2つの相反する感情が芽生えていた。
その日何度も抱きついて乳を押し付けた。
おじの部屋に上げてもらえたものの、一人暮らしの部屋なので、座る椅子がない。どうしよどうしよとおじは慌てていたが、途中で我に還ったのか、
「今日はこれでおわりにしましょう」と言われてしまい、その日は部屋から追い出されてしまった。(私の家はそこから近いのでそのまま歩いて帰った)
私フルスロットル、しかし惜しくもノーゴール。でも、あわてているおじを見られただけで最高な気分だった。
それに、私は何度もセックスを誘ってきたが、その日のうちに乗らなかった人はこのおじ含めて過去二人しかいないので、これはすごい。
まあ、理性的ぶってるけど本当は傷つきたくないだけ・・・ってとこだろうけど。そんな人間が、性欲に負けてしまう瞬間、が、私は死ぬほど好きなのです。
もう一度誘惑したらどんな言い訳をするんだろう、どれだけ理性が持つかな?とワクワクだったが、、次の日にもう一度居酒屋誘ったらすんなり来たし、すんなりセックスだった。
すんなりか・・・プッシュ型じゃなくてプル型のアプローチのほうがよかったかな~~~~~。と若干後悔していた。
でも、この犬おじは一発ヤる前とヤッた後で人格が180度変わった。(これ!これを待ってたんだ!)
それまでの犬おじは、”いかに自分がすごいか”を誇示するために、学歴やら経歴やらウンチクの話しかしなかった彼だが、
その一晩を境に、堰を切るように下品な話が飛び出してきた。その話の内容がひどいのなんの。
(他の女性社員について)「あの子ブサイクでかわいそうだよね」
「◯◯さんと✕✕さんだったらどっちが美人だと思う?◯◯さんはデブだから✕✕さんかな」
「あんた△△さんとやってみたら?彼は色黒だからチンコも黒いのかな?」とか
私より下品な奴っていたんだ・・・・。リアル知り合いのそういうのはタブーじゃね?と内心ドン引きした。
興味深かったのが、犬おじは身だしなみには無頓着。服もちょっと小汚い。歯も磨かない&臭い。吹き出物が常に顔にある。
なのに、他人の容姿に意外と固執していた。それも上から目線で。若い時に自分の容姿に自信があったりして、それに起因しているのかなと考えた。
こいつ終わってるな、と思いつつ、ワクワクが止まらなかった。この犬おじは掘れば”何か”が出てくる!と期待していた。
この犬捨ておじは、人に嫌われやすいと自称していたが、一緒にいると見事に人の神経を逆撫でするようなことしかしない。
話し方・身だしなみ・仕草・我の強さ・口を開けば悪口しか言わない、人の意見には否定から入る。
・・・こんなに嫌われる要素がたくさんあるのに、当人は気づかないんだなぁ~、気付いても治せないのかな?と思うと私はまだマトモなほうだ、と思えて幸せな気持ちになった。
ある日の犬おじは、ハゲの自虐ネタで一人でキレ出して、とても好きだった。
犬おじ「俺は美容室が必要ないんですよ。見ての通り・・・」→私「そうなんですね~あはは」→犬おじ「笑うなんて失礼だ!」→「えっ・・・?じゃなんて言えばいいんですか?」→「そういうときは、無言で受け流せばいい。・・・んじゃないですか?」
反応閾値クッソ低いな!!!
ほかには、犬おじの虚栄心が高く、ささいなことで拗ねるところも、とても素敵で良かった。
例えば、ある日会社の車で移動中に、たまたま目についた英語の看板があったので「あれってどういう意味ですか?」と聞いてみた。
→犬おじ「あのさ、その質問をする前に、俺がわからなった時のこととか考えないの?」
→私「あれ?(犬おじ)さんは、以前英語が得意だって言ってませんでしたっけ」
→「あのさ、もし、俺がその英語の意味を知らなかったら答えられなくて恥ずかしい思いをするとか考えてないの?」
・・・・めんどくせー!「知らない」の人ごと言えば済む話じゃん、と内心思った。でも、これはいいサインである。犬おじが仕事中にごちゃごちゃ言ったのだ。(移動中とはいえ)
犬おじはプライベートではごちゃごちゃうるさいが、仕事中には一言くらいしか話さない。会社でも「犬おじに話しかけると嫌がられるよ」という認識をみんなに持たれていた。
そこに輪をかけるように、犬おじはほぼ常に耳栓をつけていた。当時は言葉がメジャーじゃなかったが、現代でいう聴覚過敏ってやつだったんだろう。
だから会社で話しかけられても、結果的に無視をしてしまう。私も目撃した。そんなやつと一緒に仕事したくないよね・・・。
でも、そんな人が犬おじだった。※会社が特殊なので、それでもクビにはならないよ!
犬おじの闇はまだ底が深そうだ。これを乗り越えたら、もっと煮詰まった何かがあるかもしれない、という好奇心と板挟みになっていた。
それだけじゃなく、サンクコストの呪縛もあったかもしれない。もうその時、毎日一緒に御飯を食べるようになっていたし、ジョーカーの素顔を見るまで引き返せない、そんな気持ちになっていた。
行く場所に行けばジョーカーはゴマンと見られるだろうが、私は社会生活を送っているジョーカーが見たいのだ。
犬おじは「ぼくはね!」「ぼくはね!」と、兎にも角にも自分の話を聞いてほしいという子供のような話し方で、連日マシンガントーク炸裂していた。
「やっぱり猫が好き。ってドラマ知ってる?若い人は知らないよね。俺は室井滋という女優が好きなんだ、(写真を見せてくる)この人、普通の人から見たらブサイクでしょ?でも俺はこの顔が好きなんだよね~。俺ってB専のケがあるんだよね。」
ブサイクなわけがないだろ。女優さんにブサイク発言できることが・・・すげぇ~~~~~~おこがましい~~~~~~!
ネットではそんな人をよく見るけど、現実で拝める日が来るとは・・・・!かなりうれしい!
犬おじは会社のパソコンを完全に私物化して。「どうせ古いパソコンだから、俺にくれたらいいのに」とか言っていて引いた。
なんだか犬おじは人のものに対して境界線がない?ような感じがあって、
今までした一番悪いことって何?という話になったときに、「盗み」と言っていた、これはガチで笑えなくて、つい話題を逸らしてしまった。
笑えなかったのには理由があって、この犬捨ておじは子供の頃、両親が離婚していて、お父さんは女を作って出ていったらしい。
それでお母さんは女手一つで子供二人を育て上げたらしい。生活が苦しかったらしい。時代を考えると、お母さん二人育て上げるのは死ぬ物狂いだっただろう。マジすごい。偉業だ。
私は心から素直に、すごいお母さんですね!と伝えた。
犬おじは「まあね、俺もすごいと思うよ。苦労して俺と兄を育てて。なのに俺も兄も結婚してないし、離れて暮らしてるし、ぜんぜん親孝行できてなくて、かわいそうだね」と言っていた。
このおじの生い立ちをまとめると、
↓
↓
製薬会社に就職し、MRとして営業先の人妻女医を好きになり猛アタックして不倫に持ち込む
↓
20代で会社を辞めて(なんで辞めたかは教えてもらえなかった)カフェを始める
↓
数年で店をたたむ
↓
女医と不倫していたのは20年前だそうだが、彼女にベッドにこんな言葉を言われたそう。”あなたの子を妊娠したら、産みたい・・・そして夫の子として育てる・・・”
は??托卵かよ!怖い!ドン引きなんですけど!!!!という気持ちはおくびにも出さず、
私「その方は、犬おじのことを本当に愛していたんですね!すごい・・・そんなセリフ普通言わないですよ」
犬おじ「うん・・・まあね・・・俺の子を産みたいって言ってくれるくらい俺のことを好いてくれててさ・・・」どうして別れたのかは話すつもりがなさそうだった。
実は私も、◯◯さんの赤ちゃんほしいのぉ★(お前とは欲しくない)とかは平気で口にするタイプなので(興奮するから)、
(この托卵発言も同じ目的のトークなんだろうな・・・)としか思えなかったのだけど、犬捨ておじの表情がとっても満足そうだったので、案外効果があるんだなと思った。
このとき、馴れ初めとかを根掘り葉掘り聞きたかったのだけど、この犬捨ておじは私のフィールドワーク歴代1位のひねくれ男で、
私のほうからから質問すると警戒して口を閉ざすタイプだったので、マジで難攻不落だった、、、。
基本的に私から詮索することはせず、犬捨ておじの気が乗って話し始めるのを待つスタイルだった。
この犬捨ておじはタバコをバンバン吸い、毎日安い居酒屋で飲む。そのわりに、お金に対しての不安が強くて、”お金がかからない遊び” ”安い居酒屋”への固執がすごかった。
おじは デパートには入店すらしたくないらしいし、スタバとかには絶対入らなかった。でもスタバ以外のカフェにはしょっちゅう行っていた。
私がそんなところに行くと、いちいち「高い金かかるのに、よく行けるね。俺とは住む世界が違う。あんたはそっち側の人間だったんだね」と言う男だった。
たばこに金ドブしてる人間がそれ言うか・・・?と思いながら 私の口から出る言葉は「たばこ吸ってる男性ってかっこいいですよね。」→犬おじ「そう?あんたお世辞ばっかりだね。疲れない?」
「あ、そういえば、たばこ吸ってる男は信用できるって、◯◯部の□□さんも言ってましたよ。」→「ふぅん・・・」
「そういえば□□さんって昔モデルやってたそうですよ、知ってました?」と言うと、一瞬「え!モデルやってたの?」と嬉しそうな顔をしたが、すぐに「ま、どーでもいいけど。」とポーカーフェイスを気取っていた。
こんな感じで、私は犬おじが気持ちよくなれるように もてなしていたつもりだった。噛み合っていない部分もあっただろうけど・・・
犬おじのかわいそうなところは、
狭いアパートで二人きりなのに、王様ゲームしよう!って言い出したり、お互いにお弁当作って交換しよう! なぞなぞを出し合おう!とか提案するところだ。
王様ゲーム、お弁当交換・・・学生がやるようなことだ。それを40~50くらいのおじとやるの・・・?世紀末^^^^^!!これよこれ!!いっつも予想外のことをしてくれるなぁ!!!犬おじはよォ!!
「負けた人はポッキーをペロペロ舐めるってルールにしよう」と犬おじが提案した。
「え?どういうこと?食べるんじゃなくて舐めるの?フェラするみたいに舐めるの?」と私が言ってしまったことで、彼の被害者意識の強さを垣間見ることになる。
”フェラ”がNGワードだったようで、犬おじが私に軽蔑の目を向けていた。
輪郭は丸く、頭皮からアゴまで油ぎっていてツヤがある表情、しかし年相応に顔全体がたるんでいる。。その顔で「信じられない」とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「・・・・・・・・・・俺のチンコがそんなに細いって言いたいの・・・・・・・・?」
「は?」
「だって、ポッキーを見て、咄嗟にフェラをイメージするなんて、ポッキーをみて チンコを連想したってことでしょ?俺のチンコがポッキーみたいに細いって、無意識で思ってるから"フェラ"なんて単語出てくるんでしょ・・・・はぁ・・ずっとそう思ってたんだ・・・」
め、め、めんどくせ~~~~~~! そもそも40-50のおじのボッキーなんてポッキンだろうがよぉおおおおおポッキーならまだマシだろ?マラ増ししろ!元々たいしたもんじゃないくせになにいってんだ?
でも、やはり孤独は人をおかしくするんだな・・・ここから私と過ごしていくにつれて、どう変化していくだろうか?最高だぜぇ~~~~~~!
ここまでは私の心の声だが、
私は「あなたのちんこがポッキーくらい細いなんて、本当に思ってませんって! 無理やり結びつけすぎじゃないですか? ちょっと考え方が飛躍しすぎですよ!」と慰めたが
「・・・あんたにフォローされても悲しくなるだけだよ。。馬鹿にしてるように聞こえるからこういう時にフォローとかしないほうがいいよ」と突っぱねられてしまった。
実は私が今までに見てきたチンコは20本くらいなんだけど。彼は2本くらいしか見たことないと思っているとしよう。私の頭の中は犬おじのチンコでいっぱいだと思われてんのかな。
結婚して10年以上、子供もいる夫婦だけど大体週1-2回くらいセックスしてた。
最近、旦那がとある対戦ゲームにハマりだし、日常でそのゲームの話がよく話題に出るようになってきた。
結構な長寿ゲームで、自分もシリーズの1つをやった事あるし、旦那も子供の頃からやってて進学やら就職やらで時々離れつつも、何となく好きでい続けてきたゲームという立ち位置だった。
だから再ハマりしたのも、そのゲームの会話が増えるのも特に気にしてなかったけど、ここ数ヶ月くらい、セックスの前後までそのゲームの話が侵食してくるようになった。
前戯中もその話、本番終わったらすぐゲームの話再開、という感じになって、セックスにほのかに作業感が出てき始めた。
極めつけは、普段勃ちがいい方なのに中々勃たない日があったのでどうしたのか聞いたところ、
「ゲームの事考えてた」
と笑いながらあっさり言われた事。
その場はこっちも笑って流して本番終了したものの、徐々に徐々にショックな気持ちがじわじわ来はじめて、それからセックスしたいと言えなくなってしまった。
向こうもこっちから言わないとしたいとは言ってこないから、結婚生活で初めてのレスな雰囲気になりつつあります。
自分的には夫婦間のセックスって性欲解消もあるけど、コミュニケーションの一環だと思ってたんだよね。特に子供いるから大人だけの時間って中々持てないし、自分としては貴重な時間を共有してるつもりだった。
旦那にとってはそうじゃなかったんだなってのを思い知ったのが地味にきつい。
滅多にメンブレしない性格なんだけど、ここ数日見事にメンブレして体調崩し始めてます。
ゲーム自体は止めて欲しいわけじゃないので、どう言っても角が立つ気がして悩んでる。
一応セックスの前後にはそういう話はしないで欲しい、とは言ったけど、向こうもそんな深刻な話だとは思ってないようで、なんかますますギャップを認識するだけになってしまった。
また楽しくセックス出来るようになるのかな。
川端康成の『雪国』は読んだことがないけれども、その文頭はあまりにも有名だ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
暖かい南国で生まれた。積もった雪は見たことがなかった。大学が近くになかったので、進学組はみんな強制的に一人暮らしになる地域だった。雪が見たくて、ただそれだけで積雪がある某県に進学を決めた。
学生だから車は持てなくて、雪の積もった日は徒歩で30分以上かけて大学に向かった。自転車なら10分もかからない距離だ。泥混じりの雪が跳ねて、着く頃にはズボンの裾と靴下が真っ黒に濡れてしまう。それで丸一日過ごす。一年生の年明けには、雪を見るだけでうんざりするようになった。
雪の朝は、目が覚めるとすぐにわかる。妙に静まりかえっていて、ほのかに明るくて、身体の芯から冷えるような寒さの朝は雪が深々と積もっている。心底うんざりする冬の一景だ。
大学最後の年、私はすっかり暗い冬も鬱陶しい雪も大嫌いになっていた。
ある夜、何かの用事で車に載せてもらい、峠の方へ行くことになった。しっかり整備された高速道路を降りて、ろくに除雪されておらず街灯もない一般道に出た時、ふと窓の外を覗くと、月明かりのない真っ暗な夜空と真っ白な雪原が目に飛び込んできた。そして「夜の底が白くなった」ことに気がついた。
私は文豪のあまりにも的確な表現に言葉を失い、雪原が終わるまでずっと、ぼんやり白い夜の底を眺め続けていた。
その後上京して何年も経つが、美術展にも行かず、バーにも通わず、流行の最先端にも触れず、およそ文化的とは程遠い怠惰な日々を過ごしている。これといった趣味もなく、美味いのかわからない飯を食べ、友人も少ない。都会の片隅でドブネズミ的生活を送っている。東京で文化人になるにも能動的努力と磨かれたセンサーが必要なようである。
私は生憎地元でも東京でも「文化」とやらを感じることはできなかった。「印象派展」や「知る人ぞ知る日本初上陸ブランド」に興味はなくもないが、疲れた週末に電車を乗り継いでよく知らない場所に行き、人混みに揉まれて行列に並ぶのは雪と同じく心底うんざりする。
このように都会暮らしでも文化を楽しむにはそれなりの素養と体力が不可欠だ。感受性が錆びつきセンサーが腐っているドブネズミがあの冬の夜、ど田舎の雪原に「文化」を強烈に感じることができたのは教育による知識の下地に偶然が重なったおかげである。私はあの一景を生涯忘れることはないだろう。
やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
猫は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
猫は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
猫は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、
わろし。
ヴィーガン連中は全部無理、
日本米も味付け無しの白米&ねちゃねちゃの食感でいつも米を食べてる人ですら大半がNG。
タイ米やジャスミンライスや不純物が混ざってる雑穀米や玄米のほうが日本の白米なんかよりもずっと上の評価だ。
特にパサパサライスしか食べてないイギリス人の大半はねちゃねちゃの日本の白米を最低最悪の米として毛嫌いしてて絶対に食べない。
仮にそれらを全部クリアできても、生卵やら甘すぎる味付けやらで食えるものがほとんどない。
タコ焼きですらタコが苦手な人が多いから食べてみて吐き出す外国人も多い。
「このふわふわの白いのってカビだよね?カビスープなんて絶対飲めないけど、どうしよう・・・おぇ・・吐きそう」
登山中に日本人のおばちゃんから梅干しおにぎりをもらった親日アメリカ人は
「うわ、なんだこれwwまっずwww」
ってバレないように捨てたとさ。
和食に免疫のなかったオージーはホームステイに来ても日本食で食えるものが何一つなかったし、某アメリカ在住Youtuberのアメリカ人彼女も高級旅館の料理が全部食べられてなかった。
日本に10年ぐらい住んでる外国人Youtuberですら和食は一切食べてないし、「日本のコンビニおにぎりを評価してみた!」みたいな動画を上げては
とか
それが現実。
日本人の俺ですら子供の頃は懐石料理とか食べるたびに「なんで日本食ってデフォで酸っぱい悪臭や生臭い臭いほのかに放ってるんだろ」って思ってたもん。
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ