はてなキーワード: 小学とは
オタクになりたい!
オタクになりたいなと思う。ツイッターを見てても思うし、友達と話してる時でも。
まあ確かに、自分はオタクだとは思う。なぜなら二次元キャラを好きだしアイドルが好きな頃もあった。二次創作もしてるし...
何より、仕事とか恋愛とかそういう”普通の人”ができること、どんなものより志向が向いているものに対して、自分は全く向いていないから。
でも、しかし、中学生頃に抱えた気持ちがいまだに全く薄れず、二十近くなった今でもまだ私はオタクになりたいと思っている。
田舎の子供だった。小学校入学と同時に違う地域から引っ越してきて、保育園からそのまま持ち上がりのような形で小学に上がってきた同級生達にうっすら疎外感を感じたまま遊んだ。運よく虐められるとか小学校六年間ぼっちで終了とかはなかったけど、みんなのノリに無理やり合わせていたとかが正しい表現かもしれない。でかい道路沿いの、都会と田舎の中間のどちらかと言えば田舎寄りで、遊ぶところも大して無く、親は仕事で周りともノリが合わない。そんな(まあ、普通にぼっちだね)子供だったので、案の定インターネットにはまり込んだ。ちっさい白色のノーパソで初音ミクの消失を聴きまくった。本当に幼少期の記憶はYouTube、3DS、着せ替えゲーム、あとマジックキャッスル(ドットの方ね。懐かし!)とかしか思い出せない。で、順当に行けば普通にオタクになる。ゆっくり実況、音楽はボカロしか聞かない、パソコンのタイピングがなぜか比較的早い、絵を描くのが好きではあったので、コピックも買ってもらった。小学校高学年から中学にかけての私は、その趣味に、...
その自分に、オタクであることについて、誇りを持っていた。インターネットだけが居場所だったしアイデンティティだった。めちゃくちゃ孤立してたわけでもないのになんでだろうとも思うが、めちゃくちゃ孤立してたわけでもなかったから気づけなかったんだろうなとも思う。
で、オタクっていうのは、固まる。中学美術部女子が教室の奥の方で腐オタトークをするように、私にもオタクの友達ができた。そこら辺からか、だんだん気付き始める。
というのも、私は全くと言っていいほど、アニメも漫画も見ないのである。
幼少期からのめり込んだのはYouTube、唯一読んだことがあるのは日常とドラゴンボール、それだけだった。
アニメを観まくり、商業BLを読み漁り、これこそオタク、女オタクの教科書みたいなオタク友達と、趣味が合わなかった。シンプルに言うとただそれだけなんだけども、
私は自分がオタクではないという烙印を押されたような気分になった。今でもそう思っている。
だってオタクが観るのはYouTubeじゃなくてニコニコ動画で、深夜アニメは録画して全部観て、たくさんの漫画を読んでいてその話で他のオタクと盛り上がれる、それをオタクと言うんだから。(今はちょっと違うだろうと思う。自分のトラウマの話をしています)私はオタクじゃなかった。
それと同時にオタクのことも少しずつ嫌いになり始めた。私個人の僻みもあるだろうけど、私が好きなもののことを他のオタク友達に話すと酷いことを言われたり、(例えば私が昔から好きなボカロpの話をしたら「まだ好きなの?」って言われたり)同じグループを推してる友達に私の好きなアイドルを「でもダンス下手だよね」って言われたりした。(トラウマすぎて涙出てきたw)こんなことみんなは言われ慣れてるのかもしれないけど、私は自分の好きなものを面と向かって小馬鹿にされたのがかなりショックで、しかもそれをパンピーじゃなく、仲間だと思っていた同じオタクに言われたもんだから、裏切られたとかではなく、ああ、私オタクじゃないんだ、って思った。逆に全然オタクじゃない、パンピーの友達の方がひどいことも言わずによく聞いてくれたと思う。
そんな感じだったので、元々早口オタクの話を聞く側の人だった私は、ますます自分の好きなものの話を他人にするのが怖くなった。もう否定されたくなかった。自分自身のことを否定されるより自分が好きなもののことを否定される方がきつかった。
で、今。私は女オタクという括りになるんだろうけど、そういうオタクへの憧れは女オタクへの憧れに変わっていった。正直満足に女オタクできてるわけじゃない。というかできてない。
誰かとぬいを持ち寄って写真撮ったり、ヌン活したり、アクスタと飯を撮る、新調したネイルの画像をあげる。私は現代のオタクに必要な『グッズが欲しい』という欲さえ持ち合わせていない。貢ぎたい欲もない、タイムライン上で名前を呼び合ったり、一生誰かとスペースしてたり。私はそのどれもクリアできていない。オタクになれない、オタクできてない、オタクとして失格。私は、オタクとして、女オタクとしてのノルマを、何一つとしてクリア出来なかった。私は女オタクにもなれずに、当然パンピーにもなれない。
じゃあ私は何の人なんだろう。私は何に属している人なんだろう。私は誰の話もわからない。誰にも私の話をわかってもらえない。私もみんなみたいに、誰かと好きなものを分かち合ってみたかった。結局何かのコミュニティに属してみたかっただけ。私はずっとひとりぼっちで...
パパ活という言葉が流行り始めたのは2015年頃かららしい。今回はその前の2013年、地方でパパ活のようなものに出会ったときの話をしたいと思う。
2013年、大学を卒業し、地元で就職した私は友達に飢えていた。小学と中学は不登校だったので、いわゆる「地元の友達」が居なかったのだ。
Twitterを見ていると、東京に住んでいるフォロワーがそのフォロワーとオフ会をしたり、さらにそこから親交を深めて友達になっている様子がたくさん流れてきた。
家と会社の行き来ばかりで親しい関係の人も居なかった私はそれを見てさらに孤独感を深めていった。
そこで、私もインターネットで友達を探すことにした。mixiに登録して、地元のコミュニティを探して「友達を募集している」という旨を書き込んだのだ。
そこで、一人の男性とメッセージのやり取りをした。その男性は42歳だった。友達になりましょうと言ってくれて、まずは会いませんか?と誘われた。
アラサーの終盤を迎え、いろいろと世の中のことが分かってきた今の私では決してその誘いには応じなかっただろうが、その時の私は応じた。
理由としてはあまりにも「友達」という関係性に飢えていたことと、地元のボードゲームをする集会の中で一回りや二回りくらい年上の男性と純粋に楽しくボードゲームできていたから、「この人も純粋に私と友達になりたくてメッセージしてきてくれたんだ!」と思ったからである。ボードゲームの人と友達になればええやん!とツッコミを入れられるかもしれないが、当時の私にはその発想が無かった。
というわけで、地方の中でも一番大きい駅で待ち合わせして会うことにした。電車に揺られる中、「友達になれるかな……?」ととても緊張していたことを覚えている。
実際に会ったその男性の姿は、白髪交じりで小太りだった。そのことは特になんとも思わなかった。容姿なんかより友達になってくれるかが私にとっては重要だったのである。
挨拶を交わしたあとは、そのまま男性と駅ビルにある中華料理店に入った。そこでいろいろと話をした。
男性は既婚者であるらしい。最近出会って数ヶ月で結婚したスピード結婚らしい。「そんなに早く結婚することもあるんですね〜」と私が驚いて言ったら、「大人はそういうこともあるんだよ」と言われたのが印象に残っている。
「俺、月収いくらだと思う?」と聞かれたので、当時の私にとってはとても大金である30万ですか?と答えたところ、「もっと多いよ……」とちょっと不機嫌な顔をされたのを覚えている。女性の「私、いくつに見える?」の男性バージョンは「俺、月収いくらだと思う?」なのだなあと感じたものである。
「そのうちホテルにも行きたいね〜」とも言われた。さすがの私でもホテルに行きたいの意味はその時知っていたので「友達とはちょっと違うな……?」とそこで思った。
料理も食べ終わり、その後、解散する流れとなった。男性は食事を奢ってくれて、私に家族の分も含めたケーキの詰め合わせも買ってくれて、帰りの電車賃も出してくれた。「そこまでしてくれていいんですか?」と聞くと、「出したいから出してるの」と言われた。「そういうものなんだ……」と思った記憶がある。
家に帰ってからその後は、「ホテルに行きたい」という言葉からしてこれって友達じゃないなと思って連絡はしなかった。相手からメッセージは来たが無視をすることにした。
エピソードはここで終わりである。「お金を自ら出したがる人」がいるんだな〜って思ってたけど、これってもしかしたら無自覚にパパ活しかけた話なのではないかといま振り返ると思う。今の人は自覚的にこれをやってるんだな〜と思うとなんだかすごいなあと思うのであった。
ちなみにその後、友達募集掲示板で同世代の友達を募集して300人くらいとLINEのやり取りをしたが、交友関係ができたことは全く無く、しばらくやり取りをするうちに切れてしまった。
Twitterでフォローしてる人たちとはなんとなく関係が長く続いて、会ってくれたり、遊んでくれたり、友達になってくれた人も複数人いる。
そんな話なのであった。
そのじいさんが亡くなった。
昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。
安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のBb(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。
そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。
正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。
実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。
母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。
じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。
じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。
寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。
じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。
そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。
その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報を知らされ、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。
そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。
それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。
死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。
最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。
最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。
父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。
父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。
父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。
亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。
ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。
(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)
そんな感じの人だったので、この世におおよそ未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。
こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。
生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。
生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。
じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。
それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。
ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。
私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。
私が小学6年生のころには、この国の女性軽視はおかしいと思っていた。
そうした中で生活しているうちにうっすら芽生えた男性嫌悪は未だ拭えないでいる。
私のその夏の自由研究はなぜ女性天皇はいけないのか、というものだった。
調べてみると、これは女性軽視とはまた別の問題があることがわかったが、これは私の不信感を払拭しなかった。
若い(もしくは若くない)女性が、弱者男性(この言葉がどういう定義なのか、私にはよくわからないのだけど)をチー牛と煽る(?)のはこの女性軽視の社会の中で育った私たちがうっすら持っている皮膜のような男性嫌悪からくる部分も少しあるのではないかと思う(実際、弱者男性(?)はほとんど女性軽視的な思考を持っているように見える)
弱者男性という言葉はあっても弱者女性という言葉はあまり聞かない。
女性を軽視した社会の中で、社会に優遇されている(ように感じる)男性と恋愛をするのはとても難しいと感じる。
この国で子供を産み、育てることもそうだが、ほぼ敵のように感じる人間とどうしたら恋愛などというものに発展するのか、興味がある。
おれは運がいい。
理由は簡単で、人生に起こる51%を良いことだと思い込むことができるから。
半分より少しでも多くのことが、良いと感じられるのであればそれは紛れもなく運がいいだろう。
具体的に運が良いと感じることは
小学5年生の時に急に【賢く】なり、運動もできるようになった。
大学入学の際には、進学ギリギリの最低ラインをクリアして大学に入学した。
就職活動は失敗したが、同年代に比較すると年収は高くいただけている。
今年で勤続8年目になるがそれも運の良さがあったからだろう。
運が悪いと思うことは、日常的にちょっとした過ちを犯すところだ。
これらのことを考えた時、運は全部思い込みだと思うようにしている。
側から見たとき、おれの感覚で運が良いと思ったことは、運が悪くてそうなってるとも捉えられる。
自身の運ですら、自分の思い込みでコントロールできるような人間でありたい。
自身の都合で束縛されたいし、【孤独】でいたいし、残業もしたい、運が悪いことすら自分が選んだこと。
非正規雇用の祖母と高卒の母では稼ぎが少ないため、当然お小遣いもない。なので母の日はお金がかからないプレゼントを母の日に渡していた。(田舎だったのでその辺に生えてる綺麗そうな花を集めて花束にしてプレゼントしてた)
引っ越してから数年が経ち、何回目かの母の日を迎えた。普段から仕事で忙しい母を思いやってのことだと思うが、祖母が母の日のプレゼント用のお小遣いくれた。
近くの駄菓子屋に行って、最近祖母からもらって美味いと思った月餅があったので買った。自分が美味いと思ったものをプレゼントすれば喜ぶだろうなと思って母親に母の日のプレゼントだよという感じで渡したら「祖母が買ってきてもらったものをそのまま渡してるだけだろ、気分が悪い」みたいな感じでキレられた。このとき、2度と母の日のプレゼントは渡さないと誓った。
その後、なんやかんやあって自立して実家を出た。母親に会いたくないのであまり地元には近づかないようにしている。
何年先になるか分からないけど、もし死ぬ間際の母親と話すことができたなら、この話とともに育ててくれた感謝の意を込めて月餅を渡してやろうかなと思う。
「このクソガキ」「お前の家に行って殺してやる」 転倒を心配し声かけた男児に暴行 容疑で39歳の女逮捕 東金(千葉日報オンライン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f52f51c56d1556bdbe37329fb3370ac355f9e54
面識のない小学生に暴行を加えたとして東金署は3日、暴行の疑いで東金市、自称無職の女(39)を逮捕した。容疑者には精神障害がある。
逮捕容疑は2日午後4時40分ごろ、同市東岩崎の歩道で、小学4年生の男児(9)=千葉県内=に対して「このクソガキ調子乗ってんじゃねえよ」「お前の家に行って殺してやる」などと怒鳴りつけ、顔をわしづかみにして頭を平手打ちするなどの暴行を加えた疑い。
同署によると、男児は友人と2人でいたところ、自転車で転倒した容疑者を心配して声かけし被害に遭った。目撃した通行人の女性が110番通報した。「覚えていない」と容疑を否認している。(本紙、千葉日報オンラインでは実名)
小学3年生くらいの頃、私は夜が怖かった。
お化けや暗闇に怯えていたのではない。
私の宿敵は、成長痛だった。
毎晩、眠ろうとしてベッドに入ると、自分の足から、膝から、骨が軋む音が聞こえた。
実際にはそんなもの聴こえていなかったのだと思うのだけれど、少なくとも当時の私は聴こえるなあと感じていた。
ぎゅ、ぎぎ、という音。私と、私の身体の痛みと、ふたりぼっちの夜は本当に怖かった。痛くて、心細くて、不安だった。
「お母さん、膝が痛い。眠れない。」
普段は甘え下手の子どもだったけれど、あまりの心許なさに痺れを切らし、藁にも縋る思いで母に痛みを訴えても、子どもの成長痛を目の前に母親ができることなどほとんどない。
困った顔で湿布を貼ったりマッサージをしてくれたが、結局、無理やり目を瞑り布団に潜り、なんとか眠りにつくまで、その痛みはずっと私から離れてくれなかった。
東京に出て、お酒やライブハウスの楽しみを覚え、夜が大好きになった。
1年半で、といっても、入社してから研修期間が8ヶ月ほどあったため、実務自体は10ヶ月程度しかしていない。
その後、3ヶ月ほどフラフラしたのち、現在は業務委託という形で働いている。フリーランスのWEB編集者だ。
何時に起きても誰にも怒られないし、満員電車に乗らなくていいし、今日みたいに2駅先の大好きなカフェで仕事をすることもできる。
企画書と名刺があれば、会いたい人に会い、尊敬する人と仕事ができる。
持ち前のフットワークの軽さ、衝動性、興味範囲の広さ、好きなものへの熱量、適度なミーハーさ。
自分の性格を鑑みれば、今のこの生活に飛び込んでみたのは正解でしかない、と思う。
それなのに、私は毎日暇さえあれば怯えて、泣いている。
不安なのだ。毎日、ああ、また朝に追いつかれた、という感覚が拭えない。
楽しさとか、ワクワクを食い殺してしまうほどの、強靭で凶暴な不安が、ずっと私の背中を睨んでいる。
仕事をしなければいけない。
仕事をしなければいけないのは、食っていかなければいけないからだ。自活しなければいけないからだ。
仕事をしなければいけないと、食っていかねばいけないと思えば思うほど、自分の心と身体が硬く閉じていくのを感じる。
しなければいけない仕事なんてないのに、自分で決めたこと、始めたことのはずなのに、だんだん食っていくための仕事になっていく。
なんで他の同級生たちができていることが自分にはできないんだ、親孝行もまともにできていないよ、だなんて、ステレオタイプなつまらない比較と自己否定を、気づけば繰り返してしまっている。
こんな己の貧弱さを、まあいっか、と許してあげるほどのゆとりもない。
朝が来るたびに、もうやめてしまいたい、痛い。人生を前に進めるための足取りが、いつまで経ってもおぼつかない。
家族もいて友達もいて恋人もいて、だけどこの痛みを誰かが軽くしてくれるわけではない。
何か悪いことをしているわけではないのに、無慈悲に襲いかかってくるこの痛みは、あの頃の成長痛と同じだ。
先日、とある仕事の打ち合わせで、フリーランスの先輩とも言えるライターの方にこの成長痛の話をした。
「日記を書いてみたら?」
彼女は、フリーランスになってから増田に日記を書き、それを自費出版したという経験を持つ。
「今、私からはあなたはとても可能性に満ちて眩く見えるし、大丈夫だといってあげることもできる。
だけれど、確かに、あなたの痛みを肩代わりすることは誰にもできないし、他人が何をいってもあなたはきっと不安なままだと思う。
でも、そんな気持ちすらいつかの食い扶持にしてやる、って、泣きながらでも歩けば、気づいたら思いがけない楽しいことに出会えるはずだから。」
もしかしたら同じことばかり書いてつまらない日記になってしまうかもしれない。
成長痛記録、闘病記録、ということにして、痛みとふたりぼっちの日々をここに残してみようと思う。
tribird 学校指定の学生服やかばんはいいの?この人はどこまでなら許容できるんやろ。
その他
ultimatebreak
ultimatebreak そんなこといったら義務教育そのものが人権侵害になってしまわないか・・・?
その他
n_vermillion
n_vermillion 田舎の中学校だったけど、部活が強制入部だったのに入りたい部活がなかったのは理不尽だったといまだに思っている。新規に部を立ち上げるぐらいの柔軟性はあっても良かったと思うんよね。
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hiro7373
hiro7373 反論多いけど、会社で考えたら普通に嫌かな。何で学校だと許容されるんだろうね コメント
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f_oggy
f_oggy こういうの見ると別け隔てなく受けられる義務教育って大事だなって思うわ
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chinu48cm
chinu48cm 行かない自由はあるぞ。熱出ていけなかった勢ですし
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sekreto
sekreto 体育祭ならわかる
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yoiIT
yoiIT 「喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。」ヒロト
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tuuz
tuuz 歳を重ねるほど思うということは嫌でも思い出してしまうトラウマになるような出来事があったんでしょう。でも楽しかった人も多いから具体的に書かないと同情してもらえないよ。
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ftq
ftq 歳を重ねてから思うことか?もっと早く気づけよ。参加するという選択をしたのは誰?
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lifefucker
lifefucker この辺の感覚は学校や教師や時代によって分散大きいだろうな。なのでブコメもバラける
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nakag0711
nakag0711 教育というのは生徒を一人前扱いしないであれこれやらせるわけで、形式的には人権侵害の面があるが、だから止めろと簡単には言えない
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nagahitoo
nagahitoo 年重ねてるのにまだ学生時代のこと繰り返し思い耽ってるの…
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ringonouen
ringonouen いや人権侵害なんか無いほうがいいでしょ。個人の人権侵害してまで県外に出る必要もない。トップブコメが軒並み「それ含めていい経験」みたいな論調なのが解せない
2024/02/19 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
その他
rain-tree 個人の宿泊旅行が一般的になった今は本来の役目を終えたといえるかも。だが最初はそうでなかったから公教育の枠組みの中で全員に機会を提供する意味があったし、或いは恩恵を受けた同級生が増田にもいるかもしれない
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cl-gaku
cl-gaku 重ねるほど薄れるんじゃないのか
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sumanhoho
sumanhoho 部活も修学旅行もお金ないと出来ないよ(実体験)
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quick_past
quick_past 嫌でも参加すれば、後でいい思い出になる。なんて言い方よくあるけど、参加しようがしまいが、いい思い出もわるい思い出もあるし、人生なんて比較対照しようがない。毒親の虐待すら肯定しうる考え方。
2024/02/19 リンク yellowyellowyellowyellowyellow
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songe どんな齢の重ね方やねん
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PrivateIntMain
PrivateIntMain 修学旅行はさておき、部活は特段の事情が無い人は全員どこかに所属しないといけないとか謎すぎるだろと思って適当にやっていた。まああれも人は1人じゃ生きてけんのよって教育だったのだろうと勝手に思っている。
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pekee-nuee-nuee
pekee-nuee-nuee 生徒本人の希望制にしたら良いし、金の話は公立校なら公金で負担してやるべきだ
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eiki_okuma
eiki_okuma うちの中学、海岸から島まで6km遠泳させられたが……なんだかんだ泳げるようになったので良かったとおもう 絶対大人になってからやらないし……
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mirakukira
mirakukira 子供時代に仲間と一緒に何かをするという経験を積んでおくことは大事だよ、そういう仲間増田にもいるでしょ
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wuzuki
wuzuki 理由は分からないけど、修学旅行に行かなかった同級生いたな。私も身内の不幸と重なって行ってない修学旅行がある。まぁ、そのときは苦手な子と同じ班だったから行けなくても別に良かったけど。
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LethalDose
LethalDose 楽しくはなかったけど、家族旅行をしない家だったので、そういう行事がないと交通機関の使い方がわからなかったかも。本でなんとなく方法は理解していたけど。
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keren71
keren71 高校は任意だった。修学旅行に海外とか選択肢がある学校は羨ましい限り。
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Karosu
Karosu 修学旅行は、乗り物の乗り方を体験するという意味で必要かな。部活は入りたいっ部活がないなら、自分で部活を作れることを示すならば教育的に悪くはないと考える。
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ayumun
ayumun 修学旅行は当日病欠できるから、休もうと思えば休める
その他
atoh
atoh 中高ともに部活必須でなかったのは幸運だったな。部活してないと受験面接の時に部活やらなかった理由聞かれたりするんだって?大変やな。 増田 部活
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mtoy
mtoy 嫌なことから全部逃げて、人生がうまくいくとは思えない。嫌なことを経験してそこから学べることも多い。俺も部活は嫌いだったけどやってよかったと思っている。
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corydalis
corydalis 黎明期は日本人も娯楽が少なかったし江戸期同様生まれた土地で一生過ごす人も多かったので意義もあったが、今となっては修学旅行親のカネを旅行業者に流すためだし部活はお守りを教員にやらせてるだけ。やめるべき。 自民党の悪政大人とは世も末老害犯罪これはひどいあたまがわるい
その他
daysleeeper
daysleeeper なにをいまさら。自分は部活嫌で帰宅部、修学旅行も運動会もバックれて全く参加してないけど、授業はふつうに出てたし、ふつうに卒業して、いまもふつうに社会人です。サラリーマンではないけど。後悔もゼロ。 増田教育
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inuinumandx
inuinumandx ワイ中学も高校も修学旅行京都だったの。だから、別の所行きたかった。京都いい所だけど…見る所大体一緒じゃん。あとお金ないとつまらない。
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minaminoani
minaminoani 片田舎の公立校だが中高と部活が強制だったことは無かったなあ。今から思えば不思議だが、修学旅行はクラスメイトに恵まれたせいか、嫌な思い出がない。あの頃のまま育てば陽キャになってたのかなあ。
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um-k3
um-k3 あと「皆仲良くしよう」とかいうイジメの発端になるクソな考え方な。早く「皆仲良く」なんて無理だと気づいて、嫌いでもいいけど事務的な対応だけはしようねって教えるようになればいいのに
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natumeuashi
natumeuashi 嫌な経験や理不尽な思いもしてみないと想像すらできないから、若いうちにできるのは貴重だよ。(学校の教師はそんなこと微塵も思ってないのが胸糞だけどー‥)
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listeningsuicidal 部活はそう思う。中学は特に選択肢だいぶ限られてたし。
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MacRocco
MacRocco 歳を重ねるほど思うけど、校則違反とかちょっとしたことでガチギレする教師達ってすべからく頭おかしいと思う
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hate_flag 修学旅行はあんまり行きたくなかったが行ったら楽しかった。でも部活動は運動部しかない上に全員強制参加で「殺す気か」と思った。幽霊部員になるというライフハックを学んだのでヨシ!
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kagerouttepaso
kagerouttepaso 年代にもよるのかも。上の年代は体育マットで簀巻きにして殺されてもオタクならしょうがないって価値観だもんね。
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plmoknijb
plmoknijb 集団行動とか社会規範ニガテだけど義務教育あれこれは辛いことも含めて良い経験になったと思っている。なお高校は行ってない。大学は集団行動とか社会規範への不思議を紐解きたいという興味で選んだ
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dazz_2001
dazz_2001 修学旅行は社会経験の一環だからなぁ。飛行機に乗った事がない。電車に乗った事がない人とかね。プールやスキー学習とか。学校のスキー学習がなかったらスキーとかやっていないので感謝している…
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beed
beed 条件的には他の授業と同じだろうと思うが。音楽や体育、数学やりたくない人もいるだろ。自分が嫌だったものだけ切り出して人権侵害とか言ってもなぁ。
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kettkett
kettkett 確か体調不良で行けなかったんだけど。詳細思い出せない程度には記憶から消してたんだなと。このまま忘れてしまいたかったなあ
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kalmalogy トップブコメ、一定理解は示すが修学旅行の積み立てできなくて行けない家庭もあるから強制感を出せば行かせてもらえるような書きぶりもどうかなぁ。ケチりたい親、下手すると子供にバイトさせて賄うよ?
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katte
katte まあ強兵のために作られたから。
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exciteB
exciteB 年を重ねると、「生み落とされたこと」が圧倒的に人権侵害だとよくわかる。結局は老化して病気で死ぬ。
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Baybridge
Baybridge コロナで修学旅行行けなかった世代が大卒就職するまであと数年。/コンプレックスになる人と開き直ってネタにする人どちらが多いんだろう。 増田旅行人生
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ykktie
ykktie 高校の修学旅行のときは精神状態が激悪で、前髪を伸ばして周りから目が見えないようにしてたくらいなのに、何故か嫌な記憶がない。というより昔過ぎて細かいことは忘れたのかも
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porquetevas
porquetevas 小中学校つまらなすぎて行きたくなかった。この世の理不尽さを学べたことだけが良かった点
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oeshi
oeshi 表向きには示されてないけど行きたくないって言えば行かなくても良くなるんだよ…ちなみに一部底辺校では面倒だし仲間で行った方が楽しいから行かないって子が結構いるんだよ…
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lavandin
lavandin 小中と修学旅行がホントに嫌で嫌で高校でも行きたくない!!と騒いだが、実際行ってみたら面白すぎてなんだかんだで別の国だけど海外住んでるから必要だったかな。でも妹は体調崩して海外ダメになったし一長一短
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sukekyo
sukekyo おれは学生生活って強制的な人権侵害があったのは絶対に良かったと思ってる。「行きたくなかった」「嫌だった」って感情や記憶も込みで大事。いろいろな気づきや思いや考えを得られるから。今後も続けるべきと思う。
2024/02/19 リンク yellow18yellow 3 clicks
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rakugoman
rakugoman 若い頃から最適化されてると、つまんない人間になるぞ。本当に歳を重ねたのかい?
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tome_zoh
tome_zoh 部活は機会や課外活動の場の提供という意味で意義あると思うけど、全力以外認めないみたいなのやめてほしい、特に強制所属なら。やる気がないとかゆるくやりたい子の逃げ場はあっていい。
2024/02/19 リンク yellowyellowyellow
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north_god 参加してつまらなかった、嫌な思いをした、は次の反省点として向いてない事はやらないとか能動的な選択に繋がるが「〇〇やれなかった」はただの後悔にしかならない。一生向いていない事を切り捨てられんよ
2024/02/19 リンク yellowyellowyellowyellow
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tokitori わかる~。代表学年だけのとこもあって地域性あるんだろうけど、卒業式とか何で関係ない学年が出席して馬鹿みたいな余興みたいなのせないかんのだよ、とか小学4年生の時には思ってた
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deep_one 修学旅行がなんなのかいまだに分かっていないようだ。/「全員参加の部活」がやりたいことはわかるんだが、あれは「本気で部活する人」の妨げにもなるのよね。うちの学校は確か「本を読むだけ」とかの部活があった。
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edam 学校が嫌だった過ぎて子供産んであんなとこ入れるの可哀想は結構ある思想だと思う。
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valvelde 修学旅行を希望制にするなら毎日の授業も希望者だけでいいはず
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ledsun それを言い出すと「義務教育は人権侵害」も言えちゃうぞ
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hobbiel55 それが人権侵害なら、教室にみんなで閉じ込められて勉強させられるのも人権侵害にならないか? educationtravelanond
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keidge 確かにまともに集団生活する機会なんて学生時代くらいしかないよね。私も苦手なタイプだったけど、得られるものは多いと思うよ。知識より経験の方が何倍も強いのが現実だし。
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zubtz5grhc 学校に通わせられるのも働かされるのも金がないと生活できないのも人権侵害だわな。私は考えるのをやめてるが。
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mtk_inrs そう、希望制にすると親の都合で行かせてもらえない子が出てきてしまうかもしれないからね、、DX進めろ進めろ言うけど当たり前のように家にWi-Fi飛んでない家庭もあるからなかなか
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rna 初等教育全般が人権侵害的と言えばそうなんだけど、一定の知識とスキルを身につけないと本人が自分の権利を守れないからなぁ。軍隊教育由来の部分とか時代に合わせて何が必要かは再検討が必要だけど。
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songsfordrella 高校の修学旅行、おそらくは外で干したのだろう宿泊先の宿の布団がブタクサの花粉だらけで、ひたすらくしゃみをしていた記憶しかない。そんなしょうもない思い出でも今となっては懐かしいもんです。
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chihiru 中学の修学旅行は積立式だったけどそのお金を親が出してくれなかったようで不参加だった子がいたな…お金のことよくわかっておらずみんな当たり前に行くもんだと思ってたから少しショック受けた当時
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mur2
mur2 拒否すれば参加せずにすんだのでは?/自分もSoundCloud聴きながら2時間でも3時間でも長風呂してしまうのでいつも最後に入るようにしてる。
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unakowa
unakowa いじめられていたら話は違うが、そうでないなら集団 Permalink | 記事への反応(0) | 19:51
小学4年の春休み、爺ちゃんの骨を墓に納骨するため家族で田舎に帰った
俺には初めての帰省だった
田舎では親戚の家に泊まった
次女は、ショートヘアーで少し陽焼けした丸顔のくりっとした目の可愛い系
とにかく美人の3姉妹で、子供ながらにかなりテンションが上った
俺の1歳違いの妹だ
妹は同い年ということもあって次女ちゃんとめちゃくちゃ仲よくなった
年の近い異性のきょうだいなんてどこもそうだと思うけど、子供の頃、俺と妹は毎日のように喧嘩していた
次女ちゃんと2一人だけで喋っているところを見つかりでもしようものなら、妹に弱みを握られることになる
同じ屋根の下で寝起きし、飲食も共にしているのに、近づくことさえできないのは酷すぎる
俺は悶々としながら日々を過ごしていた
そんなある日、妹が次女ちゃんと近所の高台にある神社に行くから増田兄(にい)も付いて来きてと言い出した
今日は長女さんも三女ちゃんもいなくて、次女ちゃんと私と2人だけだと危ないし、頼りないけどいないよりマシだからと妹は言った
相変わらず失礼な奴だし、妹が俺と行動を共しようとするなんてあり得ないし、きっと何か企んでいると思った
しかし、次女ちゃんと話ができるかもしれないという誘惑には勝てなかった
南国の3月は午前11時を回ると少し汗ばむくらいだったが、鬱蒼とした木々に覆われたその高台への階段は思いの外ひんやりしていた
階段を上る途中、妹は突然駆け始め「ちょっと先に行ってるから」と言った
思いがけず、次女ちゃんと二人きりになり、俺は舞い上がってしまいドギマギして、思うように言葉が出なかった
神主も巫女もいない無人の神社で、お参りする人も俺たち以外にはいなかった
立て札を読むと、ここには龍神様が祀られていて、龍神様は縁結びの神様でもあると書かれていた
あまりの偶然、そして半分願いが叶ってしまっていることに驚き、俺はお参りしながら龍神様にこっそりお礼を言った
3人でお参りを終えると、妹が写ルンですを取り出して、「あ、フィルムが1枚だけ残ってる」と言った
そして、「そうだ、撮ってあげるから、2人でそこに並んで」と言った
動揺したのと、後で妹にその写真で強請られると思った俺は「いいよ、俺がお前と次女ちゃん撮ってやるよ」と慌てて言った
すると妹は、「私は、この前ここで、次女ちゃんとは撮ったからいいの」と言った
前にも来たのにまた今日も来たのかよ、もしかしてこいつ、好きな男でもいるのかと思った
俺と妹のやり取りを見ていた次女ちゃんが「私が2人を撮ってあげるよ」と言った
妹が「ああ、それは無理。次女ちゃん、せっかくのチャンスじゃん、早く早く」と次女ちゃんを急かし
そう言われて次女ちゃんを見ると、顔を少し赤らめ下を向いていた
次女ちゃんに申し訳ないと思い、妹の言葉に従って俺は横に立った
妹が「はい、2人ともこっち見て、増田兄顔が怖い、笑って、次女ちゃんも笑ってー、はい、チーズ」と言ってシャッターを切った
写真を撮り終えた妹は、「私、トイレ行ってくる」と言って、また俺と次女ちゃんを残して、公衆トイレの方へ走っていった
2人だけで所在なく高台を降りる階段に座り、何を喋っていいかわからず無言でいると、次女ちゃんから話しかけてくれた
唯一共通の話題である妹のことを話しているうちに、いつの間にか学校やテレビの話で盛り上がった
木々の葉の合間からキラキラと陽が差し、たまに吹いてくる海風で微かに葉擦れの音がするくらいで、本当に静かで世界が二人だけになったようだった
夢中で話していると、ふと気づくと、30分も経過していた
急に妹のことを思い出し、心配になった
次女ちゃんは、「あ、そうだね。私、見てくる」と言って立ち上がった
俺は「いい、次女ちゃんはここで待ってて。何かあったら人を呼んできて」と言うと立ち上がり、トイレへ走って向かい、外から妹の名前を大声で叫んだ
「何してたんだよ!」と俺が怒ると
「もう、うるさいな。あっちのベンチで海見てたのに。あれ、もしかして私のこと心配してくれた?」と俺をおちょくるように言った
癪だったのと腹が立ったのとで、「心配なんて全然してねえよ」と俺が言い、「あっそっ」と妹が言い返し、いつもの口喧嘩になりそうになった
すると次女ちゃんが横から「増田くんって、妹想いの本当にいいお兄さんだね。妹ちゃん、今日は本当にありがとうね」と言って頭を下げた
次女ちゃんの言葉に完全に毒気を抜かれ、2人ともバツが悪くなって喧嘩をやめた
「あそこから海見ると、本当にきれいなんだよ」と言うと、次女ちゃんは1人ベンチへ向かった
「鈍感男!」と妹が言って睨みつけ、俺を残して次女ちゃんの後を追って行った
そこから望むと、木々の葉の濃い緑の向こうに雲一つ無い青空と紺碧の海が広がっていた
その絶景を見ていると、さっきまで妹と喧嘩していたことなんてどうでもよくなった
さらに強さを増しつつある陽射しと、海からの涼風を同時に感じながら、しばらく3人で無言で海を見つめていた
次女ちゃんが「本当楽しかった。2人ともありがとうね。もうすぐお昼ご飯だし、そろそろ帰ろっか」と言った
妹が「うん、お腹空いたから私先に行ってるね」と、また一人で先に階段を駆け降り始めた
次女ちゃんと2人だけでまた話すことができた俺は、この時だけは妹に感謝した
結局、次女ちゃんとゆっくり話すことができたのはそれきりだった
大阪の家に戻った翌日の日曜日、妹が写真を1枚持ってきて「これあげる」と言った
写真には、嬉しさ半分困惑半分でぎこちない顔の俺と、はにかんだ次女ちゃんが写っていた
妹が冷やかしの言葉でも言って来るかと身構えたけど、何も言わずに行ってしまった
その時、俺ははようやく全てを悟った
あれ以来、俺は妹から「鈍感男」と呼ばれている
人生80年とか言うけれど、結局最初の20年足らずでほとんど決まってしまうのしんどいな。
乃木坂のオーディションだって、年齢制限20歳だし、大抵のアイドルは大体そのくらいが目指せる限度だ。まあ応募できたとして、乃木坂のメンバーと到底張り合える顔面でもないのだが。
私は小学4年生からずっと顔にコンプレックスがあって、コロナ時代でもないのに年中マスクが手放せない小中高時代だった。本当はピンクでふわふわのリズリサが着たかったけど、ずっと黒い服を着ていた。
大学で少しずつ、ピンクのリズリサに袖を通して、マスクをせずに街を歩けるくらいの自信を手に入れた。
でも少しずつ自信が蓄積してきた頃にはもう、何になれる年でもなくなってしまっていた。今は地味な社会の歯車に成り下がった。
乃木坂トップの子達くらい可愛いければ、学生時代をコンプレックスで棒に振ることもなく、文化祭ではしゃいだりたくさん思い出つくれたのかな。もっと早い段階から自信がついて、いろいろチャレンジできたのかな。そんなことばかり考えてしまう。
女はとびきり可愛くないと生きてる価値ないので、とびきり可愛く生まれるまでリセマラしたい。せめてもう一度だけリセマラできたら、今度こそもっと早い段階で地元アイドルでもネットアイドルでもなんでもいいから応募して、学校行事もたくさん盛り上がって、青春コンプレックス解消したい。
松本人志は圧倒的にいじめられっ子<いじめっ子として生きてきてるで。
大体苛められっ子が、虐めといじりの境界線を、笑えたらいじりで笑えなかったら虐めとか言うと思うか?
オレは幼いころ、何を隠そう、イジメられっ子だった。幼稚園のときのプールの時間、自分の水鉄砲をとられても、ただ泣いてるだけ。先生に泣いている理由を聞かれても答えられないほどの気の弱い子供であった。
小学生の時。岡田って奴が居てね。足が悪くてね。片足引きずるように歩くの。オレ何度かイジメた事が有ってね。でも子供って気まぐれで。いちど家に遊びにいったの。友達でもないくせに。。。そろそろ帰ろかなって思ってたら岡田のお母さんがパートから帰ってきてね。。。
2013.06.12 00:43
https://twitter.com/matsu_bouzu/status/344479996892565505
松本人志@matsu_bouzu
。。。クラスメイトを岡田が連れてきたの初めてやったんやろうね。お母さんが凄い嬉しそうで。オレにやさしくて。ありがとうね。仲良くしてあげてね。って何度も言われて。。。オレ罪悪感でたまらんようになってね。。。おばちゃんオレ岡田のことイジメたこと有るって。言えなくてね。。。
2013.06.12 00:44
https://twitter.com/matsu_bouzu/status/344480235489746944
松本人志@matsu_bouzu
。。。なにより。岡田がお母さんの前でオレと親友のふりしたのが切なくて。辛くて。。。オレ心の中で。岡田と。お母さんと。いろんなもんに何度もゴメンなさいって思って。。。
なんとなくの昔話。。。
おわり。
高校時代にミニコント感覚で被害者が遺書を書き停学になるレベルの虐め
同級生に飛び蹴りをくらわしたり、頭をポカンとどついたり、まるでおもちゃのように扱っていた。
こんなこともあった。授業中、突然立ち上がり、スーツと前へ歩いていったかと思うとみんながよくいじめていた同級生の頭をパカンとどつく。どついた後、表情一つ変えないで、いつものあのムスっとした顔で、スーッとまた席に戻る。
いつもいじめていた同級生が、ある日遺書を書いて、自殺をほめのかした。その遺書の内容は、「僕はいつも学校に行っていじめられています。特に松本は、僕をいつもトイレに連れ込んで、雨あられのようなパンチを振るいます。これ以上学校に行ってもおもしろいこと何もありませんから、僕はこの世からいなくなってしまったほうがいいと思っています」
「俺らは何回も停学くらってたから、あのときは無期だったんかな。松つんは初めてだったから、確か二週間か一ヶ月ぐらいだったと思うわ。担任の先生と学年主任に職員室に呼び出され、停学の宣告を受けたの覚えとるわ」
松本:高校の時無期停学になった時の話があってね。ほんまにな五人ぐらいでな、遊んでてん。いわゆるほたいてたんやな。で、あの一人ちっちゃい奴がおってんけど、そいつを何かこうみんなでミニコント的な感じで、こう膝蹴りみたいのを…もう全然入れてないで。
松本:ヘッドロックう~やったりとかしてたわけよ。でも、確かに若干いじめられっぽい感じの奴やったけど、少なくともその場は遊んでやってたわけよ。俺らにしたらもう普通にミニコント、遊んでるだけやったんけど、次の日に原稿用紙5枚ぐらいに、そいつがあのー「集団リンチを受けた」みたいな。
松本:あの~誰々君にヘッドロックをされ、その後松本君が膝蹴りを数発僕の腹部に…みたいなことをバーッと書かれて、ほいで全員無期停学になったのな。で、そん時は「いやいやいやいやー、ありえへんなー」って。
松本:ほいでみんな他の5人も全員みんな「いや、もうあいつ頭おかしいんかい」という話やんか。いやねんけど、まあまあ今になって考えると、彼にしたらそんな感じやったんやろなあ。
要らんけど?
表章項目 | 0_総数 | 11_(卒業者)小学校 | 12_(卒業者)中学校 | ⭐️13_(卒業者)高校・旧中⭐️ | 14_(卒業者)短大・高専 | 15_(卒業者)大学 | 16_(卒業者)大学院 |
就業者数 | 57,673,630 | 40,540 | 3,890,760 | ⭐️ 22,752,520⭐️ | 10,185,420 | 15,384,510 | 1,820,950 |
⭐️高校・旧中卒業者(13_高校・旧中): 約 39.448%⭐️
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000032266827
正社員の最終学歴をみると、⭐️「高校・旧中学」の労働者割合が42.2%と最も多く、⭐️
次いで「大学・大学院」が31.8%、「高専・短大」が13.4%、「専修学校(専門課程)」が7.6%、「中学・旧小学」が2.4%となっている。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/keitai/03/kekka5.html
※高卒は正規労働者だけでなく、主婦パートや自営業者も高卒が多い