はてなキーワード: 新生活とは
友達が結婚するそうだ。
初めに聞いたときから彼氏どころかその兆しすらない自分と比べて妬ましいと思った。
他人の状態に嫉妬しててもしょうがないと思ってだんだん落ち着いてきたけれど、新生活への準備をしている話を聞いてまた妬ましさがぶり返してきた。
幸せになってほしいという気持ちがないわけじゃないけれど、所詮「こうきたらこうかえしましょう」っていうテンプレートっていうか、建前のような感じがする。
醜いと思うけれど、正直なところ。
30いくまでには何とかならないかな、何とかしなきゃと思うけれど、それは世間体の為であって、一人で暮らせるなら孤独死してもいいからほっておいて欲しい。子供もいらない。親には申し訳ないけどさ。
結局ママに褒められる○○ちゃんズルイ!ってことかな。情けねえや。
ノートPCが安くなっている(ノートに限らないかもしれんけど)と聞いて、そろそろ家のパワーブックG3じゃ見れないサイトも目立ってきたので、買ってみようかと眺めてみた。
Dellとhpが手頃感があったので、どっちかにしようと色々とカスタムを試したり見積書を作ったりして比べてみたら、とても複雑なことに気付いた。
hpは構成を選ぶと価格が一定なのですんなり比較できたのだが、Dellの場合、キャンペーン期間中に買うと\35,000-引きになったり、25%offになったりすることがあるらしい。ちなみに25%offになるのは今日まで。
しかし、先週の木曜日までは\35,000-引きだった。でも買い損ねて悔やんでいたら翌日から25%offになっていて、全体の値引き額でいうと現在の方がお得だ。
Dellのキャンペーンは「試しにカートに入れるまでやってみる」ユーザーに対して、最後の一押しをするための釣りなんじゃないかな?
最後の割引額も購買欲求決定因子として十分機能するのだが、実は本質的に重要なのは「パッケージディスカウント」なんじゃないかと思った。
同じモデルを同じ構成にして比較すると価格が異なることがある。
その原因は、パッケージ割引額にあるらしい。(自分の欲しい構成にもよるが)同じ構成に落ち着くならパッケージ割引額が大きいものを選ぶと総額での価格が一番安くなる。
最小構成で済ませたいというわけではなく、現在買うことが出来るベストorベターなハード構成を狙っているならパッケージ割引額が一番大きいものを選んで、カスタマイズするのが良いと思った。
これ、合ってますかね?
それとも、Dellではお買い物しないほうがいいですかね。どっかお薦めのメーカー教えてください。
Epson direct みてみれ。
高くなった15万もするし、cpuはdellよりショボイし、メモリは2GBまでだし。
これはなんだ?品質の差か?
自分が、貯金やライフプランについて気にしだしたのは去年の8月のこと。
まずは月の収支でも把握するかということで、家計簿をつけることを思いつきました。
そこで以下、自分の使った家計簿や、家計簿をつけたことによって得られた効果、
家計簿を続けるコツについて書いてみたいと思います。
http://mobile-kakeibo.sakura.ne.jp/
項目を自分で設定できたり、iGoogleにガジェット追加できたりとなかなか便利。
そっけないデザインも実務一辺倒ってかんじで好感持てます。
ssl非対応ってところにシビれるけど、
まあ大事な情報は載せないからいいかと、それから割り切って使ってみました。
家計簿がついに半年間続けられました。すごいうれしい。
フォームから希望の機能を送ると
管理人の方がサクッと対応してくれるところもいいところ。
今後も当分続けていこうと思います。
■家計簿による効果
家計簿をつけてみると、
自分の生活には以下のような変化がありました。
一ヶ月目:
とりあえずがんばって家計簿をつける。
日常の支出は特に変わらないけど、少しだけ節約を意識するようになる。
二ヶ月目:
家計簿をつけるのが苦ではなくなる。意識は一ヶ月目と特に変わらず。
三ヶ月目:
家計簿をつけるのが完全に習慣になる。過去二ヶ月間の実績があるので、
自分が何にどれくらい使っているか、おおよその目安がわかってくる。
四ヶ月以降:
過去三ヶ月の実績を元に、「メシ代」や「飲み代」等、
項目ごとの予算がたてられるようになる。
今月は飲み代がハイペースな支出なぶんその他の遊びを削るといった、
なんか、家計簿を続けて、
自分の生活がすごくいい意味で管理できるようになった気がします。
ということで、ちょっとスパン長いけども、
とりあえず三ヶ月続けてみるのが大事かなと思います。
■家計簿を続ける5つのコツ
今まで絶対に続かなかった家計簿を、今回はじめて続けられたコツ。
1.毎日家計簿をつけない。
→つけられるなら、つけるにこしたことないんだけど、
以下2から5の方法を守れば別に毎日でなくても大丈夫です。
自分の経験では、4日以上たつと思い出せないことが増えてくるので、
だいたい3日に一回は家計簿をつけるようにしていました。
2.どんな店でも、レシートをもらえるときは必ずもらう。
無くしやすいので、レシートは絶対に自分の決めた定位置にだけしまう。
→自分の場合は、レシートをしまう位置を
ズボンの右ポケットと決めて、必ずそこにだけレシートを入れてました。
こうすれば数日ほったらかしても、
全てのレシートが取り出せます。
3.思い出せない項目は、とりあえず常識的な金額で家計簿につける。
→数日に一回で家計簿をつけていると、
「三日前の、あのときの飲み代っていくらやったっけ?」
みたいなことが何度か起きます。
このへんをきっちりつけようとすると家計簿は挫折しちゃうんだけど、
そんなときは前向きにあきらめて、「まあ多分4000円くらいでしょ」と、
適当な数字でつけておきます。
おおまかに把握するだけでも十分に意味があるはず。
数百円とか千円程度のズレを気にして家計簿を挫折するくらいやったら、
とりあえずの金額でつけておきましょう。
4.もし支出そのものを忘れてしまっても、それは大事な金額でないので気にしない。
→レシートの残らない支出の場合、日がたつと
お金を払ったことそのものを忘れてしまうってこともあるかもしれません。
でも、大きな金額の支出であればそもそも忘れないでしょうし、
その支出そのものを忘れてしまってもまったく大勢に影響ありません。
また、実際には、レシートの支出をつけているうちに
当日の自分の行動を思い出すので、
支出そのものを忘れることはそんなにありません。
5.交通費等、手間がかかる割に変動の少ない項目は、思い切って固定にする。
そもそも一ヶ月に電車に乗る回数・距離は予想がつくので、
ちなみに自分は月の交通費は8000円と固定で家計簿に書いています。
遠くに遊びに行ったとかでない限り、交通費なんて
もし予算からブレてもせいぜい月に2000円から3000円程度のはず。
だったら、すべての乗車履歴を追っても、
それによって得られる正確さが数千円であれば、
そんな項目は割り切って、固定の金額で決めてしまうのも手です。
自分は交通費を固定にして、家計簿をつけるのがすごく楽になりました。
ということで、以上、家計簿を続けるコツ含め、
その結果、保険とかライフプランなどにも興味を持てるようになりました。
ほんと、続ける前と後では生活スタイルも変わった気がします。
絶対に無駄にはならないと思うので、もし家計簿に興味を持ったら
よかったら上の方法を参考にしてみてください。
僕は、あるサブカルチャー系の雑貨屋でアルバイトをしていました。みなさんの中にも、きっとご存知の方もいらっしゃるでしょう。
まっ黄色のカードが添えられた商品が、所狭しと詰め込まれたあのお店です。
みなさんも、もしかしたら「あのお店で働きたいな」なんて思われた事があるかもしれません。
僕もそうでした。しかし、僕のように実際に働いてみた人は、あまりいないと思いますが。
僕が、あのお店で働く事になったのはちょっとしたきっかけがありました。
僕は当時会社員でしたが、税理士の資格を取る勉強に見通しが立ってきたため、睡眠時間を削る変わりに勤務時間と給料を減らして、
生活費だけ稼げるバイトに鞍替えする事を考えていました。そこで、なんとなく憧れていたあのお店の門を軽い気持ちで叩いたのです。
非常に敷居の高そうなイメージのあったお店でしたから、僕は落ちてもしかたないと思いながらも、
勉強をしなければいけない事や、社員になるつもりはない事を正直に話しました。
バイトからしか社員を取らない"徒弟制度"で有名なあのお店ですから、見込みのある社員候補でなければ採用はないと思い込んでいました。
結果は即採用でした。翌日から出勤です。その時の僕は純粋に自分を認めてくれた事に喜び、明日から始る新生活に胸を躍らせました。
ところで、このお店の低賃金ぶりをご存知でしょうか。僕の場合は690円でした。しかも、それでも古参の社員から言わせれば"高い"そうです。
そして、僕はその事を採用が決まってから教えられました。まさか、そこまでの低賃金とは想像もしていません。
何度も断ろうかと思いましたが、貯金もそこそこあったし、優しそうな店長さんが認めてくれたのにお金の問題で断るのも悪い気がしてしまいました。
そんな躓きもあったのですが、働き始める前までは僕は幸せでした。
このお店で、どんな人に出会うか、どんな仕事ができるか、楽しみでした。
それは、出勤一日目に崩されるのですが…。続きは、また今度。
徹夜の時間潰しに生まれてからの四半世紀を覚えている範囲で振り返ってみました。
一部あんまり意味の無い記述とかありますがあんま突っ込まないでくれれば幸いです。
1981年生まれの25歳。
■保育園時代
今考えるとこの時から周り(他の園児)と馴染めず一人遊びが多かった。
■小学校低学年
外で遊ぶ事が多かった。
ただ、同級生らと遊んでる最中に気が付くと置いてけぼり食らって一人だったとか。
何かに気が行くと周りが見えなくなるタイプだったという事か?
この頃から家庭訪問では毎回"やればできる子"と言われる。
それが真実だったかどうかはさておき、特に何もやらずに過ごす。
ファミコンに代表される家庭用ゲーム機が本格的に普及し始めたのもこの頃。
ファミコンを親に激しくせがんだ末に買って貰ったのはメガドライブ。
当然の如く、これはファミコンじゃない!と抗議。
父親の実家から祖母がやってくる。
■小学生高学年
母親の入院が長期化。5年生の一年間を父親の実家がある沖縄で過ごす。
それまで特に何の説明も受けず、こちらからも聞こうとしなかった故に、
あまりの唐突すぎる状況に全くついていけず通夜の晩は普通に就寝。
翌日の告別式でも涙が出ない。火葬場で棺が納められた炉の扉が閉まって、
ようやく思考が現実に追いつく。泣く。父親にしがみ付いていた記憶がある。
何度か棺の中を見た記憶はあるのだが死に顔は全く思い出せない。
その後沖縄に戻る。
春になり東京に戻ることになったが、父親の横には見知らぬ女性が。
幼児までいるし。告別式の晩に泊まった、父親の部屋には誰かと一緒に生活
している気配があった為、特に大きなショックも無く。
今考えると驚くほど違和感無く打ち解ける。弟の世話もなかなか新鮮な体験だった。
将来の夢は弟の影響で保父(保育士)だったが楽器演奏が壊滅的だったので諦める。
■中学生
入学当初がピークで成績は下がりっぱなし。ただ、非行に走ったとかいうわけでもなく
周りが進んでいく中で取り残されただけだった。
集団の中での規律というかルールを守るタイプの人間でもなかったのでいじめられる事も
しばしば。とはいっても極端に酷い状況に追い詰められる事はなかった。
文芸部の活動で歌舞伎座に行った時は、東銀座にも関わらず物凄く遠くに来たような気がした。
(生活していたのは練馬区)
■高校生
この頃から、ようやく世間(外の世界)を意識するように。
ただ、将来の夢は無し。周りが就職するっていうから流されて就職。
■社会人(19??
1年目
2年目
(印刷機から製版機へ)
自分を含めサポート人員が全国で3人しか居ないという状況で出張範囲が
一気に関東から九州まで広がる。でも、営業部だから手当は雀の涙。
3年目
業務内容は変わらず名古屋に転勤。
MMORPGを憶える。
4年目
大阪に転勤。業務変わらず。
が、そこの所長とウマが合わず転勤後2ヶ月で退職。
■NEET?生活(22??
1年目
ネトゲやってるか寝てるかの生活。外出は基本的にコンビニ行くときのみ。
バイトも試みるものの長続きせず、この頃は殆ど変化のない生活だった為、あまり記憶に残っていない。
2年目
前半はネトゲ生活。部屋から物が無くなる。(お察し下さい
夏に、会社員時代の同僚からmixiのお誘いがかかる。それほど時間も経たないうちにコミュのOFF会に
出てみたりするなど生活に変化が。OFF会である人物と仲良くなる。
その頃からネトゲの幻から目が覚める。でも仕事はしたくない・・・したくないというか、やりたい仕事とは
あまりにもかけ離れていた為、やる気が出なかった。
やりたかった仕事というのは、IT系のハードウェアに近いところ。
NEET生活も3年目に挿しかかろうという頃、住所不定に転落の危機。
藁をも掴む思いで前述の人物に相談。「東京じゃなないところで生活する事になるけど行く?」と
聞かれ、即答。今の職場を紹介してもらう。
■社会復帰(24??
1年目
職場のエースと自分とのあまりの実力差に価値観というか自尊心がものの見事にぶっ壊される。
多少判るとはいっても結局のところ、自分は初心者に毛が生えた程度だと思い知らされました。
やりたい仕事ってなんだったんだっけ?といった具合に立ち位置を見失う。
この頃からOFF会で出会った人物の事を先生と呼ぶようになる。
2年目
相変わらず彷徨っていた。のだが、なんとなく自分の立ち位置(出来る事)が見えてきたような気が
してくる。同時に、この頃から自分の性格というか志向で思い悩むように。いい加減遊んでいられる
年齢でもなくなって来た焦りもある。気が付けば四半世紀。
3年目(今年
職人にはなれない事をようやく自覚。ただ、自分が社会に対して出来る事が何なのかは未だ不明。
まだまだ当分もがく事になりそうです。
#気が付けば実母との付き合いより養母との付き合いの方が長いのか・・・
#ちなみに4人兄妹(俺妹弟妹)ですが、妹たちのお話はまた別の機会にでも。(あるかどうか判らないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070219065639
ちょっと関係ないけど書きたくなったので私の事を書きます。
彼女とは数年前に1年間くらい付き合って、そして彼女は海外留学へ。で、その留学前にちょっとゴタゴタっとしゃちゃって、ギクシャクしたまま彼女は海外へ。その後もメールをやり取りしていたんだけど、結局彼氏彼女の関係ではなくなった。なんだかんだとメールも送ってみたりしたんだけど、もうね、返事もこないし「しかたないか。ま、新生活楽しむがいいさ」と私にとってはすっきりした感じの終わり方だったわけ。
で、この前正月に実家帰ったときに、両親とその彼女は未だに時々やり取りがあるらしく、こないだも彼女の留学先へも両親そろって旅行に行って1週間だか10日間だか彼女と旅行して回っていたらしい。なんだそりゃーと思いつつ、なんかどうにも当時彼女に会えなかったり、メールの返事がこなかったりしてむかついていた自分を思い出してもやもやしてた。今となってはもう元気にやってくれているのなら嬉しいし、べつに今更友達付き合いをしようとも思わんので、私は「過去」にできていると思うのだけど、ただ一点、私のメールを無視しつつも私の両親とは近況メールをやり取りし、そして両親共々一切私へは知らせることなしに一緒に旅行していたというのが……なんだかなぁ、と。いや、まあ、この彼女と親の気が合ったということで別に私がとやかく言う話ではないのはわかるんだけど、どうにもなんか……イヤな話。
http://anond.hatelabo.jp/20070131010646に触発されて、私も大学の事を書いてみた。超長文な上完全な独り言なので注意。
元々大学に入る気はあまりなかったのだけれど、一応は進学校の端くれの高校に進学した。その高校の図書室で一冊の本に出会い、大学に行って専門分野を勉強したいと心から思った。しかし両親にはこう言われた。
「大学の学費は入学金くらいしか出してやれない。仕送りもしてやれない。お前を予備校にやるお金もない。それでもいいなら好きにしなさい」
両親は女の私が大学に進学する事は考えていなかった。だから大学の分の学費を積み立てる事はしていなかったのだ。
それでも大学に進むことにした。地元の国立大ならバイトをすれば何とかなると思ったのだ。就職の世話なんて一切してくれない高校でもあったし。しかし地元の国立大は難しかった。その地元の国立大以外は一切受けなかったため、あっという間に浪人生になった。
予備校に入るお金はなかったが、一人での勉強には限界を感じていた。そのため、アルバイトをしながら週に一度だけ予備校の個人指導を受けにいった。バイト代は右から左へ個人指導の月謝へと消えていった。
日中はアルバイトをしているため、勉強は必然的に夜遅くまでになる。そのことで両親にいろいろ言われた。
父は、
「そんな夜遅くまで勉強しなきゃ受かんないような大学だったら行くのはやめろ」
と言った。
母は、
「あんたみたいに昼間ぶらぶらして夜になってあわてて勉強してるのが受かる分けない」
と言った。
好きにしろとは言っていても両親は進学に反対なのが嫌というほどわかった。そんな両親への不信の念は募っていった。私が大学に合格するなどとはかけらも思っていなさそうな両親が唯一約束してくれた入学金も、もし嘘だったらどうしよう?そんな妄想にかられ、勉強が進まないことも一度や二度ではなかった。
また、この浪人期間にはいろいろと考えさせられることがあった。まず、このまま勉強を続けても地元の国立大に受かるぐらいに成績を引き上げるのは厳しいということ。志望先の学部の就職率が低いこと。当時は就職氷河期であり、高卒で就職しようとした中学時代の友人たちは、半数以上がフリーターになったこと。両親からの支援なしで大学に通うということは、思ったよりも厳しそうだということ。もう一年浪人することは無理だろうということ。
それらのことを考えて、結局初志を曲げて志望校、志望学部ともに変更をした。志望校は学力的に確実だと思われ、そして経済的にも何とかなりそうな国立大の夜間に、志望学部は就職氷河期の当時ですら100%近い就職率を誇っていた学部にした。この時点で大学に行くこと自体が目的になってしまっていたのは間違いない。
そしてセンターも終わり二次試験。母は私を送り出しながらこう言った。
「全力でテストを受けてきなさい。あんたなんてどうせ受かんないだろうけど、全力を出さなきゃ採点してくれる先生に失礼なんだからね」
母はツンデレの流行を先取りしていたのだろうか?しかしこの言葉を聞いた時私は母を恨んだ。
二次試験も無事に終わり、合格発表の日。少し遅れて発表を見に行ったため、もう人もいなくなり閑散とした掲示板の前で、自分の受験番号を見つけた。感動は無かった。
そして大学に入学した。両親もさすがに入学金のことでは嘘をついていなかった。女だてらに家賃3万円台の共同風呂アパートに引っ越し(私以外の入居者はみんな男性だ)、私の新生活は始まった。アルバイトも安定して月10万は稼げ、確実に授業に出れるいいバイトが運良く見つかった(しかも仕事内容は厳しくない)。新生活は奨学金が入るまでは金銭的に厳しかったが、月5万の奨学金が入るようになってからは思った以上に懐に余裕ができた。学費の積み立て3万円、家賃3万とちょっとで残りは生活費として特に考えなく使っても余裕があった。
また、実家を離れたことで心情にも大きな変化があった。毎日続く母からの嫌みを聞かずに済む生活は、思った以上に開放感を与えてくれた。それと同時に、離れて感じる親の恩というものも無いではなかった。さらにそれに加え、同じ夜間の同級生たちですら親からの仕送りが一切無い人など滅多にいないという現実が、私の両親への愛憎をより複雑にさせた。年二回の帰省以外では、殆ど両親との連絡は取らなかった。
そうした思いを噛み締めながらも真面目に勉学に励み無事卒業して就職した、となったら美談だっただろう。しかしそうはならなかった。
まず、下手にお金が余ったため遊んでしまった。ギャンブルにこそハマりはしなかったが、ゲームをやったり漫画を買いあさったり、勉強をしないには十分な遊びだった。そのため授業についていけずにいくつも単位を落とした。極めつけに、就活に研究室配属という大きなイベントを目前にしてメンヘラになった。メンヘラになったきっかけは定かではないが、とにかく自分を貶めるようになった。アパートに一人でいるときは、とにかく自分に向けて「死ね、お前なんてくずだ」などという罵声を独り言で浴びせ続け、授業に出ては脳内で自分を罵倒し続け泣いてトイレに駆け込んだりと、相当にめちゃくちゃだった。成績はますます悪くなり、就活も上手く行かず、ついに留年した。なんとか決まった研究室もチャラになった。そして私は学内の精神科医の先生を訪ねた。
精神科医の先生は、私には服薬治療が必要だが、それを始めるには両親の許可が必要になる、両親に連絡をさせてほしいと言った。私はそれが嫌だった。両親に、ほら、やっぱりお前はだめだった、と思われるのが心の底から嫌だった。しかしそうしているうちにも、妄想にかられ注意が散漫になり交通事故に遭いかけたことや、毎日のように自殺を考え、そして自分で自分を罵倒し続ける生活に耐えられなくなり、連絡はまだしも話の分かる父にするということを条件に精神科医の先生に治療を頼んだ。
そしてその日の夜、先生からの連絡を受けた父から電話がかかってきた。電話をとるのを少しためらった。怒られるだろうか?呆れられるだろうか?問いつめられるだろうか?そんな嫌な想像を膨らませながら電話をとった。
ーー○○、父さんだ。大丈夫か?大変だったな。
ーー先生は治ると言ってくださっているのだから、しっかり病気を治しなさい。
ーー大丈夫だよ
父は静かに、私が全く想像もしていなかった言葉をかけてくれた。涙でのどがつまり、ただうなづく事しか出来なかった。
ーー母さんはストレスがたまったらカラオケにでも行きなさいと言っているよ
それはもうやった、と小さな声で答えた。
ーー何かあったらいつでも連絡してくれ。父さんはこんなんだけど父さんなんだから
父は、そう会話を結んだ。
私はその日一晩泣き続けた。
その日以来、折に触れて父と連絡を取り合うようになった。こんな他愛もなく当たり前の事が今まで出来なかったのはなんでだろうと心底思った。留年して奨学金が出なくなる5年時の学費は父が出してくれると約束してくれた。
そして今、再び研究室配属や就活を目の前にするようになった。しかし一年前の私とは違い、今の私は非常に落ち着いている。自分は地面に足をついている、それを信じる事が出来る。それはきっと薬のお陰だけではなく、大学に入る前から私の中でずっとくすぶり続けてきた醜い何かが治まったお陰だ。結果論ではあるが、メンヘラになり留年した事で私は親への信頼を取り戻す事が出来た。メンヘラになった事は不幸であったと同時に天佑でもあった。
これからしっかり就活をして卒論も書いて卒業して就職して、そしてボーナスでも入ったら両親を連れて旅行に行こうか?一年前だったら思いもしなかった様な事を今はささやかな目標にしている。
それとどうでもいい蛇足ではあるが、うちの大学の保健センターは薬をただで処方してくれる。国立だからなのかどうかは分からないけれど、大学に心底感謝している。