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はてなキーワード: ニーチェとは

2008-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20080313030006

これを全部読んでいない人間は「猿」です。

ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。

プラトン『饗宴』岩波文庫

アリストテレス『詩学』岩波文庫

アウグスティヌス『告白』岩波文庫

レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫

マキァベッリ『君主論中公文庫BIBLO, 岩波文庫

モア『ユートピア岩波文庫

デカルト方法序説岩波文庫

ホッブズリヴァイアサン岩波文庫

パスカル『パンセ』中公文庫

スピノザエチカ岩波文庫

ルソー『社会契約論』岩波文庫

カント純粋理性批判岩波文庫

ヘーゲル『精神現象学平凡社ライブラリー, 作品社

キルケゴール死に至る病岩波文庫

マルクス資本論岩波文庫

ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

ウェーバープロテスタンティズム倫理資本主義の精神』岩波文庫

ソシュール『一般言語学講義』岩波書店

ヴァレリー『精神の危機』

フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫

シュミット『政治神学』未来社

ブルトンシュルレアリスム宣言』岩波文庫

ハイデッガー存在と時間ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシック

ガンジーガンジー自伝中公文庫

ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシック

ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社

アドルノホルクハイマー『啓蒙の弁証法岩波書店

アレント全体主義の起源』みすず書房

ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房

マクルーハン『グーテンベルグの銀河系みすず書房

フーコー『言葉と物』新潮社

デリダ『グラマトロジーいについて』

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』河出書房新社

ラカン精神分析の四つの基本概念』岩波書店

ウォーラーステイン『近代世界システム岩波書店

ケージジョン・ケージ青土社

サイードオリエンタリズム平凡社

ベイトソン『精神と自然』新思策社

アンダーソン『想像の共同体NTT出版

本居宣長『玉勝間』岩波文庫

上田秋成『胆大小心録』岩波文庫

内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

岡倉天心東洋の理想』講談社学術文庫

西田幾多郎西田幾多郎哲学論集?・?・?』岩波文庫

九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫

和辻哲郎風土岩波文庫

柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫

時枝誠記国語学原論』

宇野弘蔵経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア岩波文庫

旧約聖書創世記岩波文庫

ソポクレスオイディプス王新潮文庫岩波文庫

『唐詩選』岩波文庫

ハイヤーム『ルバイヤート』岩波文庫

ダンテ神曲岩波文庫

ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫

シェイクスピアハムレット角川文庫新潮文庫岩波文庫ちくま文庫

セルバンテスドン・キホーテ岩波文庫

スウィフトガリヴァー旅行記』岩波文庫

スターントリストラム・シャンディ』岩波文庫

サド『悪徳の栄え河出文庫

ゲーテファウスト新潮文庫岩波文庫

スタンダールパルムの僧院』

ゴーゴル『外套』

ポー『盗まれた手紙

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』

メルヴィル白鯨

フローベール『ボヴァリー夫人』

キャロル不思議の国のアリス

ドストエフスキー『悪霊』

チェーホフ桜の園

チェスタトンブラウン神父の童心

プルースト失われた時を求めて

カフカ『審判』

魯迅『阿Q正伝』

ジョイスユリシーズ

トーマス・マン『魔の山』

ザミャーミン『われら』

ムージル『特性のない男』

セリーヌ『夜の果ての旅』

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

サルトル『嘔吐』

ジュネ『泥棒日記』

ベケットゴドーを待ちながら

ロブ=グリエ『嫉妬』

デュラス『モデラートカンタービレ

レム『ソラリスの陽のもとに』

ガルシアマルケス百年の孤独

ラシュディ『真夜中の子どもたち』

ブレイクブレイク詩集』

ベルダーリン『ヘルダーリン詩集』

ボードレール悪の華

ランボーランボー詩集』

エリオット『荒地』

マヤコフスキーマヤコフスキー詩集』

ツェランツェラン詩集』

バフチンドストエフスキーの詩学』

ブランショ文学空間』

日本文学

二葉亭四迷『浮雲』

森鴎外舞姫

樋口一葉『にごりえ』

泉鏡花高野聖

国木田独歩武蔵野

夏目漱石我輩は猫である

島崎藤村『破戒』

田山花袋『蒲団』

徳田秋声あらくれ

有島武郎『或る女』

志賀直哉『小僧の神様

内田百〓『冥途・旅順入城式』

宮澤賢治銀河鉄道の夜

江戸川乱歩『押絵と旅する男』

横山利一『機械

谷崎潤一郎『春琴抄』

夢野久作ドグラ・マグラ

中野重治村の家

川端康成雪国

折口信夫死者の書

太宰治斜陽

大岡昇平『俘虜記』

埴谷雄高『死霊』

三島由紀夫仮面の告白

武田泰淳ひかりごけ

深沢七郎楢山節考

安部公房『砂の女』

野坂昭如『エロ事師たち』

島尾敏雄『死の棘』

大西巨人神聖喜劇

大江健三郎万延元年のフットボール

古井由吉『円陣を組む女たち』

後藤明生『挟み撃ち』

円地文子『食卓のない家』

中上健次『枯木灘』

斎藤茂吉『赤光』

萩原朔太郎『月に吠える』

田村隆一田村隆一詩集』

吉岡実吉岡実詩集』

坪内逍遥小説神髄』

北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』

福沢諭吉『福翁自伝

正岡子規『歌よみに与ふる書』

石川啄木『時代閉塞の現状』

小林秀雄『様々なる意匠』

保田與重郎日本の橋』

坂口安吾堕落論

花田清輝『復興期の精神』

吉本隆明転向論』

江藤淳『成熟と喪失』

by 柄谷行人、他

追記

必読書150』柄谷行人浅田彰、他(太田出版

http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%85%E8%AA%AD%E6%9B%B8150-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4872336569

ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラリソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。

http://anond.hatelabo.jp/20080313030006

気合の入った釣り(?)だなあ。

さて、俺が読んだことあるのは下記のやつだけ。中途半端なんだ。他のはもう今読んだら恥ずかしいようなので、ストーリーさわりと主な登場人物だけ教えて。あっ、犯人まで教えちゃやだよ。

で、全部の犯人が分かると、どんないいことがあるの?幸せになれる?

アリストテレス形而上学』 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカル『パンセ』 

カント純粋理性批判』 

スピノザエチカ

ニーチェ権力への意志』 

ハイデガー存在と時間

サルトル存在と無』

ベルグソン時間と自由』

ラカン精神分析の四つの基本概念

フーコー言葉と物』

ソシュール『一般言語学講義

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』

バタイユエロティシズム』 

フロム『自由からの逃走』 

シオラン歴史ユートピア

ブランショ文学空間』

2008-02-10

http://anond.hatelabo.jp/20080210001348

お笑いでも、他ならんこのますだでも、結局同型だ。つまり「あるある」を性懲りも無く繰り返す。さみしいのかね?理解できん。ベトベトした感触は生理的にムリ。一人で生きろよ。自立。中立。独立。独歩。こんなのはバンカラな旧制のスローガンになり終わったのかね。ならなおさら反時代的に行きたいぜ。おれは1人でたたかうぞ。こんなとこで「結社」の設立もあり得ないからさ。ニーチェ降霊まつまでもなく「神は死んだ」。

JはジーザスのJ?

2008-02-05

http://anond.hatelabo.jp/20080205091648

ニーチェ、なんで発狂しちゃったんだろうね。それはともかく。

西欧的な無神論日本の無宗教とは別だと思う。

無神論者って、あちらの感覚だと「すごく理屈っぽくて厄介な人」「唯物論者」のような感覚があるらしいけれど、日本の無宗教は、神道仏教自然宗教無意識のミックスというか、すでに文化になっているから、世界で一般的に言われている宗教と同じような気はする。サンデークリスチャンのもっとゆるいゆるい形、みたいな。

だから外国へ行ってブディストと名乗るのもそう間違ってはいない気はする。宗教がない=野生状態、と見られて人格疑われたり悪いことされたりするしね。

http://anond.hatelabo.jp/20080203224816

宗教=弱いものの逃げ場=カルト=金を払わせられる っていう不思議な図式は何?

個人的に、教会はまったく関係ない人にしか話せない様なことを話しに行く場でもあるし、

人と人は理解しあえるんだ、と信じる場でもある。洗礼は受けてないけどな。

(元増田だって風俗のオネーチャンに嫌なこと話したりするだろ? それに今だって増田に書き込んでいるわけで。)

友達が何の宗教かは知らんが、お前のその偏見の強さも原因のひとつなんじゃねぇの?

と、やいのやいの言ってみる。

『神は死んだ』はニーチェだよん。

2008-01-14

猟奇マンガ殺人

タクシードライバー」、「機械仕掛けオレンジ」や「マトリックス」の影響を明らかに受けた殺人事件だって発生してるんだから、猟奇マンガの影響を受けた殺人だったあって当たり前だと思うのだが。ニーチェかぶれが起こした殺人もあるよね。

マスメディアが「猟奇マンガを見てる奴=殺人予備軍」みたいな偏見を煽ろうとしてるから、それに反発するのはわかるんだが、マンガにしろ映画にしろ、何かしら人に影響を与えたいと思って作ってるんだから、その影響が殺人事件という形で現れる場合もあるだろ。その因果関係を調査するだけの価値はある。そこを全否定されてもなあ。「マンガは結局フィクション殺人事件を引き起こすような、そんな力はない」なんて。

そういう人はマンガを擁護したいんだろう。それだけマンガ好きだということ。

だから「自分の人生に影響を与えたマンガ」を持ってるはず。それなのにマンガ犯罪のきっかけになる可能性があることだけは全力で否定するんだな。

そういえば、この前「オーシャンズ11」に憧れた少年窃盗団逮捕されたことが報道されたよね。

2008-01-02

小島とニーチェ

諸君、私は小島よしおが嫌いである。

放送コードギリギリの挙動不審さで蠢く彼を見ていると、その無駄についてる筋肉を本物の熱湯で湯通しして、丁寧にむしり取ってどこぞの犬にでもあげたい衝動にかられる。

しかしながら、そんな私の思いとは別に、テレビで彼を見ない日はなく、「そんなの関係ねぇ」はついに流行語大賞を受賞してしまった。

世を構成する様々な「関係=リレーションシップ」を一刀両断で全否定するこの言葉は、一見切れ味が鋭く心地よい錯覚を覚えるものであるが、

その反面「神は死んだ」と高らかにニヒリズムを宣言することで19世紀という繁栄と安定の時代の終焉の到来を告げたニーチェの混乱を、

この21世紀に繰返す恐れのあるものである。

私は、この言葉の蔓延がもたらす未曾有のカタルシスに恐怖を覚え、小島本人への接触を試みた。

私「どうも。」

小島「ういー。」

私「彼方は、物事と物事の間の関係をことごとく否定して回っています。」

小「そんなの関係ねぇ。」

私「よろしい。例えば彼方が履いているその海パンですが、その海パンメーカーとあなたに関係があるのは流石に認めるところでしょう。」

小「そんなの関係ねぇ。」

私「その海パンメーカーには沢山の人が働いていて、糸一本紡ぐのに石油の精製から海パンへの縫製まで、数多の人が関わり、

  そして誰かが店舗に運んで、誰かが店舗に陳列したものを彼方が手にとって履いてる訳です。」

小「そんなの関係ねぇ

私「私は、寧ろこの世の全ての物事には何らかの関係があるのではないか、とすら思っています。」

小「そんなの関係ねぇ。」

私「そして、其れが関係のないものと思えるのなら、そう思うほうが無知なのだととも。」

小「はい、おっぱっぴー。」

私「その『おっぱっぴー』ですら、私は彼方と何らかの関係がある言葉だと思っているのです。

  例えば、何故『おっぱっぺー』ではなかったのか、『おっぱっぷー』ではいけないのか。

  もっとも、彼方は此れを「オーシャン・パシフィックピース」の略だ、としています。

小「はい、おっぱっぴー。(白目を剥きながら)」

私「此れが英語として完全に間違いだということは今更指摘をすることもないと思うのですが、

  彼方は意味のない言葉として此れを使用しています。」

小「はい、おっぱっぴー。」

私「私は残念でならない。何故、其処で『おっぱい』だと云わないのか、と。

  急場しのぎの意味不明英語で取り繕うのかと。

  森羅万象を『そんなの関係ねぇ』と言い切るのであれば、何故其れを無意味混沌である現実に耐えつつ、

  自らが現実の新しい意味であろうとする真に自由にして批判的な精神へと昇華していかないのかと。」

小「うぇーい」

私「うぇーい」

と云うことで、小島本人との接触を試みたが全く接点を持たないまま物別れに終わってしまった。

結局、関係という糸で繋いだ服は、裸の王様には見えないのであろう。

私は「イ」の字になって踊り狂う小島を残し、静かに冬の街を後にした。

2007-12-01

http://anond.hatelabo.jp/20071201092647

はてなアイドルに一票かな。

そんじゃなきゃいきなりラカンとかニーチェとか引き合いに出すインテリ奇人系で。戸川純

君は君の友にあまりに近づきすぎて彼に隷属せずにいることができるか

人はおのれの友をも敵として戦うことができなくてはならない。

君は君の友にあまりに近づきすぎて

彼に隷属せずにいることができようか。

ニーチェ


本当の友達は、お互いを束縛したりしないもの。ストッダード

[集団思考]アビリーンのパラドックス

2007-09-14

他人の背中や頭に乗ってはならない

高く登ろうと思うなら、自分の足を使うことだ!

高いところへは、他人によって運ばれてはならない。

他人の背中や頭に乗ってはならない!

ニーチェ

2007-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20070907044256

寂しさについてはこういう言葉がある。

孤独人間はたまたま出会った者にすぐに握手を求めるようになる」ニーチェ

わかってても愛情を欲してしまうのが悲しいところだね。

2007-08-21

anond:20070821134651

ダーウィン進化論人類の命を最も奪ったと言われているようにな。

この表現は誤解を招くと思う。進化論自体は、逆に、人間から優位性を奪い去って、神の似姿、万物の霊長を、ただの猿の一眷属に貶めた代物だよ。そしてまた、彼は進化の遅さ、速さといったものや、優劣といったものも問題にしたけれども、それは淘汰圧や適応から説明されている(例えば、外敵が少ないと淘汰が進まない、など)。そして彼は進化の多様性を認めているし、階梯などといった言葉を使っていても(こうした表現は当時普通に使われていた)、そこで彼が言っているのは、恐らく、進化には無数の方向性があり、あらゆる特性にはそれなりの利点があり、それゆえにそうなったのだと言うこと。少なくとも『進化論』として知られる書は、私にはそう読めた。

でも、どんなものも、第三者の思想によって歪められうる。見るといい。諸行無常色即是空思想に生きている筈の坊主共が刹那の色に溺れている様を。解脱思想が、現世利益思想へ置き換えられている様を。キリスト教徒の中に、どれほど多くマモンの信徒等々が存在しているかを。ナチスが利用したニーチェ思想が、どんなにナチスと相容れないものであるかを。ダーウィン進化論自体が問題ではない、それを言うならば、ニュートン力学等々は、もっと遙かに人々を殺すことに利用されて来たし、今も未だ、それは利用されている。

2007-08-19

ところで、人間失格ってそんなにいい作品なの?

サブカルっぽいもの扱いでいいの?

それとも、古典としてシェイクスピアみたいな作品なの?

夏目漱石の作品みたいなもの?ニーチェみたいに楽しく読めるもの?

2007-08-14

偶然なんて無い、有るのは必然……って言うと、アニメの見過ぎって言われちゃうのは兔に角として。

決定論者であることを告げると、夢の無い人間だと思われてしまうのは何故なのだろう。万物と万象の運命が予め決定されていることが、何故個人の夢の有る無しに繋がるのか、全くもって理解出来ない(量子力学で否定されてる、っていう意見は理解出来るけれどね)。

事物の未来が決定されているからといって、そのことは、人が未来を確実に識ることが出来るということを意味しないし(むしろ不可能であることが帰結されるだろうと思う。未来を識ることで未来に影響を与えることが予め決定されていたというのは矛盾であるから)、この世界において、人とその未来というレベルに限って言えば、決定されていようがいまいが別段大きな違いがあるわけではない。私が今、悲しみを覚えているのが偶然だろうと必然だろうと、私は予めこれを識ることは出来なかったし、私がとある漫画の20巻を楽しみにしていることを変えることが出来るわけでもない。

決定論が影響するのは、もっと別の部分だ。例えば、殆ど全くの落ち度もなく、期せずして陥った何らかの不幸があったとする。物事が偶然であれば、どうしてこの偶然が選ばれてしまったのか、苦悩することになろう。しかし必然であれば、そうなる運命であったのだから、単にその不幸をのみ悲しめばよいものと割り切れる。物事が偶然であれば、自身の存在それ自体が偶然なのだから、死後の虚無に怯えることになろう。しかし必然であれば、自身は単にある時間上においてのみ死という状態にあるのだから、怯えるのはただ死それ自体だけに限定される(ニーチェの言う永遠回帰恐怖に囚われなければ……)。つまり、余計な感情に惑わされること少なく、或いはそれを抑制し、より心安らかに過ごすことが出来る。更には、必然なる世界を構成する重要な一部分として、世界を愛することが出来るのではないだろうか(世界は自分でもあるから)。

2007-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20070808055138

で、あごひげだけがんばって伸ばしてるんだけど、3週間ぐらい経っても、

「あれ?ひげ伸ばしはじめたん?」ぐらいの反応なわけね。

「3日目ぐらい?」なリアクションなわけですよ。

「もう一ヶ月のばしてるYO!!」なわけですよ。

だって一ヶ月もほっといたらニーチェの肖像写真みたいな立派なヒゲなっちゃうから

面倒臭いと思いながら毎日剃ってる男から見たら、

そういうあごだけ枯れ芝生みたいになってる男とかなまずみたいなひげ生やしてる男なんか

何やってんだ?にしか見えないんですよ。

2007-08-03

V. E. フランクル 「夜と霧」まとめ、コピペ、抜き書き

人生歯医者椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。 (ビスマルク)

苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる。 (スピノザエチカ」)

なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える。 (ニーチェ)

ネタ元:V. E. フランクル 「夜と霧」, ISBN-10: 4622039702, ISBN-13: 978-4622039709, amazonの「夜と霧」, Wikipedia 夜と霧

要旨:生きる目的を、ことあるごとに意識し、現在の悲惨な状態に耐え、抵抗できるようにする。

以下、ほぼ原文からコピペ

生きることになにも期待がもてない場合、生きる意味とは何かわからない場合は次のようにする。

生きる意味についての問いを百八十度方向転換する。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを考える。

生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に経っていることを思い知るべき。

生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。

生きることとけっして漠然なことではなく、具体的な何かである。つねに具体的なにかであるので、生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。

この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。

具体的な運命人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性がある。

生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬこと意味にも裏づけされた、総体的なもの。

苦しむことはなにかをなしとげること

苦しむことすら課題であり、その意味深さにもはや目を閉じない。苦しむことはなにかをなしとげるということ。

気持ちが萎え、ときには涙する。だが、涙を恥じることはない。涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。

「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と言う人には、つぎのことを伝えようと試みる。

生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。

だが待っているものは、人それぞれちがうので、その人の話をよくきき、未来に彼らを待っているなにかについて、彼らにそれを気づかせる、思いださせる、思いつかせる。

ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造、他の人やその愛など。

このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

生きることを意味で満たすさまざまな可能性

人間生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限意味は苦しむことと死ぬことをもふくむのだ。状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。

犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある。しかし、その犠牲についても意味があるのだ。

2007-07-13

貴族と成金

実際にニーチェを奉じたのは伍長が率いるドイツ国家社会主義労働者党の連中だけどね。

貴族階級将校率いる国防軍はそれを苦々しく見ていた。

非モテを叩くことに血道を上げている連中も、「モテ貴族」とは程遠い成り上がりの「脱・非モテ」が大半であろう。

anond:20070713134014

2007-06-20

http://anond.hatelabo.jp/20070620112358

嫌韓のあまりやっていることが彼らの非難対象と変わらなくなってしまう人たちとかも同じかな。

もはやジャーゴンと化しているけれど

怪物と戦う者は、自らも怪物にならぬように心せよ。 汝が深淵のぞく時、深淵もまた汝を見るのだ。 ニーチェ

2007-05-31

喩えばね。2chにね。

ソクラテスニーチェレオナルドダビンチやキリストブッダやマハトマガンジーダンテモンテスキューピカソ諸葛亮孔明なんかが束になって2ちゃんねらーになったとしても、見る人に力が無ければ、低次元と酷評するんだよ。

2007-05-08

http://anond.hatelabo.jp/20070508225749

ニーチェに聞いてみるしかわからないだろう。

単純に凡てを超越しようとする思想だと考えたのだけど、どこから愛という概念が出てきたのだろうその人は。情熱が薄れ、調べる気力も失った今では読む気もしないけれど気になるな。

超えた超えた超えたら戻ってきたで永劫回帰

超えて超えて人間はやってきた、そしてこれからも超人思想&超えるからこそ人は進んでいく、立ち止まってはいけない超人思想

立ち止まり愛する事?はどうなんだろう、個人的に熱望や否定から始まる思想な気がしたのだけど、愛ねぇ。ニーチェと愛か。

2007-05-04

隷属

人はおのれの友をも敵として戦うことができなくてはならない。

君は君の友にあまりに近づきすぎて

彼に隷属せずにいることができようか。

ニーチェ

2007-04-11

http://anond.hatelabo.jp/20070411200401

それ以上に、本田さんも滝本さんも自分の血で書いてるからじゃない?

彼らは自分の言説で自分自身を傷付けてる。ニーチェの言説がブーメラン(永井さん参照)なのと同じで。

深淵を覗き込む者は……じゃないけど、オタクを覗く者は、自らもまたオタクに覗き込まれねばならないんだよ。じゃなければ軽薄になってしまう。たぶん。

http://anond.hatelabo.jp/20070411195317

もうちょっと読書量を増やそうね……。

こういうだけだとあまりに嫌味なので、具体的にオススメ本を書いときます。「オタク」と「ルサンチマン」で何かを書こうと思うなら、せめて本田透の『電波男』『喪男の哲学史』と、滝本竜彦の『超人計画』くらいは目を通しましょう。あなたのエントリの書きぶりから推察するに、これらの著作の存在すら知らないんじゃないかと思うんだけども。いずれもあなたよりはるかに徹底して「オタク」とニーチェ思想を結び付けて考察しているよ。文章もはるかに上手い(まあ、本田さんも滝本さんもプロなんだから当たり前だけど)。

http://anond.hatelabo.jp/20070411201533

エントリ増田に較べれば、ね。

2007-04-02

ルサンチマン道徳について引用

ルサンチマン道徳とは、奴隷道徳だとか弱者道徳とも呼ばれているもの。以下、ルサンチマン道徳について色々引用

簡単に言えばルサンチマン道徳は、同情などといった、弱者や、抑え付けられてきた者や、落ちこぼれ知恵遅れの人達が、現実から逃げデカダンスに陥り、人類は皆平等であるべきと考え続け、苦の無い妄想の世界で高みに立って現実を否定して、楽になりたいという願望の元から成り立っています。

http://shinriofaku.blog78.fc2.com/blog-entry-37.html

弱者」の奴隷道徳は、「あいつは敵、迫害者だ」だから「あいつはわるい」ゆえに「あいつと対立するわれわれは正しい」という憎悪、他者の否定から悪をモデル化し、その否定、反対者として善をモデル化するとして、後者の善の基礎にある怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ。そこから奴隷道徳の善は、否定の意志、憎悪を常に隠し持っているため、抑圧的、欺瞞的、病的だとして批判するのである。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%E5%BC%D4%C6%BB%C6%C1

奴隷道徳とはキリスト教の考えの事であり、ニーチェに言わせると「汝の敵を愛せ」と言うのは非健康的なひねくれた考えだそうです。

その理由は、理想的なキリスト教徒が敵に復讐しないのは愛故ではなく無力故だからです。復讐したくてもできない悔しさを「自分は愛溢れる人間で、敵に対しても寛容な心を持ち下らない復讐などしない。ああ自分はなんて立派な人物なのだろう。」と思い込む事によりごまかしているに過ぎないというのです。要するに態度が美しくてもその人の心まで美しいとは限らないのです。

http://yachan.blogzine.jp/himajin_z/2006/03/post_8eab.html

弱さを嘘でごまかして手柄に変えよう

返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だとやつらが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます。)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分に持っている臆病さそのもの、…、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐することができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、おそらくは寛恕をさえも意味するのです。その上、『敵への愛』を説き――そしてそれを説きながら汗だくになっています。(p50)

http://semi.natura-humana.net/2006/ss/doutokunokeihu.html

「我々は悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えないもの、何人をも傷つけないもの、攻撃しないもの、変法しないもの、復讐を神にゆだねるもの、我々のように隠居している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の媚いであって、我々と同じく、辛抱強いもの、謙遜な者、公正な者の事だ」といって自らなだめる時、この言葉が冷静に、かつ先入見にとらわれることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「我々弱者はなんと言っても弱いのだ、我々は我々の力に余ることは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味は持っていない。(p48)

http://semi.natura-humana.net/2006/ss/doutokunokeihu.html

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