はてなキーワード: ニーチェとは
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
「タクシードライバー」、「機械仕掛けのオレンジ」や「マトリックス」の影響を明らかに受けた殺人事件だって発生してるんだから、猟奇マンガの影響を受けた殺人だったあって当たり前だと思うのだが。ニーチェかぶれが起こした殺人もあるよね。
マスメディアが「猟奇マンガを見てる奴=殺人予備軍」みたいな偏見を煽ろうとしてるから、それに反発するのはわかるんだが、マンガにしろ映画にしろ、何かしら人に影響を与えたいと思って作ってるんだから、その影響が殺人事件という形で現れる場合もあるだろ。その因果関係を調査するだけの価値はある。そこを全否定されてもなあ。「マンガは結局フィクション。殺人事件を引き起こすような、そんな力はない」なんて。
そういう人はマンガを擁護したいんだろう。それだけマンガ好きだということ。
だから「自分の人生に影響を与えたマンガ」を持ってるはず。それなのにマンガが犯罪のきっかけになる可能性があることだけは全力で否定するんだな。
諸君、私は小島よしおが嫌いである。
放送コードギリギリの挙動不審さで蠢く彼を見ていると、その無駄についてる筋肉を本物の熱湯で湯通しして、丁寧にむしり取ってどこぞの犬にでもあげたい衝動にかられる。
しかしながら、そんな私の思いとは別に、テレビで彼を見ない日はなく、「そんなの関係ねぇ」はついに流行語大賞を受賞してしまった。
世を構成する様々な「関係=リレーションシップ」を一刀両断で全否定するこの言葉は、一見切れ味が鋭く心地よい錯覚を覚えるものであるが、
その反面「神は死んだ」と高らかにニヒリズムを宣言することで19世紀という繁栄と安定の時代の終焉の到来を告げたニーチェの混乱を、
この21世紀に繰返す恐れのあるものである。
私は、この言葉の蔓延がもたらす未曾有のカタルシスに恐怖を覚え、小島本人への接触を試みた。
私「どうも。」
小島「ういー。」
私「彼方は、物事と物事の間の関係をことごとく否定して回っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「よろしい。例えば彼方が履いているその海パンですが、その海パンのメーカーとあなたに関係があるのは流石に認めるところでしょう。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「その海パンメーカーには沢山の人が働いていて、糸一本紡ぐのに石油の精製から海パンへの縫製まで、数多の人が関わり、
そして誰かが店舗に運んで、誰かが店舗に陳列したものを彼方が手にとって履いてる訳です。」
小「そんなの関係ねぇ」
私「私は、寧ろこの世の全ての物事には何らかの関係があるのではないか、とすら思っています。」
小「そんなの関係ねぇ。」
私「そして、其れが関係のないものと思えるのなら、そう思うほうが無知なのだととも。」
小「はい、おっぱっぴー。」
私「その『おっぱっぴー』ですら、私は彼方と何らかの関係がある言葉だと思っているのです。
例えば、何故『おっぱっぺー』ではなかったのか、『おっぱっぷー』ではいけないのか。
もっとも、彼方は此れを「オーシャン・パシフィック・ピース」の略だ、としています。
小「はい、おっぱっぴー。(白目を剥きながら)」
私「此れが英語として完全に間違いだということは今更指摘をすることもないと思うのですが、
小「はい、おっぱっぴー。」
私「私は残念でならない。何故、其処で『おっぱい』だと云わないのか、と。
森羅万象を『そんなの関係ねぇ』と言い切るのであれば、何故其れを無意味な混沌である現実に耐えつつ、
自らが現実の新しい意味であろうとする真に自由にして批判的な精神へと昇華していかないのかと。」
小「うぇーい」
私「うぇーい」
と云うことで、小島本人との接触を試みたが全く接点を持たないまま物別れに終わってしまった。
結局、関係という糸で繋いだ服は、裸の王様には見えないのであろう。
私は「イ」の字になって踊り狂う小島を残し、静かに冬の街を後にした。
この表現は誤解を招くと思う。進化論自体は、逆に、人間から優位性を奪い去って、神の似姿、万物の霊長を、ただの猿の一眷属に貶めた代物だよ。そしてまた、彼は進化の遅さ、速さといったものや、優劣といったものも問題にしたけれども、それは淘汰圧や適応から説明されている(例えば、外敵が少ないと淘汰が進まない、など)。そして彼は進化の多様性を認めているし、階梯などといった言葉を使っていても(こうした表現は当時普通に使われていた)、そこで彼が言っているのは、恐らく、進化には無数の方向性があり、あらゆる特性にはそれなりの利点があり、それゆえにそうなったのだと言うこと。少なくとも『進化論』として知られる書は、私にはそう読めた。
でも、どんなものも、第三者の思想によって歪められうる。見るといい。諸行無常、色即是空の思想に生きている筈の坊主共が刹那の色に溺れている様を。解脱の思想が、現世利益の思想へ置き換えられている様を。キリスト教徒の中に、どれほど多くマモンの信徒等々が存在しているかを。ナチスが利用したニーチェの思想が、どんなにナチスと相容れないものであるかを。ダーウィンの進化論自体が問題ではない、それを言うならば、ニュートン力学等々は、もっと遙かに人々を殺すことに利用されて来たし、今も未だ、それは利用されている。
偶然なんて無い、有るのは必然……って言うと、アニメの見過ぎって言われちゃうのは兔に角として。
決定論者であることを告げると、夢の無い人間だと思われてしまうのは何故なのだろう。万物と万象の運命が予め決定されていることが、何故個人の夢の有る無しに繋がるのか、全くもって理解出来ない(量子力学で否定されてる、っていう意見は理解出来るけれどね)。
事物の未来が決定されているからといって、そのことは、人が未来を確実に識ることが出来るということを意味しないし(むしろ不可能であることが帰結されるだろうと思う。未来を識ることで未来に影響を与えることが予め決定されていたというのは矛盾であるから)、この世界において、人とその未来というレベルに限って言えば、決定されていようがいまいが別段大きな違いがあるわけではない。私が今、悲しみを覚えているのが偶然だろうと必然だろうと、私は予めこれを識ることは出来なかったし、私がとある漫画の20巻を楽しみにしていることを変えることが出来るわけでもない。
決定論が影響するのは、もっと別の部分だ。例えば、殆ど全くの落ち度もなく、期せずして陥った何らかの不幸があったとする。物事が偶然であれば、どうしてこの偶然が選ばれてしまったのか、苦悩することになろう。しかし必然であれば、そうなる運命であったのだから、単にその不幸をのみ悲しめばよいものと割り切れる。物事が偶然であれば、自身の存在それ自体が偶然なのだから、死後の虚無に怯えることになろう。しかし必然であれば、自身は単にある時間上においてのみ死という状態にあるのだから、怯えるのはただ死それ自体だけに限定される(ニーチェの言う永遠回帰の恐怖に囚われなければ……)。つまり、余計な感情に惑わされること少なく、或いはそれを抑制し、より心安らかに過ごすことが出来る。更には、必然なる世界を構成する重要な一部分として、世界を愛することが出来るのではないだろうか(世界は自分でもあるから)。
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。 (ビスマルク)
ネタ元:V. E. フランクル 「夜と霧」, ISBN-10: 4622039702, ISBN-13: 978-4622039709, amazonの「夜と霧」, Wikipedia 夜と霧
要旨:生きる目的を、ことあるごとに意識し、現在の悲惨な状態に耐え、抵抗できるようにする。
以下、ほぼ原文からコピペ
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを考える。
生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に経っていることを思い知るべき。
生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとけっして漠然なことではなく、具体的な何かである。つねに具体的なにかであるので、生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらす。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性がある。
生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的なもの。
苦しむことすら課題であり、その意味深さにもはや目を閉じない。苦しむことはなにかをなしとげるということ。
気持ちが萎え、ときには涙する。だが、涙を恥じることはない。涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある。
だが待っているものは、人それぞれちがうので、その人の話をよくきき、未来に彼らを待っているなにかについて、彼らにそれを気づかせる、思いださせる、思いつかせる。
ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造、他の人やその愛など。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことをもふくむのだ。状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。
犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある。しかし、その犠牲についても意味があるのだ。
それ以上に、本田さんも滝本さんも自分の血で書いてるからじゃない?
彼らは自分の言説で自分自身を傷付けてる。ニーチェの言説がブーメラン(永井さん参照)なのと同じで。
深淵を覗き込む者は……じゃないけど、オタクを覗く者は、自らもまたオタクに覗き込まれねばならないんだよ。じゃなければ軽薄になってしまう。たぶん。
もうちょっと読書量を増やそうね……。
こういうだけだとあまりに嫌味なので、具体的にオススメ本を書いときます。「オタク」と「ルサンチマン」で何かを書こうと思うなら、せめて本田透の『電波男』『喪男の哲学史』と、滝本竜彦の『超人計画』くらいは目を通しましょう。あなたのエントリの書きぶりから推察するに、これらの著作の存在すら知らないんじゃないかと思うんだけども。いずれもあなたよりはるかに徹底して「オタク」とニーチェの思想を結び付けて考察しているよ。文章もはるかに上手い(まあ、本田さんも滝本さんもプロなんだから当たり前だけど)。
ルサンチマン道徳とは、奴隷道徳だとか弱者道徳とも呼ばれているもの。以下、ルサンチマン道徳について色々引用。
簡単に言えばルサンチマン道徳は、同情などといった、弱者や、抑え付けられてきた者や、落ちこぼれや知恵遅れの人達が、現実から逃げデカダンスに陥り、人類は皆平等であるべきと考え続け、苦の無い妄想の世界で高みに立って現実を否定して、楽になりたいという願望の元から成り立っています。
「弱者」の奴隷道徳は、「あいつは敵、迫害者だ」だから「あいつはわるい」ゆえに「あいつと対立するわれわれは正しい」という憎悪、他者の否定から悪をモデル化し、その否定、反対者として善をモデル化するとして、後者の善の基礎にある怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ。そこから奴隷道徳の善は、否定の意志、憎悪を常に隠し持っているため、抑圧的、欺瞞的、病的だとして批判するのである。
奴隷道徳とはキリスト教の考えの事であり、ニーチェに言わせると「汝の敵を愛せ」と言うのは非健康的なひねくれた考えだそうです。
その理由は、理想的なキリスト教徒が敵に復讐しないのは愛故ではなく無力故だからです。復讐したくてもできない悔しさを「自分は愛溢れる人間で、敵に対しても寛容な心を持ち下らない復讐などしない。ああ自分はなんて立派な人物なのだろう。」と思い込む事によりごまかしているに過ぎないというのです。要するに態度が美しくてもその人の心まで美しいとは限らないのです。
弱さを嘘でごまかして手柄に変えよう
返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だとやつらが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます。)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分に持っている臆病さそのもの、…、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐することができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、おそらくは寛恕をさえも意味するのです。その上、『敵への愛』を説き――そしてそれを説きながら汗だくになっています。(p50)
「我々は悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そしてその善人とは、暴圧を加えないもの、何人をも傷つけないもの、攻撃しないもの、変法しないもの、復讐を神にゆだねるもの、我々のように隠居している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求むるところ少ない者の媚いであって、我々と同じく、辛抱強いもの、謙遜な者、公正な者の事だ」といって自らなだめる時、この言葉が冷静に、かつ先入見にとらわれることなしに聴かれたとしても、それは本当は、「我々弱者はなんと言っても弱いのだ、我々は我々の力に余ることは何一つしないから善人なのだ」というより以上の意味は持っていない。(p48)