はてなキーワード: 永遠回帰とは
私は日々、自分に訪れるであろう死とはどういうものかと考えている。
しかし、死後どうなるのかは生者には解り得ない。
どのような確信があろうとも、それは「死のこちら側」から語ったものに過ぎない。
たとえ唱えている説が本当であろうとも、生者にはその真偽は確認出来ない。
更に、死後辿る道が万人共通とも限らず、
自我が消え去る者もいれば、そうはならず自我が残る者もいるかもしれない。
生前の世界では全く語られる事の無かった未知の世界に行くのかもしれない。
それは叶わない事かもしれない。
死して尚自我が残っていた時、私は本当の意味で絶望するのかもしれない。
そしてまた生前と同じように自我を消滅させようと模索するのかもしれない。
この事はもう何度も繰り返されているのかもしれない。
私にはそれを知るすべは無い。
偶然なんて無い、有るのは必然……って言うと、アニメの見過ぎって言われちゃうのは兔に角として。
決定論者であることを告げると、夢の無い人間だと思われてしまうのは何故なのだろう。万物と万象の運命が予め決定されていることが、何故個人の夢の有る無しに繋がるのか、全くもって理解出来ない(量子力学で否定されてる、っていう意見は理解出来るけれどね)。
事物の未来が決定されているからといって、そのことは、人が未来を確実に識ることが出来るということを意味しないし(むしろ不可能であることが帰結されるだろうと思う。未来を識ることで未来に影響を与えることが予め決定されていたというのは矛盾であるから)、この世界において、人とその未来というレベルに限って言えば、決定されていようがいまいが別段大きな違いがあるわけではない。私が今、悲しみを覚えているのが偶然だろうと必然だろうと、私は予めこれを識ることは出来なかったし、私がとある漫画の20巻を楽しみにしていることを変えることが出来るわけでもない。
決定論が影響するのは、もっと別の部分だ。例えば、殆ど全くの落ち度もなく、期せずして陥った何らかの不幸があったとする。物事が偶然であれば、どうしてこの偶然が選ばれてしまったのか、苦悩することになろう。しかし必然であれば、そうなる運命であったのだから、単にその不幸をのみ悲しめばよいものと割り切れる。物事が偶然であれば、自身の存在それ自体が偶然なのだから、死後の虚無に怯えることになろう。しかし必然であれば、自身は単にある時間上においてのみ死という状態にあるのだから、怯えるのはただ死それ自体だけに限定される(ニーチェの言う永遠回帰の恐怖に囚われなければ……)。つまり、余計な感情に惑わされること少なく、或いはそれを抑制し、より心安らかに過ごすことが出来る。更には、必然なる世界を構成する重要な一部分として、世界を愛することが出来るのではないだろうか(世界は自分でもあるから)。