はてなキーワード: イコールとは
自分と同じ非モテの元増田がハイスペックエリートだったらいいなっていう妄想?
どこからもそんな匂いしないよ。こんな風に勘でものを言うやつが、
うん?
大学受験もバッチリで在学中になんかいい資格とったらしいという彼(彼女?)は
自己申告が嘘じゃなけりゃハイスペックでエリートな気がするけど。
書いてあることをソノママ取ると。
匂いってなに?
この程度の誰にでも読み取れそうな憶測を許さないってのはどういうこと?
私の場合の話すると、親友も恋人もいるけど超協調性に欠けるよ。
自覚してるしみんなに言われるw
横からだけど同意してないじゃん。
面倒だから言わないってのは、職業をいうと面倒なことが起きるって言っていて
イコール、職業によるメリット・デメリットがあるって、言っているよとツッコミ。
気持ちの問題だけど、自分の職業に自信を持てていること(実際の業種ではなく)は重要だろうし
まぁ、マスコミ関係とか、言いやすい職業なのはメリットだよね。第一印象程度だけど。
金はなくてもなんとかなるけど、あれば、服や髪に時間をかけずにかねかけることができるようになるし、チャライ飯を食いに行けるという手はカードとして選べるし、あってプラスかマイナスか?といわれればプラスだろ。
無くてもなんとかなるって話と、有れば有利になるって話は別だから
あなたがたが通うことになる早稲田大学は、1学年につき約1万人ほどもの人が通うマンモス校だ。当然いろんな人がいる。いろんな出会いがあり、いろんな出来事が待っている。
それは数ゆえの、そして早稲田という土壌を目指したある種の人々が織りなす一大青春劇! である。
その劇中でどのような役割を演じるのか、どう動いていくのか、というのは、個人の意識に依るところが大となるのはもちろんのことだ。
しかしもう一つ、大きな脅威が、早稲田で暮らす者たちを待ち受けている。
それは学友たちでも、教授がたでもない。左翼や宗教の勧誘でもない。
最大の敵にして、現在の学生が抗えず、また抗おうともしない相手…… 『早稲田大学職員』である。
四月一日の入学式に向けて、すでに東京入りしている新、一年生も多いことだろう。
大学側から公布された大学全体の入学式、そして学部入学式。科目登録の日付を手帳に記して、新しい日々に夢を膨らませているかもしれない。
マイルストーンを購入して、授業やサークルの情報を読み込んでいる人もいるだろう。
大学生活の日々を活力にあふれたものとするものの最有力候補、サークル活動。 私もこの大学の四年間は、イコールサークルでの四年間であった。
早稲田大学に存在する、公認、非公認問わず全体で数百にものぼる数のサークルたちは、春になると例年のごとく、戦争に突入する。
入学式に参加する新入生に甘言の羅列されたビラをバラまき、大学構内にブースを並べてカワイコちゃんをはべらせ、新入生はタダだと謳い飲み会に誘う。
あらゆる手練手管でほかより多くの新入生を取り込み、その戦力を強化せんとせしめる。
その争いは熾烈を極める。走り来る自動車を物ともせず、警備員は総シカトである。新入生が手を差し出そうものならば、いたいけな彼(彼女)が思った10倍のビラが返ってくるとみてよい。
すべてが去ったあとには、踏み散らされた哀れな紙吹雪しか残らない。
これが通過儀礼であり、また儀式を遂行する首長たちの姿なのである。
ところが近年、この自然な営みを圧迫する、大きな陰が早稲田大学を覆いはじめている。
この『新入生歓迎』行事という儀式の姿を、根本から変えようとする勢力が、早稲田大学には潜んでいる。
さながら中世における西洋からの侵略者。その圧政の影響は、私が入学した頃からこの儀式の様態をたどれば明らかだ。
私が入学した2006年、新勧活動における最初の洗礼は、(事前に大学に来たものでなければ)戸山キャンパスの正門である。
新入生は、全体入学式をうけるために正門から体育館まで歩くことになる。その道は数多の上級生によって作られ、
体育館に入るまで、両脇に並んだ上級生にビラを渡され続ける。一度手を出したが最期、その上に積み重なること山のごとし。
次の年、2007年以降、戸山キャンパスにおける以上のような新勧活動は禁止された。
基本的に、大学での新勧活動は、大隈講堂で行われる学部入学式か、大学構内に構えたブース、そして戸山キャンパス脇にある学生会館内に限定される。
早稲田に(ほぼ)初めて訪れた新入生を圧倒し、勢いでサークルに勧誘するという極め技を奪われたのである。
この時点で、上級生、そして新入生においても、話術があまり得意でない者が、新たな繋がりを得る可能性が一つ、失われたことになる。
翌2008年は、私も幹部学年として新入生勧誘にあたっていた。この年については、あまりに忙しすぎてよく覚えていない。
さらに翌年の2009年は、就職活動で忙しくあまり顔を出せず、覚えていない。
そして今年、2010年度の新勧活動は、著しい制限を受けることとなったようである。
それは、新勧活動を許可される時期の早期化だ。
例年の新勧活動は、4月1日から一週間弱ほど行われていた。
それが今年は、3月30日から4月3日までしか許可されないというのだ。
この、『許可』というのは、大学構内でビラをばらまいたり、ブースを設けることが出来る期間であって、各サークルが独自で行う飲み会や、部室においての新勧活動を含むものではない。
しかし、より多くのサークルに、よりオープンな感覚でもって接することができるのは、野外に設置された、「誰でもカモン」「誰でも見やすい聞きやすい」ブース、そして数多くの勧誘員とふれあう『新勧活動期間』である。
入学式が始まるのは、例年通りの4月1日。
この始まりの日よりも前に、誰が早稲田大学を訪れるだろうか。
もちろん、いち早く情報を得ていたり、気の早い者、モチベーションの高い者、行動力のある者は30日から大学へ向かうだろう。
しかし早稲田大学は、そのようなものばかりでもない。
多くの新入生にとって、学生生活を充実させるはずの素敵な出会いが失われること、必定。
このような 改 悪 を決定したのは一体どのような勢力なのか。血気盛ん、天下無双のアウトロー集団たる早稲田大学の学生たちに、このような理不尽を強いることが可能なのは誰か。
それが、 早稲田大学職員 なのである。
彼らは私たちの学生生活を陰から監視している。
私たちの親から余分なほどに吸い上げた養分で腹を膨らまし、私たちの自由を、青春を、なんの考えもない規制によって締め付ける。
これはなにも、新勧活動に限ったことではない。
学生会館は彼らによって完全に管理され、開館時間や部屋の利用、部室の使用権まで、私たちは「与えられている」状態だ。
夜22時まで残っていれば、わざとかと思うほどにいやらしい警備員の館内放送を聞くことになるだろう。
大学のネットやシステム関係はザルで、少しでも変な登録、操作をしようものなら部室のキー登録が消え、ネットの使用が不可になる。
迅速なアフターケアはない。
大学で授業があっている時間は、09:00から21:30である。
彼らは0900から1700までしかいない。
一般企業、大企業、公務員、など様々な職種への就職活動を支援する就職課の職員は、どう見てもエキスパートに見えない。
なにごとにも融通が効かない「お役所仕事」。これが、すべての職員に通じる言葉だ。
そして少し調べればわかることだが、彼らは、 なかなかに、 高給取り である。
彼らは私たちの大学生活に必要なものではあるが、不必要な部分もおおいにあるように、私はこの四年間で感じた。
このような、決して便利ではない、しかし不可欠な大学職員が早稲田大学には巣食っている。
彼らはこれからも、私たち学生たちの自由をせばめ、彼らの怠慢を増やしていくのであろう。
そのことに気付かずいや、気づかないフリをして、「円満」に学生生活を送ることは可能だ。
しかし、私たちは入学した時点で、すでに既得権益によって不自由を強いられている。その事実は、決してなくならない。
私たちは、戦うにしろ、無視するにしろ。 それを知った上で、自分なりの行動をとることを迫られているのである。
………………だから、 新入生のみんな、 3月30日から、新勧活動やってるので、早稲田大学にきてね! (私は卒業しているのでいませんケド
*大なり小なり、様々な誇張を伴なう表現を駆使しておりますが、言いたかったことは結論の一文くらいです。すべてが真実であるという保証はありません。
http://anond.hatelabo.jp/20100322070125
まあいろいろあっても本音はそんな感じだよね、って思いながらブクマ開いたらちょっとくらくらしてしまったので、わたしも増田になってみたよ。
「友情」と簡単に言うけれど、そもそも「友情」って、どういう感情のことをそう呼ぶのか、自分の抱いているこの気持ちは本当に「友情」なのか、もしかしたら何か他の気持ちをごまかしてそう呼んでいるだけなのではないか、そういうことを少しでも考えたことはある?
たとえば高校生とか大学生の男女間でしばしば交わされるこの約束。
「男とか女とかそういうの抜きにして、お互いに一人の人間として仲良くやっていこう」
別にこの言葉が青臭いと言って否定はしない。
でも、もしあなたに、この言葉が含む矛盾を拾い上げることができないのなら、「男女間の友情」を語る資格などないとわたしは思いますよ。
だって「男であること」「女であること」も含めて、一人の人間でしょう。
「男であること」「女であること」を抜きにしたら、その人はその人でなくなるし、あなたもあなたではなくなるんだよ。
たとえ思春期・第二次成長期を迎える前の、一緒にお風呂に入っててもおかしくないような小さな子ども同士であっても、この約束は成立しない。
だって、生まれたときから男性は生物学的に男性なのだし、女性は同様に女性だからだ(ただし性同一性障害の方についてはこのように単純に断言することはできないが、あくまで自己認識としての性をイメージしていただけたら、と思う)。
ああ、思春期以前の子どもにはエロ衝動がないなんて思ってる人がいたら大間違いだからね。
知識がないだけで性欲はあるんだよ。
そりゃ現れ方は大人よりダイレクトだったり、大人よりかわいらしかったり、いろいろあるけどね。
また、同性愛者についても相手が同性に変わるだけでおおまかな話は同じだ。
いつから同性愛者だったのか、生まれたときからなのか一年ぐらい前からなのか、それもあんまり関係ないと思う。
で、上記約束によってマブダチとなった男女、何しろ波長が合うので話しても話しても話が尽きない。
他の男の子には話せないけどこいつにだけはなぜだか何でも話せる、みたいなそういう関係ってありますよね。
んで、今度いっそのことパジャマパーティしようよ!夜を徹して語り合おうよ!って話になります。
もちろんエロい展開になどなろうはずがない。
だって「男とか女とか抜きにして」仲良くしてるんですから。
相手はお互いにとって男でも女でもないニュートラルな存在なんだから。
さて友人A子がそういうことで今度そのマブダチのB太郎の部屋に泊まりに行くと聞かされたあなたはどう感じますか?
「まあ正直ちょっとだけ心配だけど、B太郎も信頼できるやつだし、普段の二人を見てる限りそんな間違いなんて起こらないよね。本人同士がそういう関係って認め合ってるんだし、それを尊重するべきだよね」
ぐらいなもんでしょうか。
なぜ「正直ちょっとだけ心配」なの?
あるいは
「いくら男女関係ないって言っても、それとこれとは別だよ。A子だけじゃなくB太郎のためにもやめといたほうがいいよ」
と忠告しますか?
あるいは
「またまた友達とか言いながら、もうB太郎のティンティンもフラグもビンビンじゃん!お幸せに☆」
と勝手に二人が「男女の仲として」結ばれちゃう想像をしますか?
そして、泊まりに行くのが同期の女友達「C美」の部屋だったときは、あなたは同じように心配したり忠告したり妄想したりしましたか?
しませんでしたね?
この場合、B太郎、A子、C美は全員異性愛者と仮定してください。
同性愛者を登場させたい場合はその人のところを別の性に差し替えて読んでみればいいと思います。
それともそもそも、A子はB太郎とのパジャマパーティなんて企画しないのでしょうか?
なぜ?
同期のC美とはやってるんです。
マブダチのB太郎とならやったっていいはずですが。
なぜ?
さらにB太郎視点でも考えてみます。
仮にB太郎がA子の提案に「いいよ、おいでよ」と、もちろん下心などなしに(ここもわたしとしては疑問符がつくところですが、まあそれはいいです)快くA子を招いたとして、A子がしゃべり疲れて先に寝ちゃって寝返りを打った拍子におっぱいが露出したときに、B太郎は欲情せずにすむのですか?
「うわっ!!あああやべー、変なところが元気になってきたあああ!!俺は何欲情してんだ!相手は大親友のA子だぞ!最低だ俺!最低だ!」
と、アスカで自慰をしたシンジ君のように自己嫌悪に陥るかもしれませんが、まあとにかく欲情はします。
しますね?
たとえA子が恋愛対象になるのはあまりにアレな外見だったとしても、無防備なおっぱい露出を前にしてまったく変わりなく平然としていられますか?
その自信はありませんね?
これがもしB太郎と同期の男友達D男だとしたら、寝返りの拍子にその逞しい男性器があらわになったとしても、せいぜい大笑いしながらぞうさんをマジックで書くぐらいでしょう。
これがA子のおっぱいなら、いくら仲が良くてもA子がたとえマツコデラックスであっても、乳首部分を中心としてマジックで目玉おやじを書くことなどできないはずです。
なぜですか?
あるいは最初からA子の提案を飲まない可能性もありますね。
なぜ?
いきなり「C美」とか言いながら詰問されても、某有名大御所はてなーの名クイズシリーズをパクってるみたいで相当印象悪いと思いますが(ごめんなさい)、答えは言うまでもなく「A子とB太郎が互いに異性だから」ということです。
つまり、男女間の「友情」と同性間の「友情」は、違います(繰り返しますが、同性愛者の場合もまったく逆の意味で違います)。
どう違うか?
性的対象となるかどうか、に決まってるでしょ。
相手が「自分にとって性的対象になる性を持つ存在」である場合、そうでない存在と同列に考えることはできません。
お泊まりの話はそのひとつの例ですが(勢いだけで殴り書きしたのではっきり言って蛇足ですが)、何より冒頭に書いたように、男性であること、女性であることも含めてA子であり、B太郎という人だからです。
で?だから何?という話ですが、ではそのように、異性間にある「恋ではない(と当人は思っている)のだけれど親密な感情」は、同性間の「友情」と同じように「友情」ということばで括ってよいものなのか?とわたしは思うわけです。
つまり、性的要因による互いへの配慮、あるいはそれによるある種の葛藤が不可避である(別に不可避ではない、そういう状況にははじめから遭遇しない、との反論も予想されますが、厳密にはやはり不可避です)男女の親密な関係を「友情」という言葉で定義するのは、あまりに乱暴なのではないか?それは人間関係を自分の中で熟成させるうえでひとつの精神的怠慢と呼ぶべき事態なのではないのか?ということです。
ここであの「友達以上 恋人未満」という魔法のキーワードが出ます。
しかしこれはほとんどの場合、いずれ恋愛関係に発展することが見込まれている関係です。
よって、これは「友情」という言葉の定義にかかる問題とは切り離していいと思います。
では「お兄ちゃんみたい」「お姉ちゃんみたい」「弟みたい」「妹みたい」といった家族愛に似た親密さはどう扱うべきか。
これは「相手を異性とは認識しているが性的欲求は感じていない」ということです。
しかし異性として認識しているのなら上記のようにおっぱいに目玉のおやじの落書きをしたりすることはできませんので、ていうかそんな落書きをするような人がこの世にいるかどうか知りませんが、注目すべきはあくまで「みたい」どまりで、本物の家族ではないことです。妹のように純粋にマスコット的にかわいがっていたロリ美少女が寝返りの拍子に意外とたわわなおっぱいを露出させたら、やはり一瞬でも吸い付きたい衝動に駆られてしまうのが男なのではないでしょうか。これが実の妹に同じような衝動を感じてしまうのであればちょっといろいろ人として違うと思うのですが、良識的なはてな村民にそんな人はきっといないと思います。
とにかく男女の関係とは多重的で、ひとつのことばでビシッと定義できるものではないように思います。
自分の話になりますが、わたしには学生時代からずっと連絡を取り合っている友達が何人かいますし、彼らのことを「人間的に」大好きです。
男も女も。
しかし、ふとした拍子である男子と図らずもエロい雰囲気になってしまい、その場はなんとか未然に取り繕って今はまた前と同じように仲良くしていますが、それ以降、ふたりの間に「例の件はタブー」との暗黙の了解ができ、同時に、再発を避けたい気持ちと、何かこう、アバンギャルドを互いに期待する空気が混在して変にややこしいことになってしまっています。
付き合いが長くなればなるほど、そして関係が密なほど、こういうハプニングで意識せずもがなのことを意識せざるを得なくなります。
これでもわたしと彼の間にあるのは「友情」と呼べますか?
わたしたちが「友情」と言い張れば、そうなるのでしょう。
しかし、本当にこれが「友情」ですか?
わたしには、これを「友情」と呼ぶだけの図々しさは持てません。
でも、仕方ないと思います。
男は女に性欲を持ち、女は男に性欲を持つようにつくられている以上、こういうきっかけは世の中に無数に転がり続けているのです(くどいですが、同性愛者については読み替えてくださいね)。
あるいはわたしのように生々しい性欲でなくても、相手を「異性であるがゆえに」親しく感じたり、大切に感じたりする気持ちも、性欲に由来するものです。
恋だってもちろん。
それらがほんの少しでも混じってしまうと、その瞬間から二人の間にあるものは「友情」ではなくなっていきます。
異性に、明らかに恋愛とは異なるのだけれども好意的な感情を抱くことがあります。
たとえば「尊敬」とかです。
でも「友情」とは、違いますよね。
両立することはあります。結構よくあると思います。
しかし、イコールではありません。
じゃお前にとっての「友情」って何?って話ですが、「愛」の一種だとわたしは思っています。
相手の存在を大切に思い、相手の幸福を願い、ともに過ごす時間を大切に思う、簡単に言うとそういうようなことで、性欲さえなければ男女間にも十分に成立する余地はあると思うのですが、やはり性欲がある以上、男女間でこういう関係を長期間育んでいくのは難しいというのがわたしの考えです。もう眠いので寝ます。
http://anond.hatelabo.jp/20100317155623
この記事読んでて引っかかったのがこの引用だったのね。
性同一性障害という同じ位置づけで、子どもたちに対する性暴力を好む人たちを逃がしていくとしたら、障害という見方、認知障害を起している人たちという見方を主流化する必要があるのではないかと思うんです。
で、元を読んでみたんですよ。これね。
http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/pdf/09_singi/28b8giji.pdf
上と同じあたりを(話し言葉を書き起こしてあるので、日本語として変なところはあるけど)そのままここに引用します。
性同一性障害と同じような位置づけで見ていくことが大事という議論があったんですが、大変深いところになると思うんですけれども、どう考えても社会からの集団暴力になってしまう、このまま放っておくと、被害にあった子どもたちに対して生き殺しというか、集団暴力以外の何ものでもないと思うんです。そのために何をするかというところで、こういったものが世の中にはあるよね、不潔で気持ち悪いし本当に嫌だけどあるよねというところが現状、育児をしているものたちのリアリティで実感です。
例えば児童に対する児童ポルノの愛好者の人たちが児童に悪影響を与えるとか、漫画のひどいものが出ているといったら、その人たちはある障害を持っているんだというような認識を主流化していくことはできないものかというのを、お話を聞いていて思いました。
この人「障害」っていう言葉の意味をなんだと思ってるんだろう。性同一性障害と「児童に悪影響を与えるような児童ポルノ愛好」を同じようなものだと見なしてるってことなのかな?
ていうか、性同一性と性嗜好は別のものなんだけど、それもわかってないんだろうか。
(たとえば、生物的に女性・認知も女性・好きなのも女性のレズビアンと生物的に女性・認知は男性・好きなのは女性のオナベさんの違いっていうのは性同一性の違いとか、そいういうことです)
あと、ここでいう「性嗜好」とロリコンとか看取り専とかブス専とかクマ専とかそういう好み的な嗜好とはまた別ね。
ちなみに俺には「性同一性障害と同じような位置づけで見ていくことが大事という議論」が議事録内に見つけられませんでした。
この辺じゃないかってのがわかる方是非教えてください。
いや、性暴力は否定されるべきでないって他にとりようがないでしょ。
とまで書いてるんだし。
性欲は異性に向かうだけのものではないし、性行為≠性暴力。
そこを勝手にイコールで結んで、一方的に暴力をふるう人(性暴力の加害者)の存在が問題になってるわけでしょ。
そしてそうやって暴力をふるって加害者になるのは大体強者の立場にある人で、だからこそ強者の理論で性暴力が肯定されてて弱い立場の被害者が一方的に泣き寝入りするばかりだったけれど、そんな弱肉強食万歳な社会だと結局トータルとしては生きづらいから性暴力はいけないという概念を浸透させて悲劇を防ぎましょうという方向に世間が向かってるのに、それに抗おうとしてるだけだよね、この意見は。
彼は絵に描いたような潔癖性であり、ドアノブやエレベーターのボタン、コピー機のボタンなんかを触るとき、いちいちハンカチ越しで触る。
だからといって机周りの散乱状態を見ると、潔癖イコール整理整頓できるとは違うのだなあとかおもう。
他人の家の清潔状況?(例:枕カバーやバスタオルは週何回洗うか、そもそも洗濯頻度はどのくらいかなど)を聞き、それが自分の「基準」に合ってないと小学生のように「えー、きったなーい!」とフケツ呼ばわりする。確かにお宅の高性能洗濯機や洗濯頻度は素晴らしいかもしれんけど、毎日洗濯するのどうせ共働きの奥さんでしょ(注:フェミニズム云々の話ではない)。
食事にもこだわる。コンビニ食なんてもってのほか。他人の出張土産も「添加物豊富だからそんなもん食えん」と断る。でも、話聞くと家で食事作るのは奥さん。
そんな感じでいろいろこだわってるわりには真っ先に風邪を引いて会社を休む。あんだけ菌をシャットアウト(したつもり)で・・・?あんた、ずっとマスクつけっぱなしだったよね?
そのくせ、自分が風邪引いたときは毎回マスクをつけず、ゴホゴホすごい音の咳をする。周りに菌をばらまくのは平気なのか!昨日、一昨日もゴホゴホでっかい音で咳をしていた。
そして今日。「なんか風邪引いたっぽいんだよね」・・・・・・普段は健康体な自分の上司からそのセリフを聞いたとき、「感染原因は、あいつじゃないか?」と疑った。そりゃ風邪菌ぐらい、どこからでももらう可能性はあるが、ヤツと近い席で一日じゅうゲホゲホされてるんじゃ、疲れてるときなんか危ないだろう。
ヤツは自分の直属ではないものの、いちおう上司ではあるから我慢しているが、今日たまりかねたのでその一部をここで愚痴らせてもらった。明日から出張だという自分の上司の風邪が治っていることを願いながら。
まず「広い」って言葉を単純に人数という意味で捉えちゃってるところから見直した方がいい。
人数が多くても特定の人種としか付き合えないやつは交友関係が広いとは言えない。
色んな種類の人間と深く付き合うことができて初めて社会性・人間性に長けていると言える。
「一部」というのが「特定の人種」という意味であれば、似た者同士で馴れ合うのに高い人間性なんて必要としない。
自分と違う人種に対しても理解を示せて、深い人間関係を構築できるかどうかが肝心。
何故、イコールになるの?
それはただ単にその人が誰でも良いだけなんじゃないの?
人を愛せる人は人からも愛される。逆もまた然り。
いつのまにか「社会性・人間性が優れている」が「友達関係が充実している」にすり替えられてる罠。
いつも決まったメンツとだけつるんで仲間といるときはワイワイやって
それは友人関係が「広く浅く」か「狭く深く」であるかの違いでしょ。
いつも違ったメンツと遊んでいる人なんてみたことない。
交友関係が「広く浅く」の人のほうが社会性はあるかもしれないけど、人間性が必ずしもあるとはいえないと思う。
交友関係が広くなればなるほど、一人一人ととれるコミュニケーションの濃さが希薄化するのは必然。
たくさんの人と浅い人間関係を構築するより、一部の人と深い人間関係を構築するほうが高い人間性を要すると思うけど。
社会性・人間性が優れていてストライクゾーンが狭いってのは一見あり得そうだけど矛盾している。
何故、イコールになるの?
それはただ単にその人が誰でも良いだけなんじゃないの?
いつのまにか「社会性・人間性が優れている」が「友達関係が充実している」にすり替えられてる罠。
いつも決まったメンツとだけつるんで仲間といるときはワイワイやって
自分はコミュ力高いと思いこんでるやつ多いけど、それ社会性にも人間性にも直結しないからな。
社会性・人間性が優れていてストライクゾーンが狭いってのは一見あり得そうだけど矛盾している。
他者との関係性を構築するのがうまい人間は、愛される術だけでなく愛する術も心得ているっつーことだ。
というかその2つはイコールと考えても良い。これこそがまさしく非モテに足りないもの。
恋愛ができなくても人と上手に付き合っていくことは可能だと反論する非モテがいるが、
完全に上記の例のように狭いコミュニティで笑いを取り合って
それなりにコミュ力を持っていると勘違いした非モテの理論です。
人と上手に付き合える人、人を上手に愛する術を持った人が、恋愛に限って、異性に限って
上手く愛せないなんてことは特殊なケースを除いてはあり得ないんだよ。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100228_kcua2010/
俺は、入学試験は「その学校で教育を受ける上で必要な能力/意思があるかどうかを測るもの」だと思う
これは自分の視野内での考えだけど、最近の入学試験って「受かる為だけにどれだけの努力をしてきたか」になってる
いや、勿論それは「その大学へ入りたいっていう意志の強さを測る」って意味では至極真っ当な方法ではあるんだよ
けど、それは「入りたい意思/入れる能力」であって「そこでの教育を受けるに必要な意思/能力」とは限らない、必ずしもイコールではないと思う
流れを無視しまくってなんか2chのスケート板とか見てたらもやもやしたので、
バンクーバー五輪男子フィギュアスケートシングルの感想をまとめてみる。
まずはライサチェックの金メダルについて。
これは別におかしい結果ではないと思う。
彼はたしかに四回転という挑戦はしなかったが、
ジャンプをすべて決めるというプレッシャーを超え、ノーミスで演技した。
スケヲタとか詳しくないので分からんが、その他の技術についても文句は無い出来栄えだと感じた。
はっきりいって精彩に欠けた演技だった。
プルの熱狂的なファンだけど、今回の演技は他の選手と比較したときに見劣りすると感じた。
その原因は乱雑な印象を受ける演技。ジャンプ4-3、クワドは確かにすばらしかった。
バランスを崩し他の選手ならば着氷できないだろうシーンでも、確実にジャンプを決めるなど高い技術力はすごい。
けれど、全体的な演技の質が低い。ジャンプから次の動きへのつなぎ、その他ひとつひとつが魅力が少なかった。
全盛期の彼自身と比較して、今回のオリンピックの結果を論じるのは違うのかもしれないが、
彼の演技の質がいまいちだったことは、他の人も感じたんじゃないだろうか?
4回転を飛ばないチャンピオンなんてありえない!とか今の採点基準を批判する流れもあるけれど、
総合的に見て、今回のプルシェンコの演技は金メダルに値するものじゃなかったと思った。
そもそもノーミス・無難な演技を重視するなら、なぜジョニー・ウィアーではなく四回転に失敗した高橋(もっといえばジャンプにも失敗した地元パトリック・チャン)が3位だったのか?疑問は残る。
日々進化するスポーツ界において、チャレンジを評価しないというのは競技自体の未来を先細らせると思う。
けれどそれと今回の結果を単純にイコールで結び付けるのには、違和感が残ると思った。(というか今大会の採点には少し違和感があるけど)
とか、なんだかんだ素人が硬い口調でいっぱい言たけど
みんな良いスケーティングで感動をありがとーってことで!怪我した選手もいないっぽくて良かった良かったー。
でもADSLの爆笑だったらしい演技を見逃したのが心残りだなぁ、きっと再放映もされないw
私が上手くゆかなかったのは、ひとえに他人と上手く関われなかったからで、もし大学院に行ってもう一度新卒で就活したとしても、また同じ事の繰り返しになるんじゃないだろうか。
もし、内定がとれたとしても、会社に入ってから他人と上手く関わることが出来なければ、上手くやっていけないんじゃないだろうか。
そう考えたら、新卒にこだわるよりも、他人と上手くやっていく方法を探すべきなんじゃないか。
そもそも「新卒」ってなんなんだ?
そう考えた私は、とりあえず増田上部の検索欄に「新卒」と打ち込んでエンターキーを押した。順序が間違っている気はするものの。
まず目につくのは、やたら自分語り、身の上話が多いということ。
それも当然の話で、新卒イコール就職イコール人生のターニングポイントであり、人生の話が出てくるのは必然だ。この日記もほとんど自分語りである。
次に、面接マニュアルみたいな話。こーゆー話をしたがる人って、どーゆー神経してるんだろう。ぼくにはとてもできない。
それから、とにかく新卒で就職できないと大変なことになるらしい。30過ぎてフリーターとかニートとかになるらしい。でもそれって本当に新卒が悪いんだろうか?
また、新卒で入社できない人間は社会不適合者であるらしい。果たして本当だろうか?
漫画家の山田玲司は「非属の才能」という新書の中で「社会不適合者はみんな天才だ!(意訳)」という、なかなか論理的にもぶっ飛んだ自説を開陳していた。
なるほど、確かに成功者には一時的に社会からドロップアウトしたような人も多い。例えばアップルのスティーブ・ジョブズなんかは、大学を数ヶ月で退学している。
しかし。しかしである。
世の中の一般的な人、平凡な人、普通の人、人並みな人、日塔奈美は、みなちゃんと大学を卒業して、新卒で内定を貰って働いているのである。不況の今年でさえ、六、七割の学生は内定を貰っているのだ。
そもそも、有名人に社会不適合者が多いのは、その個人的才能が突出していることによって一時的に社会から疎外され、後にその個人的才能によって有名人になったのではないか。
そういった有名人と、個人的能力が不足していることによって社会不適合となった人間を、同列に語るのは間違っているのではないか。
増田を「新卒」で検索すると、今現在フリーターをやっていて、作家になりたい、という人がいる。
しかし、ただ単に社会不適合であるというだけで、作家になることは出来ない。
何らかの特殊な経験を経ただけで、特殊な表現が出来るようになるわけではない。例えそれが戦争で前線に送られた人の自伝的小説であったとしても、つまらない小説はつまらない。
自分が特別であると思いこんではいけない。
じゃあ果たして、新卒で失敗した私は特別なのであろうか。
大卒で六、七割ということは、同学年で正社員として働いている人はもっと少ないんじゃないか?
六、七割のうち、会社になじめずに退社して第二新卒になる人はどれくらいいるのだろうか?
本当に私は、特別なのだろうか?
私にはまだ、自分がどうすべきかわからない。
追記:トラバしたくなった