2024-09-03

怒りへの共感の難しさ

どうして多くの人は怒りに身を任せてしまうのだろうか?

昨今、SNSには多くの怒りがあふれている。

失言や失態への怒りや、他人への義憤に駆られたケースも少なくはない。

特にtwitter(現X)では、怒りのトレンドを一度触ろうものなら、とめどなくおすすめタブに「怒り」が流れ込んでくる。

最近自分SNSにおいて、人の怒りに不快感を感じることはあっても、共感することが苦手であると気が付いた。

特に集団で怒りを共有することがとても苦手だ。

これは冷笑ではなく、「他人感情をそのまま飲み込むこと」への気持ち悪さを感じるためである

そもそも怒りとは、物事に対して自分価値観判断した結果、生じるものである自分は考えている。

しかし、現在twitterを中心にあふれているのは、「自分判断しているように思っている」「他人価値観を借りた怒り」がとても多く感じる。

「~さんが言っていた」「RT(RP)で回ってきた」などのきっかけで怒りを持つようになり、いつの間にか主語が「〇〇する人は」「××界隈では」という非常に大きなものとなる。

結果、何かに怒り続けるコミュニティが完成する。

怒りのもとは、元ソース検索判断価値観を、自分主体ではなく、コミュニティから回ってきた借り物を使いまわす形でだ。

借り物の怒りでは、先述の通り、自分という主体性が限りなく薄められている。

共有された価値観を使っているにもかかわらず、あたか自分自身判断で怒りに到達したかのように振る舞い、発信をする。

このような、自我が薄い怒りに自分気持ち悪さを感じる。

とはいえ、完全に自身主体性のみというのは難しいであろう。

常識とは、18 歳までに身につけた偏見コレクションに過ぎない。」という言葉があるように、自分主観性他人の借り物で構成されたものであるともいえる。

だが、思考を止めてしまったら最後、流されるがまま落ちていくのが定めである

ゆえに、悪意の洪水の中であろうとも、自分の考えを持たなくてはならない。

追記しかし、極まったコミュニティでは考える・情報収集するにフィルターがかかっているのが難しいとも感じてしまう……

  • 怒り以外もあんまり?

  • そういう考え方ができるあなたはネット耐性が強いんだと思う インターネットの多くの人はXのタイムラインその他SNSに流れてくる自分の仲間たちの意見・感想と自分の意見・感想の区別...

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