2023-06-20

リバタリアン自由妥協を求めても無理な話

 (某所で)多少の文字数でもって何らかのharmを論証することは不可能であるという術中に嵌まっている者が多い(必要なのは個別問題であり、ディティーである)。ただ、それ以上に、「自由至上主義者に、それ以外の価値との調和を求めても無理な話であろう。

 憲法21条だとかFirst Amendmentの話をしたいわけでもないくせに「表現の自由」とラベリングして、無用の混乱を捲き起こしているのが本邦Civil Libertalianの一番の害悪ではないだろうか。「表現の自由」の保護は当該表現が持っている価値依存することになるし、公権力による規制私人活動については分けて考えねばならないという、憲法解釈上当然の話が通じないのはそのせいである。

 むしろ、あらゆる私生活における放縦に対して公権力による規制も、言論ないし行為による批判も許容されるべきではないというリバタリアン観点※が背後にあるのだろう。もっとも、たいていの者はここまでラディカルな想定※※はとっておらず、自己にとって好ましい放縦規制批判も許容しない、というものであろうが(そこがまた了解困難なところであり、真面目に取り合うべきではない)。

 個人的に疑問を感じるのは、真面目に上記のごとき自由」論に立てこもっても、逆にその価値を共有しない者を説得することが難しいという点にある。現実規制廃止論として役に立ってくれないのではないかと思うのだが。リバタリアンにあらざる者に、リバタリアニズムを受け入れろと言っても無理な話である

リバタリアンといっても色々な考え方や基底となる価値があることは重々承知の上。a libertalian viewという趣旨

※※たとえば合衆国リバタリアンは、シートベルトの着用強制も認めないことがある。「馬鹿やって死ぬのも自由」というわけである。そこまで(本気で)突き詰めている者を説得することは難しい。価値観の対立であり、神々の争いだからである

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