(メモ)支援する側とされる側の関係のありかたの問題がよく語られる。
大事な問題だとも言えるし、そこの難しさなんて誰でも知ってることで大事なのはその先の具体策をどうするかだ、とも言える。
支援に携わる個人の心構えとか態度とか人間性の話に矮小化してはならない。
困難を抱えた当事者がSOSを出しにくいのは、当人にとっての重大事を知らない大人に触らせるのが怖いから…
そういうのもあるだろうが、最大の理由は「頼ったところで、何が得られるか全くわからないから」だろう。
その人が何をしてくれるかはその人がどういう人かによる。システム化されてない属人的な支援だと、目をつぶって運を天に任せるつもりでないと頼れない。
どこかの国を旅行中、怪我をして病院に行きたいが、なんか病院っぽいものは見つかったが何科とかもわからないしそれ以前に医者なのか祈祷師なのかもはっきりしない…みたいな。
ふだん国内で病院に行くときはそんなフワフワしたものに身を任せるわけではない。保険とか医師免許とか臨床研究とか、バックグラウンドの仕組みを信頼している。
困窮者支援も同じで、いったん社会の一般的なレールから脱線しかかった人がどうにか身を立てるまでのリカバリールートをいかに具体的に示せるか、提供できるか。
そのシステム構築と運用のためのチームワークが死活的に重要。一つの団体の中の話じゃなくて行政や団体や個人、社会のチームワーク。そのために自分にできることはなにかと考えるべき。個人のスタンドプレーは自己満足の紛い物にしかならない。
「支援のための関係構築は難しい」という、それは支援の中身がはっきりせず信頼関係などできるわけがないのを糊塗しようとしてむりに非対称な(依存的な)関係を結ぼうとしている姿だったりする。信頼関係とは結果として生じるもの。