自分の生命よりも価値のあるものはない、自分が失われれば自分にとって体験できる世界は無になるので、自分が存在しない世界には意味がない。あらゆる概念よりも自分の命が大事である。
というのが物心ついてから成人するまで、一貫して自分の抱いてきた信念だった。だから、自分の生命をなげうって赤ちゃんを助ける母親、というのがまるで創作にしか思えなかった。そういう人もいるかもしれないが、いかにもリアリティのない作り話だろうと。母親の中の更に一部の特別に母性が強い人に限られた現象なのだと思っていた。
しかし30歳を超え、子どもが生まれた。そして40歳が見えてくると、節々で自分の人生の先が見えたように感じる瞬間がある。そんな時にふっと子どもをみると、この子の未来と引き換えなら別に今死んだとしても仕方ないかな、と当たり前のように感じる時がある。
すでにいくつか体のガタも出てきている。時折腰痛やら頭痛やら出てくるし、寝不足の翌日は明らかに仕事のパフォーマンスが落ちるようになってきた。仕事においても趣味においても、想像し得ないようなことが起きるというのは考えがたい。それに引き換え目の前の子には、手垢のついた表現だが無限の可能性がある。この子の人生に何が起きるか、どのような思考や信念をもつようになるのか何もわからない。
これは別に愛情とか大げさな話しではない。単純に、今からの自分の人生で起こりうる可能性に比べ、3歳のこの子の可能性が果てしなく広がっているため、普通に考えてそちらを優先するよね、という損得勘定である。であるのだが、しかし単純な損得勘定で自己の消滅を納得できるわけもなく、これが子の為に生命をなげうつ親の心の一端なのだろう。子どもを育てていると思いもよらない気づきが得られるのがなんとも面白いところである。
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