最近、今まで楽しかったことを心から楽しむことができず困っていた。
酒を飲むとか、風俗に行くとか、ギャンブルをするとか、物を買うとか、Youtubeを見るとか、ゲームをするとか、
そうした単発の快楽はたしかに楽しめるけど、それらの隙間をどう楽しめばいいのかがわからなくなってしまった。
また、単発の快楽も長続きしないようになってきた。昔はなんの違和感も持たずに一日中ゲームをする事もできたのに。
おそらく年をくって考え方が徐々に変わってきて、
一時的な快楽よりも連続的な快楽を求めるようになってきたのかなと思った。
なにか、大きく漠然とした快楽があって、個々の行動はその快楽に向かう一歩みたいな。
じゃあ、その大きく漠然とした快楽ってのは何だ、と考えたが、困ったことに何も思いつかない。
起業家や活動家のように人生をかけて達成したいテーマがあるわけではないし、幸い恵まれた家庭環境もあり、成功して大金持ちになりたいという渇望があるわけでもない。
ただこれは、ほとんどの日本人がそうだと思うし、悪いことだとは思っていない。
問題は、生き方をシンプルにしすぎてしまっていることなんだと、考えた。
ここ数年位は、個人として全ての物事を完結させられることを目標に動いていたような気がする。
生活面では、いつでも居住地を変えられるようになるべく物を持たないようにした。
また、他人に貸しを作らないように、物を借りたり手を借りたりはせず、極力金と時間を使って物事を解決した。
仕事面では、フリーランスとして独立した。クライアントと仕事をするときも、なるべく仕事面での付き合いに限定するように心がけていたし、友人知人からの仕事は受けないようにしていた。
まさに、システム開発におけるモジュール化の考え方とおなじで、なるべく依存性を廃して、自分個人を独立したモジュールに閉じ込めようと動いていた。
結果、自分に要求される行動が自分の短絡的な快楽だけになって、小さく単発的なものしか残らなかったのだろう。
もう少し関係している人間が多ければ、最小公倍数的な大きさの行動が要求されて、実現のための時間軸が広がり、連続的な幸せを感じられるのかもしれない。